2002年ちょっとひとやすみ  2003年ちょっとひとやすみ 2004年ちょっとひとやすみ  2005年ちょっとひとやすみ

  2006年ちょっとひとやすみ  2007年ちょっとひとやすみ  2008年ちょっとひとやすみ  2009年ちょっとひとやすみ

  2010年ちょっとひとやすみ  2011年ちょっとひとやすみ  2012年ちょっとひとやすみ  2013年ちょっとひとやすみ

2014年ちょっとひとやすみ  2015年ちょっとひとやすみ  2016年ちょっとひとやすみ  2017年ちょっとひとやすみ

2018年ちょっとひとやすみ  2019年ちょっとひとやすみ  2020年ちょっとひとやすみ  2021年ちょっとひとやすみ

  

最新号へ
21/01/01(No.1099)

▼新型コロナウィルスはこの一年世界をどん底に落とした。よく言われる「どん底まで落ちたら上昇に変わる」そう信じたい。この一年でたくさんの人が命を落としている。神のもとに受け入れられ、2020年ならではの苦しみを慰めてくださると信じる。
▼2020年に自分はどん底だったか?いや、まだそこまでではない。地面を這う、そこまでの苦しみを受けてはいない。だからこの恵まれた状況を、今年は還元したい。それと、地を這う苦しみ痛みを分かってあげられなかったことを謝りたい。



21/01/03(No.1100)

▼多くの人の前で見られる。それはすべてをさらけ出すこと。年末に修道会の神父様で長く海外で働き、教育を十分受けられない子供に学校を建て、多くの人の父担ってくれた人のドキュメンタリーを見た。
▼「裏も表も」さらけ出して生きる。それを公現の主日に学んだ。これから裏も表も司祭として生きる。



21/1/10(No.1101)

▼久しぶりに銀世界となった。長崎県内でも100件近くスリップ事故が起こったそうだ。私もかつて車がスリップして180度向きが変わり、青ざめたことがあるのでスリップ事故の恐怖は十分理解できる。
▼個人的には、私は「降る雪」をいつまでも眺めていることができる。雪を見ながらお酒を飲む「雪見酒」をぜひやってみたいとすら思う。たとえば2000m上空からこの雪が舞ってきた。それだけでも想像が膨らむではないか。



21/1/17(No.1102)

▼新型コロナウィルスの平戸市での感染が、連日報告されるようになってきた。まだ限定的だとは思うが、市内各地に飛び火する可能性はある。買い物に出かけるだけでも十分気を遣わなければならない。
▼2週間、主日のミサを止めることになった。ご多分に漏れず、平戸地区も医療体制が逼迫していて、私たちが集団行動をすることで、医療に負担をかけることになってはいけないという判断で、まずは平戸口教会と協調行動を取る。



21/1/24(No.1103)

▼教区長の通達があり、七地区ある長崎教区のうち六地区が「1月24日から2月7日までの公式の主日ミサを中止する」ということになった。残念だが、最大で90人にもなるミサ参加者が互いに接触する機会を作り続けるのは、いくら「礼拝だから」と言っても世間的には通用しないだろう。
▼長崎教区でただ一つ中止にならなかったのは上五島地区。今週も何とか、主日のミサが維持されると思っている。可能なら、上五島発の「ライブミサ中継」が届けばと願うところだが、無理は言えない。今はネットが活用できる時代。「本部事務局」だけが発信元になれる時代ではない。だれもが「福音の発信者」であってほしい。



21/1/31(No.1104)

▼政府が緊急事態宣言を11都府県に発出し、予定ではあと1週間でその期間が解除となる。確かに東京都は減少傾向にあるが、そう簡単に解除できるとは思えない。そうなると「延長」ということが考えられるが、いろいろ困ったことになるだろう。
▼平戸地区は2月21日に堅信式、佐世保地区の黒島教会は2月23日に耐震補強工事が完成して引き渡し式を予定している。もちろん教会のことばかり言うのは不公平だが、感染状況がよほど改善しなければ、緊急事態以外の県も困ることになる。自分のこととして、各自の努力を積み上げよう。



21/2/7(No.1105)

▼「長崎教区で一番売れる本は?」と聞かれて、何と答えるだろうか?「聖書?」売れているかも知れないが、「一番」ではない。人によっては黙想会のたびにこの本を買っていると思うが、何だと思われるだろうか?
▼それは長崎教区が発行している「祈祷書」だ。実際に手元に祈祷書が何冊あるか数えてみるとよい。3冊、4冊持っている人も珍しくないだろう。聖書は一冊も持っていなくても、である。来週に続く。



21/2/14(No.1106)

▼先週の続き。でもってこの祈祷書、読み返しているうちに疑問が湧いてきた。「ミサにあずかるを得ざるときの祈り」は、祈りのタイトルがもはや「ミサに参加できない事情をもつ人」が思い出せないだろう。むしろ「このような祈りをしてみたら?」という提案もすべきなのではないか?
▼ほかにも、かつての十字架の道行にあった格調高い文言「御肉は破れ、御血は流れて御力尽き、なおも御渇きは耐えたもうべくもあらず」も、今となっては理解できる人がどれだけいるだろうか?祈祷書を開いた時、「どのように祈るべきか」を学ぶことができる。それが今の祈祷書の使命だと思う。



21/2/21(No.1107)

▼葬儀が入った。霊名「マグダレナ」という方。マグダレナが「マグダラのマリア」だとすると、新約聖書の中でマリアに次いで際立っている女性だ。イエスの十字架上の最後を、遠くから見守り、復活の時、最初の証人になった。常にイエスの近くにいた生き方だ。亡くなった方も、ご自身がイエスの近くにいる生き方で、子供や孫をイエスに出会わせる生き方をした。
▼さらに亡くなった方は、先に息子さんをなくされた。イエスを先に失った母マリアと重なる。シメオンから「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2・35)と預言を受け、実際に十字架状の最後でその苦しみをささげる。亡くなった方は、マグダレナの模範と、マリアの模範を身にまとって、旅立っていく。



21/2/28(No.1108)

▼電車の中で財布から金を抜き取られ、窮地に陥る夢を見た。お札とクレジットカード、免許証、保険証まで抜かれている。駅で助けを求めようと途中下車し、駅の中に交番があったので助けを求めた。ところがおまわりさんは相手にしてくれない。財布がきちんとあるし、電車賃も間に合っている。作り話ではないかと。
▼身分証明ができなければ、信用もしてもらえないのかと、悲しくなった。どこを探しても身分を証明するものがない。困り果てている場面で目が覚めた。あれは何を伝えたかったのだろうか。「持ち物をあらためて確認せよ」ということか?一週間、思い巡らしている。



21/3/7(No.1109)

▼初聖体を受ける子供達の中に、少し遅れて洗礼を受けた子がいたので、4人の初聖体者のうち2人は私が洗礼を授けた子だった。自分が洗礼を授けた子が次の段階に進む姿を見ていると、時の流れを感じる。
▼いつかどこかで、洗礼を授けた子が堅信を受けたり、結婚したりするのを見ることがあるのだろうか。結婚する場面があるとすれば、25年前とか、30年前に授けた子供だろう。時間の流れは速いものだ。



21/3/14(No.1110)

▼およそ1年前、初聖体を延期した。新型コロナの「第一波」が襲ってきたからだ。都市部ではもっと早かったかも知れないが、3月下旬に、ミサなどの礼拝は中止となった。今年は少し状況が違っている。ただ一都三県は、まだ再開できないかも知れない。
▼1年前、最初の「公式ミサ中止」が通達された。心のどこかでは「思いがけず、時間を与えられた」と思ったりもしたが、遠足の前の日のような気分は1ヶ月中止になった中で吹っ飛んでしまった。次にミサが中止になれば、暗く沈んだ期間になるだろうと思った。
▼1年が経った。状況は少し改善している。そして心がけも、1年で変わってきた。初めて経験する困難を、まったく新しい取り組み、視点で乗り越え、学びとして次に伝えることを考えるようになった。どんな困難の中にも、私たちを新しくする材料が隠されている。



21/3/21(No.1111)

▼黙想会は説教師を招いて行うことが多いので主任司祭は接待に回る。さまざまなタイプの神父様と個人的に親しく会話する貴重な機会となる。司祭会議では見えなかった一面も見ることが出来、実り多い三日間であった。
▼期間中、火曜日が大荒れの天気だった。参加者の中にも、荒れた天気を嫌って遠慮した人もいたようだ。さらには新型コロナウィルスの影響もあったかも知れない。参加人数が私の予想よりも少なかった。来年は、通常開催といきたいものだ。



21/3/28(No.1112)

▼今年の聖週間がスタートする。受難の主日、予報では雨。外での行列は無理かも知れない。そもそも集団になる行動は控えるべきではあるが、密にならないように気をつけながら行列を行いたいのだが。
▼今年は、プリント代がかかったが全世帯に「受難の主日〜復活徹夜祭」の原稿を用意して配布する。説教だけの前撮りもする。教会新聞の主任司祭記事も。そしてそれらをYouTubeにアップしてみる。ミサの収録をアップしているが、ひょっとしたら説教のみの収録をアップした方が助かる人もいるのかな。



21/4/1(No.1113)

▼原則から言えば、「聖木曜日」に「聖香油ミサ」が行われる。ただ長崎教区は受難の火曜日に実施した。そしてミサの終わりには新司祭・銀祝・金祝・ダイヤモンド祝の司祭のお祝い式を簡素ながら実施した。
▼田平教会は、出身の神父様がダイヤモンド祝を迎えていたが、健康上の都合で出席できなかった。それで聖香油ミサ後に大司教館に住んでおられる師にお祝いを届けに行った。それと、田平小教区でもお祝いを計画したいと伝えると、師のほうから次のように提案があった。
▼「最後の奉公と思ってお願いしたいことがあります。召命のために話をする場を用意してもらえないでしょうか?」「もちろんです」と返事をして、持ち帰って検討したいと思う。平戸地区の子供達を招いてあげると、師の思いがさらに実を結ぶかも知れない。



21/4/2(No.1114)

▼聖金曜日の典礼の初めは、司祭が床にひれ伏す、あるいは祭壇に深く礼をすることから始まる。これは私の理解では、イエスの死に倣うことだ。中田神父は床にひれ伏すことを選んでいる。ただ中田神父が床にひれ伏す時の思いはその年によって違っている。
▼ある年は、司祭叙階式のときに床にひれ伏した時と思いを重ねていた。司祭に叙階されるとは、イエスの死により一致することだと考えていた。その当時を振り返りながら、床にひれ伏し、昨年の聖金曜日からこの一年、本当にイエスの死に一致しようとしていただろうかと振り返っていた。今年はどのような思いに重ねて床にひれ伏すのだろうか。



21/4/3(No.1115)

▼今年、受難の火曜日に行われた「聖香油ミサ」からの帰り、大司教館に立ち寄った時のこと。大司教館におられる「法務担当司祭」の司祭から声をかけられた。私からすれば雲の上のような存在の先輩司祭だ。その先輩が奇妙なことを私に言うのだ。
▼「中田さん。正直に言ってみて。何か隠し事をしてないか?」私も過去を追求されて何もホコリが出ない聖人ではないので、一瞬青ざめたが、次の言葉で吹き出しそうになった。「中田さんの頭、教区行事のたびに眺めているけれど、最近『うぶ毛』が生えてきてるよね?何かした?ひょっとして、ニューモ?」
▼「そんなの何もしてませんよ。ただ、シャンプーはたしかに変えました。」そう答えるとシャンプーを詳しく聞いてきた。そこで「コスモス」に買いに行って、プレゼントしようと思っている。突然聞かれたことが「頭髪」のことだったので、拍子抜けした。



21/4/4(No.1116)

▼今年の聖週間は苦労して過ごした一週間だった。昨年「受難の主日(枝の主日)」からちょうど公式ミサが中止となった。だから典礼行事はしたけれども最終の打ち合わせも無かったし、そもそも時間に終われる必要も無かった。
▼すると実質は2年ぶりの公式行事となる。だからてんやわんやだった。たとえコロナ禍であっても、礼拝だけは途切れさせたくないものだ。人間は忘れやすい生き物だから、一年あいだが開くと本当に思い出せなくなる。



21/4/11(No.1117)

▼脚本家の橋田壽賀子さんが亡くなり、すぐにあちこちのテレビ局が特集を組んだ。インタビュー番組の中で、「これまでひっきりなしに記事の依頼があり、それを断るのが楽しい側面もあったが、ある時からぱったりと記事の依頼が無くなった。その時に『あー、私は世の中に必要なくなったのかしら』と感じた」というやり取りがあった。
▼橋田さんの言葉から、「世の中に必要とされる」というのは生きる大きな原動力だと理解できる。世の中に必要とされているから頑張れるし、やりがいを持って生きている。それでも何かの変化で、今まで頼みに来てくれていた人が来なくなり、今までその人なりに与えられた「舞台」に立っていた人が舞台を降りる時もやって来る。
▼その時「もう生きている意味が無い」と感じるか、「もう一段高い要求が来た」と感じるかはその人次第だ。誰からも頼まれごとをされなくなった時、私はそれを受け入れることができるだろうか。受け入れることができるように、すでに受け入れている人に教えを請うことにする。



21/4/18(No.1118)

▼教会学校が始まった。ゆるしの秘跡を全体でおこなった。各クラスで習うことは違うが、「基本的な祈り」を理解すること、「神様を身近に感じる」そういうことを学んで欲しい、そういう始業のあいさつをした。
▼もう一つ、「神父様はふつうの日のミサで手伝ってくれる侍者が足りなくて困っています。眠れなくて、病院に行くかも知れません。こんな神父様を助けるために、ふつうの日に早起きできるお友だちはお家の人と相談して手伝ってください。」と投げかけてみた。
▼するとその場で、たくさんの子供が手を挙げてくれた。「本当に来るの?」と思っているわけだが、これが現実なら、今年度は侍者が多すぎて困るかも知れない。贅沢な悩みである。



21/4/25(No.1119)

▼教会の祈りを英語版で唱えるととんでもなく時間がかかる。最近夜更かしが辛い年齢なのに、教会の祈りを完了するために起きていることが多い。何だか本末転倒な気もする。
▼日本語版と見比べてすぐに分かることがある。共同祈願だ。共同祈願だから先唱があって応唱があるわけだが、ページがまたがる場合に応唱の表記法が違っている。日本語版ではページがまたがるとごていねいに次のページにも応唱を印刷している。
▼しかし英語版は、いっさいそんな気配りがない。ドライなのだと理解はするが、日本人の細やかさには感心する。



21/5/2(No.1120)

▼福岡の神学院には返せないほどの恩義がある。ここで育てられていなければ、私は司祭職にたどり着けていないだろう。その神学院にも、ここ数年、訪ねていない。今はどんな雰囲気になっているのだろうか。
▼今でも忘れない笑い話がある。規則違反をしてラーメンを食べに行き、後輩と約束していた時間に裏口に戻ってきた。合図をするはずが裏口のドアが勝手に開いた。何とそこにカナダ人司祭の教授が立っていた。「何をしていたんですか。」一緒に出かけた悪友はあたふたしている。
▼私はとっさにこう言った。「ゴミを捨ててきました。」夜10時にゴミを捨てに行くはずがない。しかしカナダ人教授は納得して「ボン、けっこう。それならよろしい」と通してくれた。「ボン」はフランス語。「良い」という意味。あたふたした悪友は司祭にならず、とっさにうそを言った私が司祭で良いのだろうか。



21/5/9(No.1121)

▼新型コロナウィルスの影響を心配し、4月29日からずっと教会敷地を柵で囲み、来訪者を立ち入り禁止にした。それでも道路に車を停め、柵を乗り越えて記念写真を撮って帰る人が後を絶たなかった。「注意されなければ構わない」「見つからなければ構わない」日本人の平均的な倫理観はこの程度なのだとよく分かった。
▼「この状態で、柵を越えてはいけない。」そう考えるためには、日本人の平均的な倫理観を超えるものが必要だ。キリスト教の倫理観はそのために一役買ってくれるのではないか。「誰も見ていない。だが神様が見ている。」



21/5/16(No.1122)

▼感染状況が非常に厳しくなっている。いずれ長崎教区内も、公式ミサが中止になるかも知れない。「外出はしたけれども、具体的な誰かと会ってはいない」こんなケースで感染するとしたら、もはやお手上げである。
▼ワクチンも、「飲み薬」になってほしい。体内に摂取するのが自分で出来るなら、どれだけ医療のひっ迫を緩和できるか分からない。医療のひっ迫で「命の選別」になるなら、その人はどんなに悔しいことだろう。今日何人が、命を危険にさらされるのか。命の危険にある人たちのために祈りたい。



21/5/23(No.1123)

▼「ご昇天・聖霊降臨は雨の祝い日」とは先人の教えである。そんなタイミングで「境内内外清掃」を組んだ。原稿を書いている土曜日の時点では、見事に夏の天気になっている。
▼晴れるとまた「熱中症」の心配があるが、今のところは大掃除が出来そうな天気だ。中田神父は去年覚えた「刈った草を旧茶園に搬送する」この手伝いで大掃除に参加しようと思う。



21/5/30(No.1124)

▼ネタばらし。第二奉献文の最後に「また、復活の希望を持って・・・」以下続く中に、次の文章がある。「なお、わたしたちをあわれみ、神の母おとめマリアと聖ヨセフ、使徒とすべての時代の聖人とともに永遠のいのちにあずからせてください。」この中に答えがあるが、分かるだろうか?
▼これは田平教会での説教。田平教会のミサ参加者を頭に描けないと解けない難問!答えは「ナオ」である(なお、わたしたちをあわれみ、・・・」)。古風な名前が他にも隠れているが(「タチ」とか、「オトメ[トメ]」など)、今回の正解は「ナオ」ということにする。



21/6/6(No.1125)

▼YouTube(ユーチューブ)で公式ミサのあるなしにかかわらず動画をアップしている。どこで見られているのかは分からないが、必要としている人がいることは確かに感じる。もう少し同じような取り組みがあればいいのに、と思うが、出来ないのかそれとも興味が無いのだろうか。
▼最近ミサ動画以外の動画の視聴数が増えている。目的を限定している動画なので、「これくらいの人数が視聴するだろう」と想定している視聴数を超えることがある。不思議な現象だと思っていたが、視聴数増加の思わぬ原因が分かった。
▼詳しい内容までは控えるが、きっとこのまま視聴数が増加すると思う。視聴数を意識しすぎるのは良くないが、これからも充実させる動機付けにしたい。



21/6/13(No.1126)

▼QRコード。見事に生活の一部になった。この前、学校説明会のポスターにも「詳しくはコチラ」と書いて、QRコード。これにはビックリした。
▼ただし、田舎の生活の一部になったか?と言われたら、まだまだと言わざるを得ない。田平教会の小教区報「瀬戸山の風」にも、主任司祭の記事にQRコードを埋めているが、すべての小教区信徒がこれを活用できる日はいつ来るだろうか。



21/6/20(No.1127)

▼今は司教様となられた先輩から、「最近広島カープの話が出ませんね」と声をかけられた。絶好調のチームを応援する先輩だから、余裕のコメントが出るのは当然のことだ。広島カープは交流戦で徹底的にたたきのめされ、今シーズンは「誰が個人タイトルを取るか」「FAで誰が流出するか」そんなささやかな話題しか残っていない。
▼交流戦はあまりにも痛かった。3勝12敗3引き分け。これで今シーズンは終わりだ。だが収穫も確実にある。キャッチャーとしてドラフト一位指名した中村奨成選手、初勝利が見えてきた玉村昇悟選手。そしてごひいきの小園海斗選手。この3人の成長ぶりを目を細めながら、今シーズンは辛抱して過ごそう。



21/6/27(No.1128)

▼国の重要文化財である田平天主堂の耐震補強工事には国・県・市・所有者が関わってくるが、現在の平戸市文化交流課の渉外担当の方は私と野球の話が合う。広島カープファンかどうかは分からないが、この前も「神父様、交流戦で今シーズンは終わっちゃいましたね」と言われ、「そうそう。完全に終わったね」と返した。
▼私は広島カープのファンではあるけれども、カープの歴代選手、カープの歴史まで掘り下げてのファンではない。私がテレビで観た範囲の選手しか知らないので、「江夏の21球」みたいな話では盛り上がることができない。
▼ところがこの文化交流課の担当者は実に詳しい。負けても負けても嫌いになれないカープの話をしながら、今年計画している耐震工事の事前の準備を着実に前に進めていこう。



21/7/4(No.1129)

▼「からし種」ではないが、植物が成長する様子は目を見張るものがある。ヘチマを司祭館の西日を避けるために植えてもらったが、毎日30cmずつ伸びて、先端は雨よけのひさしに着いてしまった。ひさしの先には蔓を伸ばす場所はないので、どのように伸びるのだろうか。
▼ツルムラサキという野菜をいただいた。こちらも葉をどんどん付けていくそうだ。「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(マルコ4・27)マトラ神父様が蒔いた種は、今も目を見張る成長を続けているだろうか。



21/7/11(No.1130)

▼ヘチマがいつの間にかぶら下がっている。かなり雨の日が続いたので、「緑のカーテン」を見に行ってなかった。「規格外のキュウリ」のような大きさだ。ヘチマだから、もっと大きくなると思っている。いつ頃収穫するのだろうか。
▼日頃お世話になっている女子修道会が抱えている「志願院」に田平教会から志願者が入っている。その志願院に「アイス代」を届けた。この志願院には前任地から志願者として入っている生徒もいて、縁のある志願者をねぎらおうと思って「陣中見舞い」である。
▼「アイス代」では味がない。そこでこう書いて渡してもらった。「イエス様をアイス」志願者にふさわしい添え書きではないか!アイスを食べて、涼しさを味わって、ますます「イエス様をアイス」志願者・シスターになってほしい。



21/7/18(No.1131)

▼ICレコーダーの話。この言葉を「あいしーれこーだ」と聞き取りしたなら、今回の話題は共感できるかも知れない。「ボイスレコーダー」とも言うが、今回は「ICレコーダー」と表記することにしたい。
▼この録音機器をある場面で推薦し、「ぜひ使ってもらいたい」と言った。しかし相手は「カセットテープレコーダー」をずっと使ってきた世代。「あいしー何とか」と言っている時点で話が伝わらない様子だった。「総理大臣のインタビューとかで、テーブルにずらっと並んでいる小さな機器が、ICレコーダーと言って録音するやつです」とあらためて説明した。
▼「それは分かりますが、今さらそんな複雑な物を使えと言われても困ります。」どこがそんなに複雑なのだろうかと思ったが、複雑と感じている人に「簡単だよ」と言っても伝わらない。どうやって、簡単便利な録音機なのだと納得させるか、しばし考えている。



21/7/25(No.1132)

▼今回の「祖父母と高齢者のための世界祈願日」の通達は、記憶では19日(月)に指示されたものであり、いくら何でも遅すぎる。評議会での検討も叶わなかった。なぜそういうことになったのか、本部や司教団、中央協議会の事情を知りたい。
▼教皇様のメッセージはとても温かみがあり、説得力がある。ただしかし、あの分量を真夏のミサ説教に代えて朗読してほしいと言われても素直に「はいそうですか」とは言えない。私なりに抜粋して読み上げた。それでも14分以上あっただろう。
▼継続する取り組みであるなら、慌てて指示するようなことにならない準備が必要だろう。しかしそれでも、できるだけ要請に応える努力はするつもりである。



21/8/1(No.1133)

▼自分には関心の無いことでも、別の人には重大な関心事ということもある。人間は一人として同じではないのだから、違う関心を持っている人を「あなたは間違っている」などと決して言ってはいけない。
▼しかし、頭でそうだと分かっていても、しばしば「あの人は間違っている」と言う。違いを受け入れたり、違いから何か収穫を得たり出来るかどうか。人としての成長がここにある。いつまでも違いを受け入れないなら、それ以上の成長はない。
▼新しい風は、いつも若い人からとは限らない。新しい風を取り入れようとするすべての人から来る。新しい風は、「新しいもの」ではないかも知れない。すでにあるもの、すでに知られているものということもある。違いを謙虚に受けとめるなら、すでに知られているものからも吸収して、新しくなれる。



21/8/8(No.1134)

▼オリンピックが最終盤になってきた。女子ゴルフの銀メダルを勝ち取った日本人選手は「イナミモネ」と言うそうで、私はすぐに、「あー、故郷に凱旋すると『お帰り!モネ!』と言われるんだろうなぁ」とひとり笑った。
▼これが話題になるのかは分からないが、物の見方として誰とも違う視点が欲しいとよく感じる。違う視点が、違う成長を与えてくれると信じている。同じ視点で同じ成長では、面白くないではないか。



21/8/15(No.1135)

▼マリア様を見たことはないが、こんな方だったのではないか、ということは想像できる。司祭でなくても、それは当然可能なことだ。中田神父が考えるマリア様は、「常に神に心を開いて生きている女性」という姿である。
▼神に心を開いて生きるなら、神の照らしを常に受け、必要な力も受けるに違いない。私たちはどれだけ神に心を開いて生きるかで、マリア様の姿に倣うことができるのではないだろうか。マリア様の模範は遠い雲の上の模範ではない。



21/8/22(No.1136)

▼いよいよ、長崎県でも県独自の緊急事態宣言が発令されて、これに呼応するようにして教区からの通達が出され、公開のミサが中止となった。今のところ期間は3週間。木曜日の典礼委員会に出席した時、メンバーの一人から「また、『聖書と典礼』など、配り物を用意しなければなりませんね」と声が上がった。
▼すぐに私の頭の中では考えがよぎった。「『聖書と典礼』を配るということは、それに合わせて説教案が必要になる。それはすなわち、21日までのうちに数週分を作らないといけない、ということか・・・。」
▼偶然、22日(日)の説教が木曜日に出来上がり、「今週は1回目のワクチン接種もあるし、早めにできて良かった」と思ったのも束の間、「金・土とあと2日あるのだから、配り物に合わせて説教を用意しなさい。あなたを遊ばせたりはしない」という「天からのしるし」だったのだろう。



21/8/29(No.1137)

▼ワクチン接種は予想以上に影響を受けた。2日間は腕が腫れたし、1週間経った今でも違和感がある。幸か不幸か、長崎教区は私がワクチン接種をした週から公開ミサが中止になり、その5日後には政府が長崎県を「まん延防止等重点措置」の対象に加えて、期間は9月12日までとなった。
▼実は9月11日が2度目の接種に当たっており、公開ミサの中止は9月6日までだったのだが、主任司祭の事情を加えて12日まで中止としていた。たぶん、後から公開ミサの中止が延長され、「予定調和」となるだろう。
▼ワクチンの影響は2回目が強い反応が出ると聞いている。1回目であの調子だから、2回目はどうなるだろうか。それにしても、ワクチンの影響を軽く考えなかったのは本当に良かった。ついでの話だが、公開ミサの中止が決まってから、説教は9月12日分まで、すらすらと書けた。不思議なものだ。



21/9/5(No.1138)

▼8月16日に毎年予定されている「生向(いけむこ)港に船を持つ組合員」による一斉清掃が、雨のため今年は28日(土)に実施された。8月16日にも行ってみたのだが、雨の中に組合長さんが立っていて、「今日は中止になりましたよ」と教えてくれた。
▼これまでいつも「不参金」を払って済ませてもらっていたが、今年こそは参加して責任を果たそうと思い、指定された28日の午前8時に出てみると、なんとご年配の方々がほとんど作業を終え、刈った雑草の片付けをしている。「お年寄りの行動を予測して早く出るべきだったか」と申し訳ない思いになった。
▼初めて、組合のメンバーに顔見せをして、正式に入会を認めてもらった。入会費を払い、これから利用させてもらうことになる。いっしょにもう一人、新メンバーが加わることが報告された。



21/9/12(No.1139)

▼長い道のりを人類は歩いている。新型コロナウィルス感染症はいつになってもゴールが見えない。たまたま目にした記事によると、WHOが「注目すべき変異株」に指定しているのは「デルタ株」の後も「ラムダ株」「ミュー株」「カッパ株」「イータ株」など、次々に現れているそうだ。
▼「コロナの後の教会」を時々考えることもあったが、新型コロナウィルス感染症はしばらくは終わらないのだと考えを変える必要がありそうだ。いろんなことに影響が出てくる。本気で、教会はどこに向かって歩めば良いのか、知恵を集めなければならない。



21/9/19(No.1140)

▼日曜劇場「TOKYO MER」を楽しく観させてもらった。統率された指示系統のもとで適切な判断をし、迅速に患者の処置をする。必要ならその場で緊急手術を行う。ドラマとは言え、緊迫した現場をよく表現して、惹きつける内容だった。
▼あの番組と比べているわけではないが、田平教会の役員達も引けを取らない。「現場でこんな問題が起きました」「○○さん、××を準備してください」「了解」「念のため、□□の準備もお願いします」「□□も確保の目処が立っています」「では取りかかりましょう」こんな感じ。
▼ここで主任司祭の仕事。「医師の北見と言います。大丈夫ですよ〜。心配ないですからね〜」と周りを安心させる。それが仕事か。それぞれが自分の持ち場を誇りを持って全力で当たる。そうすればどんな場所にも「TOKYO MER」が成立する。



21/9/26(No.1141)

▼釣りに行くとほとんどと言っていいほど日焼けして帰ってくる。日焼けを気にすることは決してないが、最近「日焼けで疲れる」こちらの方が気になってきた。翌日以降、日焼けで疲れが残るようになってきたわけだ。
▼「日焼けで疲れを残さない」そのケアを思いがけず教えてもらい、鏡を見ながら実行してみた。これが予想以上に気持ちが良い。日焼けを沈めてくれ、翌日にも疲れが残らなかった。翌日精力的に仕事をして、一日を終えた時に「あ、疲れが残っていない」と実感した次第。



21/10/3(No.1142)

▼教会の外観見学が10月から可能になった。すぐに観光客が聖堂をバックに(言い方は良くないが)写真を撮っている。「観光客が頻繁に来る教会の日常がまた始まった」そう思った。
▼タイミングを同じくして、「教会式の結婚をしたいのですが」と電話がかかってきた。「カトリック教会は、聖堂をお貸しするだけ、というような結婚式は承れませんよ。勉強会を受けてもらうことになりますよ」と伝えると「それでは勉強会もお願いします」と言うので、話を詳しく聞いてみようと思っている。



21/10/10(No.1143)

▼今年は南の海水温が例年になく高い。平均水温よりも1度か、それ以上高い。そうなると台風が発生すると勢力が増し、上陸すると甚大な影響を及ぼす危険がある。
▼「水温が1度上がったくらいで」と思うかも知れないが、私が見たニュースでは0.1度単位で上昇温度を調査していた。それはつまり、0.1度違うだけでも影響があるということだろう。
▼司祭館はいくつかのガラスに養生テープを貼っている。台風14号の前に貼ったものだ。心の中では「台風来てない時はテープが気になるなぁ」と思っているが、もう一度、あるいは二度、台風が来ないとも限らない。



21/10/17(No.1144)

▼昔書いたことがあるかも知れない。100歳を迎えようとしている母親の葬式を出すことになった喪主が、司祭館に電話してきた。「聖堂に飾る花は、教会は何組まで受け付けるか?」「だいたい一対でしょうね」続けてこう尋ねてきた。「一対でいくらぐらいね?」「値段もいろいろでしょう。交渉してみたら?」何だかおかしいと思い始めた。
▼「曖昧なこと言わずに、はっきりいくらか教えてくれ」「私は分からないから、花屋に聞いてくれ」すると慌てた声で「え!おたくは花屋じゃないとね?」「司祭館の神父だよ」「失礼しました」そこで電話は切れた。この時中田神父は「皆に仕える者」「すべての人の僕」になれていただろうか。
▼久しぶりに雨が降っている。ずっと雨が降らなかったので、きっと喜ぶ人もいるだろう。



21/10/24(No.1145)

▼ここにも、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んでいる人がいる。セ・リーグ3位のチームは残り2試合、4位のカープは残り5試合。「何をしほしいのか」「先生、クライマックスシリーズが見えるようにしてください!」今日から数日、この叫びを上げながら過ごすことになる。
▼それにしてもエンジンの掛かりが遅かった。オールスター明けに、やっと調子が上がってきた。オールスター前は「今年は終わったな」と暗い顔をしていたが、後半戦は別人のように選手が活躍し始めた。ただぬか喜びは禁物で、メジャー挑戦の話題が上がっている選手がいて、目の前の5試合に集中してくれるのかの心配もある。
▼結果はどうなるか分からない。3位のチームが最後を2連敗して球団ワースト記録を残してくれれば、カープにはわずかだが光が見えてくる。光が見えたら、今まで以上に「なお道を進まれるイエスに従った。」



21/10/31(No.1146)

▼大阪から懐かしい親子が訪ねてきた。かつては田平教会の名物おじさんだったので、田平の多くの人が知っている。しばらく談笑し、時間が戻った感じだった。田平教会の恩人。
▼前晩のミサを収録し、また録音して「動画の製作」「ミサ録音CD製作」をしていたが、最近の動画撮影カメラは優秀なのでそちらの音声を「録音CD製作用」に回してみた。遜色ない音源だった。
▼これまで両方用意して、両方編集していたわけだが、ちょっと無駄な労力だったかも。時間は24時間と限られている。無駄に時間を失いたくないので、これからは撮影の際に収録された音源をそのまま録音CDに使っていく。



21/11/7(No.1147)

▼天気予報を見てボートで海に出た。午前9時まで風は「穏やか」の予報、10時から「4メートルの風」となっていた。実際その通りで、9時半まではほとんど風を感じなかった。ところが9時45分になると突然風が北西から吹き込むようになり、景色は一変し、ボートが流され始めた。
▼ふだん、予報を割引して都合の良いように受け取っていたが、今回のことで天気を甘く見てはいけないと身に染みて分かった。今月死者の月で、5・6年生の子供達と自分に関係する先祖の墓地を訪ねて回り、先祖に祈りをささげた。母方、父方、両方の墓を確かめられた子供もいて、役に立ったと思う。



21/11/14(No.1148)

▼24時間しか1日はない。「寝る時間を削って」というのもそんなに若くないから難しい。すると、「時短の工夫」しかない。
▼どこで時短ができるか、本人はなかなか気付かないものだ。これまでミサ動画の作成と音声のアップをしてきたが、それぞれ「アクションカメラ」「ICレコーダー」と別々に素材を用意して作成していた。
▼しかしそれはよく考えると作業が二重になっている。アクションカメラの素材から音声も取り出せば、時短になるわけだ。これに気付くのに一年以上かかった。



21/11/21(No.1149)

▼試練は遠くにあるのではなく、ごく身近にある。それを考えさせられた数週間だった。神はなぜ、二度も三度も急死した人の葬儀を私に背負わせるのだろうか。そんな思いに押しつぶされそうだった。
▼王であるキリストの祭日が、この状況を救ってくれた。説教を考える中で、最終的に気付いたのは「どんな重荷を背負ったとしても、それはひとりで背負っているのではない。イエス・キリストが共に背負っておられる」ということだった。
▼季節がいよいよ冬に傾きつつある中、急死する人と続けて向き合ううちに、この務めの重さをつくづく考えた。それでも、重いけれども、担う価値のある十字架である。



21/11/28(No.1150)

▼「しまむら」で以前パンツを買った。紺色の生地に、「白くま」が全体にデザインされていた。ある時そのパンツを見て、お尻のあたりの「白くま」が消えていることに気付いた。
▼私はこう考えた。「あー、洗濯のしすぎで白くまのプリントが消えたのだろう。まめに洗濯をするのも善し悪しだなぁ。」そのことを洗濯をしてくれている賄いさんに何気なく告げたら反論された。
▼「プリントが薄くなって消えたのは、神父様が釣りにしょっちゅう行って、堅い木の椅子に座るからです。洗濯のせいではありません!」真偽の程は分からないけれども、「白くま」の消えたパンツを今日も履いて過ごしている。



21/12/5(No.1151)

▼洗濯をしている風呂場の脱衣場から悲鳴が上がった。10m以上離れている居間にも響いた。何事かと見に行くと「神父様、毛虫が!」という。指差す先を見ると、確かに「毛虫」のようなものが見える。
▼つまんでみたら実際には毛虫ではなく「毛玉」だった。なぜ毛玉が洗濯物に紛れ込んだのだろう。洗濯物の中身をよく見ていてそれが分かった。冬物の「靴下」から、毛玉がこぼれたのだ。本人にはかわいそうだったが、よくよく見ると靴下の毛虫もなかなかユーモラスである。



21/12/12(No.1152)

▼洗濯をしている風呂場の脱衣場から悲鳴が上がった。10m以上離れている居間にも響いた。何事かと見に行くと「神父様、毛虫が!」という。指差す先を見ると、確かに「毛虫」のようなものが見える。
▼つまんでみたら実際には毛虫ではなく「毛玉」だった。なぜ毛玉が洗濯物に紛れ込んだのだろう。洗濯物の中身をよく見ていてそれが分かった。冬物の「靴下」から、毛玉がこぼれたのだ。本人にはかわいそうだったが、よくよく見ると靴下の毛虫もなかなかユーモラスである。



21/12/19(No.1153)

▼寒波がやって来た。17日(金)夜、「あられ」で路面が真っ白になり、耐震保修工事委員会は延期しようということで来週になった。委員の皆さんには予定の調整などでまた苦労をかけ、申し訳なく思っている。
▼教会のイルミネーションは見に来る人を引き寄せている。点灯したその日の晩、カップルの声が聞こえた。カップルには申し訳ないが、はしゃいでいる声がとても気になる。この時期だけの特別な誘因だと思って、大目に見るしかないか。
▼年末、妹夫婦の子(甥っ子)と会うことになっている。長く会っていないので、相当たくましくなっていることだろう。楽しみだ。そして同時に、母親である妹の信じている神様を少しでも感じさせるまたとない機会である。



21/12/24(No.1154)

▼早めに原稿を用意したのは良いが、当日に近くなるに従って「どうもこれではないなぁ」と感じ始めている。というのも、その後「クリスマスカード」をメッセージ付きで作ったらこちらの方がよりましなように見えてきたのである。以下の通り。
▼主の降誕のご挨拶を申し上げます。2年にわたるコロナ禍で心も身体も弱り果てている私たちに、神様は今年も「暗闇を照らす光」を与えてくださいました。
▼小学生の頃、母親と一緒に五右衛門風呂の風呂焚きをそばで見ていたことがあります。小さな枝に火を付け、次第に大きな枝が足されてしっかりした火となり、その火が薪に移ります。
▼しかし目を離せば、薪も燃え尽き、火は消えてしまいます。適宜薪を足さなければなりません。(主の降誕日中のミサの「ちょっとひとやすみ」に続く)



21/12/25(No.1155)

▼夜半のミサ「ちょっとひとやすみ」の続き。これをそのまま夜半のミサで話したほうが実感がこもっているのかも知れない。
▼「様子を見ながら、薪を足しなさい。」そう言われて親はその場を離れたりしていました。子供だった私は黙って火の番をするのは退屈でしたが、その「手伝い」がなければ風呂は沸きません。
▼「手伝うこと」。これは愛の火を消さないためにできるわざです。手伝ってくれる人は、付き合いが広ければ広いほど集まるでしょう。
▼気の合う人だけでなく、気の合わない人、時には敵にも、付き合いがあれば力を貸してくれるかも知れません。救い主は、神の愛の火を消さないために「敵」をも愛するためにおいでくださいました。



21/12/26(No.1156)

▼クリスマスに大変な思いをした。協力してくれる人を2人確保してようやく目的を達成した。田平教会は聖堂内に人数制限をかけているので、ざっと100人入ればあとは遠慮してもらうしかない。
▼ただし、あぶれた人を収容するために、「リモート会場」を設置している。神学的には、リモート会場の参加者はミサ聖祭の恩恵のすべてを味わっていないかも知れないが、現状では苦肉の策である。リモート会場でミサにあずかり、聖体拝領が始まったら聖堂に移動して聖体拝領をする。
▼リモート会場設置のための機材は中田神父がネットで情報を集め、用意した。聖母被昇天以来と思うが、いざ中継された映像を確認するとノイズだらけでとてもまともに見ることができない。いろいろ調べた挙げ句、中継ケーブルを張り替えることにした。
▼すると嘘のようにノイズが消え、正常な映像となり、クリスマスの夜を迎えることができた。100m近いケーブルの張り替え、協力者がいなければとても達成できなかったと思う。ミアナムニダ。






ページの先頭へ