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10/01/01(No.453)

▼今年も、長いお付き合いになりますが、どうかよろしくお願いいたします。昨年のちょっとひとやすみで1度書いたが、ケガをしないような体づくりを考えないといけないとつくづく思っている。
▼特に、腰に不安を感じた昨年だったので、今年は腰の筋肉強化が課題だ。素人なので何をどうすればということは見当付かないが、少し負荷をかけながら、1ヶ月ずつ故障なしで過ごし、その継続が1年になればいい。
▼昨年、仕事を遅らせないということを目標に取り組んだ気がするが、今年も同じ目標で行こうと思う。つまり、昨年うまく目標をクリアできなかったということだ。1年でクリアできる目標でもないが、もう1年取り組んで、失敗を繰り返さないようにしたい。
▼今年は、思いがけないことで同窓会が組まれている。高校の同窓会だ。高校の同窓会が、すべての同窓会の中でいちばん可能性が低いと思っていたので、驚いている。同級生で、元神学生のM氏が、まめに連絡を取ってくれて、まとめてくれた。
▼この同窓会には高校の担任だったN先生が来ることになっている。英語の先生だ。この先生の影響で英語を真剣に学ぶことができた。そういう話ができるのかどうか知らないが、楽しみにしている。自分1人だけの思い出なので、賑やかな場では無理か。
▼同級生は有り難い。こちらがそれほどの付き合いだと思っていなくても、向こうが声をかけてくれる。人は、1人では生きていないとしみじみ思った。自分も、誰かからそう思ってもらえる人になりたい。



10/01/03(No.454)

▼最近、「自分へのご褒美」という言葉をよく聞くようになった。初めて聞いた時は、「おかしなこと言うなぁ」と思ったものだが、これまで自分が買い求めてきた物が、「自分へのご褒美」ではなかったかと思うと愕然とする。誰かにプレゼントを頂くことはあっても、誰かにプレゼントすることはほとんど無い。
▼それなのに、年間を通してみると実にたくさんの買い物をする。買い物も、よく考えて大切に遣う者は少なくて、試しに買ってみるものが何と多いことか。買ってはみたけど、開けてもいない物さえある。これを読んでいる人は、腹を立てている人もいるかも知れない。
▼そんな中でも、「役立ったなぁ」と思う物もある。1つ例を挙げると、「CD−Rの空ディスク」だろう。最近は、50枚入った「ケーキ型」のCD−Rディスクが、1000円位で売られている。1枚にすると、50円。この50円のディスクで、いろんなものをプレゼントすることができた。誰かにプレゼントすることはほとんど無いと言ったが、撤回。
▼日曜日のミサの収録。目の不自由な人が、毎週20人聞いてミサの補いとしているそうだ。ミサの説教だけの収録。メルマガの読者や、説教集「取って食べなさい」の読者に、声のプレゼント。黙想会の説教。さまざまな機会での写真。かなりの物が、CD−Rディスクが安価になったおかげでやり取りできるようになった。これはどれだけ買っても無駄にはならなかった1つだろう。
▼さんざん、浪費癖について自戒の念を込めて書いたわけだが、それでも浪費癖は直りそうにない。今年はノートパソコンを買い換えたいと思っている。今持っているノートパソコン、能力的に不満を感じていて、ストレスを感じることが多くなった。現在のパソコンはどうなるかというと、再就職が濃厚。再就職先は、ノートパソコンを買いたくても買えない人を考えている。
▼今年は、数字のおもしろい瞬間に少し関心を持ってみたい。平成22年。すると、22年2月22日2時22分22秒という瞬間が成立する。この時間に起きているのか疑問だが、ほかにも何かのキリ番があれば、このコラムにでも拾ってみたい。



10/01/10(No.455)

▼正月休みを取って五島の新上五島町鯛ノ浦に帰省した。小教区の主任司祭にお許しをもらい、福音朗読のあとに短い説教をした(1度、長く話してしまった)。その中でついでに話したことだが、えらくシスターに受けたのでここで書いておきたい。
▼五島産業汽船に乗る前にもっとも頭を悩ますのは、当地の主任司祭と修道女たちにどんなお土産を買って帰るかである。ほかには悩みはないと言ってもよいくらいだ。今回は、あまり季節感はないけれども、ハウステンボスの福袋を買って帰った。
▼長崎から帰るのに佐世保のハウステンボスのお土産というのはいかにも変だが、「わざわざ買ったのよ」みたいな雰囲気はあると思ったのでそう決めた。中身は、ソーセージとか、チーズとか、お菓子の詰め合わせだったと思う。個人的には、福袋そのものが、ハウステンボスオリジナルのトートバッグなので、役に立つと思って買ったつもり。
▼お土産も買い込み、ようやくこの日1便だけ出航した最終16時の便に乗り込む。すると自分の目の前に、違う小教区の若い主任司祭が座っている。「よぉ」と言うと「おぉ」と答える。先輩風吹かせるのは、こんな時だけだなぁ。
▼鯛ノ浦に到着すると、シスターがターミナルに立っていた。おー、渡りに船ということで、声をかけてお土産を預ける。「しすたー、修道院に戻るよね。これ、お土産。」白いベールのシスターだった。これで仕事が1つ減った。主任司祭の分は明日のミサの時でもいいか。そういうことで自宅に直行した。
▼翌朝、眠い目をこすりながら、ミサに行く。もちろん主任司祭へのお土産も忘れない。手渡しして祭服に着替え、いざ祭壇に出てシスターたちに目を遣る。そこでわたしは凍りついた。誰も、白いベールなどかぶってないではないか!ではあのお土産を受け取ったのは、どの修道院のシスターだったのか?
▼唖然として、説教でも何をしゃべったのか思い出せないくらいだったが、ミサが終わって祭壇の片付けをしに来たシスターに、恐る恐る尋ねる。「シスター。修道院に、お土産とか来てなかった?」
▼尋ねたシスターがビックリしたように答えた。「神父さま、受け取ったのはわたしですよ。確かにいただきました(笑)」脅かすなよ〜。でも白いベールの謎は?そのことも聞いてみると、「養護施設では、看護士みたいな全身白い修道服を着るのですよ。」そっかぁ。
▼そんなオチを、翌日の説教の枕に話したら、シスターたちが笑い転げていた。この手の話が面白いのだとしたら、わたしは笑いのツボを押さえていないに違いない。そんな話は馬込教会ではしないからだ。それとも、笑いは土地によって違うのだろうか。



10/01/17(No.456)

▼長崎南山高校3年4組の同窓会。個性的なメンバーが集まった。当時、こんなに面白い人間が集まったクラスだったとは見抜けなかった。集まりの幹事を務めてくれたK君は、自己紹介の時に、「僕は、54人のクラスの中で成績は52番でした。でも、こうしてみんなの集まりの幹事を務めることができました。誇りに思います」とあいさつした。
▼夜6時の集合だったが、15分遅れで部屋に通されると、あー、懐かしいなぁという顔ぶれが集まっていた。2人、もと神学生も参加していた。そこに入った時、わたしはみんなに「わい、誰や?」とはっきり言われた。「中田やけど・・・」「中田?卒業写真のどれや?」「真ん中」「わから〜ん。わからんぞ。だいたいお前、神父になるのを諦めたはずだぞ(実際そうです・・・)」と、ずいぶん手厳しい歓迎を受けた。
▼担任だったN先生。当時28歳で担任になり、30歳でわたしたちを卒業させてくれたのだが、先生はまったく変わってなくて、むしろ若さを保つ秘訣を、教えてもらいたいくらいだった。「いやー、中身はずいぶん変わったんだよ」とは仰っていたが、少なくとも集まった卒業生の2人(K君とY君。特にY君はつるっぱげ)のほうが、担任の先生よりも老けて見えた。
▼ほとんどが結婚していたが、O君は今にいたっても1度も結婚していないという。どちらかというと、色男で、いくらでも女性が言い寄ってきそうな顔立ちだったが、結婚していないとは意外だった。一方で、H君は2度離婚し、今は1人だそうだ。きっと波乱に満ちた歩みだったのだろう。
▼同級生の中には、時々連絡を取り合っていた連中もいたようだが、わたしはほとんどの人と25年ものあいだ、1度も会っていなかった。会話が弾んでいる頃に、隣の席の人に向かって「もしかして、N君?」と恐る恐る聞いてみると、「1時間しゃべって、今気付いたとや?」あまりの記憶のなさに、申し訳ない気持ちになった。こちらは相手のことを覚えてなかったが、当時のわたしを鮮明に覚えてくれていた人が1人いて、思いがけない優しさに触れて、感激した。
▼高校の同窓会は、絶対に成立しないと、勝手に思っていたが、意外や意外、最初に成立したのが高校の同窓会。幹事のK君は「これから2・3年後の同窓会には、全員呼び出したいです。必ずなし遂げます」と、心から3年4組を愛していたことが伝わってきた。友だちって、いいなぁ。高校3年4組、万歳!



10/01/24(No.457)

▼この「ちょっとひとやすみ」の部分だけ、「Candles」(http://cand.jp/)というサイトに毎週アップしている。まさか反応があるとは思わず(最初はなしのつぶてだったので)、コメント書き込みの有無を気にせずに1年ほどアップし続けていた。
▼ところが、最近になってところどころコメントが書き込まれた日があることに気付いた。今さら、コメントに返事を書いても遅いのでどうにもならないが、返事もせず、申し訳ないことをしたなぁと思っている。
▼書き込みしているらしい人は数人で、わんさか盛り上がっている状況ではないが、生き生きとした声が届いていることは嬉しい限りだ。ちなみに「Candles」のわたしの日記の書き込み(つまり「ちょっとひとやすみ」のこと)に立ち寄っているらしい人は、かなりの人数いるようである。
▼かまってもらうというのは、本当に有り難いことだ。その人の周りには輪ができるという人も中にはいるのだろうが、わたしはまったくそういう人間ではない。それでも、かまってくれる人がいるおかげで、ここまで続けられたと思っている。加えて自分自身が置かれている環境が時々変わるので(転勤とか)、心機一転を計ることも出来、助けられている。
▼ほんとうに一匹狼という存在は、世の中そんなにいないのだろう。どんな人も、良き理解者を得て、その人に助けられて、一匹狼を主張できているのではないだろうか。それが正しいとすれば、自分もその例に漏れないと思っている。感謝したい。



10/01/31(No.458)

▼NHKの「プロフェッショナル」はよく見させてもらっている。すべて鵜呑みにしてはいけないだろうが、こんなすごい人もいるんだなぁと感心する。説教に出て来た寿司職人は、好みはあると思う。ある人にとっては「愛想がない」と言われているのも確かだ。まぁ、無愛想はこうじ神父も変わらないので、これで説教の点数が下がるのであれば、それまでだと思うしかない。
▼今日の録音説教は、今日の内にはアップできないかも知れない。というのは、今日は主日のミサを3つ捧げた後、違う教会に行って葬儀ミサをしなければならない。実は土曜日から、「葬儀ミサ→命日祭のミサ→別の通夜」と過ごしてきている。この説教を書き上げたのも夜中だ。葬儀ミサから帰った頃はきっとクタクタで、当日の内には録音説教をアップできないかも知れない。
▼助けてあげたい、と思う人が今心に浮かんでいる。このメルマガにも目を通している人だ。わたしのありのままが、その人にどのように伝わるか分からないけれども、元気を出してくれればいいなぁと願うばかりである。なかなか、一匹の羊を捜して、九十九匹を残して行こうとしない。まことの羊飼いが実行した態度を、なかなかそのまま生きることができない。本当に弱い人間。いつも自分の弱さに打ちのめされる。
▼昨年末から楽しみが増えた。洗礼を希望して、2組の大人が訪ねてきて、勉強会が始まっている。洗礼を受けて、配偶者と同じ信仰を、共に歩んでいく決心をしている。たくさんの勉強は難しいかも知れないが、配偶者の協力を期待しながら、羽ばたけるようになる所まではお世話したいと思う。
▼念のため断っておくが、羽ばたけるまでのお世話しかできない、あとはわたしがいなくなると言っているわけではない。それは誰にも分からない。今日この時点で言えることは、誰も、何も、打診は来ていないということだ。2月に入るので、必要な人にはそういう通知が来るのだろう。そんな季節がやってきている。



10/02/07(No.459)

▼司祭研修会。先輩方は底抜けに面白い。1日目の夕食の時、ある先輩がこう言った。「世界の主要な国が集まって開く会議を知ってるか」周りの後輩司祭たちは答えた。「サミットかなぁ」「ほかには?」「うーん、G7とか」「それそれ。G7とかがあるよなー。うちの小教区の評議会はいつも『爺20(twenty)』ぞ」
▼これにはたまらず、素で笑い転げてしまった。ただ、笑わされて終わりでは後輩たちも面白くないので、ある司祭がこう切り返す。「婆、が評議会にいる時は、どうなるんですか」。これも強烈な反撃だ。すると先輩は「婆がいても爺20なの。細かいこと言うな」。研修会はセクハラ、パワハラ、人権問題の研修だったが、先輩に「いちいちうるさい」と言われ、パワーに圧倒されてその話題は終わった。「爺20(twenty)」は不適切な用語かも知れない。
▼話はこれに終わらない。「長崎こども・女性・障害者支援センター」の所長の講義を受け、「うつ病は脳内のセロトニンやノルアドレナリンが減少している状態。携帯電話が極度のバッテリー切れを起こしている状態。だから、用心して活動するのではなく、生きる最低限のこと以外何もしないで、充電することが必要です」とアドバイスしてくれた。
▼それを聞いた後の夕食。また別の先輩が、「あー、難しか講義ば聞いて、バッテリー切ればい」とこぼした。その先輩は続けてこうも言った。「バッテリー切れの時は、何もするなと言うとったよなぁ。そんなら、明日の分団会も、全体会も、休まんばやろー」。おー、そう来たか。
▼わたしたちはバッテリーが切れても、快復しない病的なバッテリー切れではない。だから、朝起きれば、ちゃんと活動に入ることができる。先輩の道理は通用しないと思うが、面白い発想だと諸先輩方にあらためて敬服したのである。ただ、うつ病になると、気分転換も良くないらしくて、本当につらいのだなぁとはっきり分かった。



10/02/14(No.460)

▼バレンタインデーが来た。すでにチョコをちょこっともらい、かじりながらこの原稿を書いている。自慢するわけではないが、司祭になりたての頃、赴任した教会で助任司祭として勤めた5年間は、段ボールを用意しないと入りきれないほどのチョコレートをもらっていた。1年目は嬉しかったが、2年目以降は「お返しが大変だぁ」と思いながらもらっていた。
▼今は、本当に気持ちのある人しかチョコレートを渡してくれない。義理で渡している人は誰もいないと思う。そういう意味では、今もらうチョコ、今食べているチョコがいちばん有り難い。このチョコは、わたしがお返しすることなど当てにしないで、送ってくれているチョコだ。そんなチョコで、またも幸せ太りするのはこれは罪かも知れない。
▼「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6・3)とある。わたしには、そういう施しをしている自覚がある。毎週日曜日、ミサの様子を録音してCDに収め、あるボランティア団体に届けている。
▼彼らが受け取って、それを渡している人が誰なのか、わたしはまったく知らない。受け取っている人も、わたしのことを見たことがない。わたしと、その人々は、会ったことがないが、ずっと会っている。見えない施しである。この島にいる人は、わたしのこの活動をだれも知らない。
▼ほかにも、幸いなことにだれにも何も知られていない働きを抱えている。ちょっと白状すると、書く仕事だ。それらはある時大きな負担になることがあるが、今続けることができているのだから、断る理由はない。知らない人が読んでくれて、たまに思いがけない場所で「○○を書いておられる神父さまですね」と声をかけられる。有り難い話だ。
▼ほとんど知られなくても構わない。世の中の人が、すべての仕事が陽の光を浴びるわけでもないのだし、自分も同じで構わない。たくさん、陽の光を浴びない仕事をして、陽の光を浴びる役回りの人に明け渡せばいいことだ。そうやって、道のない所に道を作るのも楽しいものである。
▼ただ、たまに1人では荷が重いなぁと思うことがある。単純作業なのに、協力者が得られず、自分1人で悪戦苦闘している。効率悪いなぁと思う。この点、今の分量を続けていくためには協力者が必要になってくると思う。うまいこと、協力者が見つかるといいのだが。
▼とは言っても、思った時に声をかけて手伝ってもらえるような、余裕のある人はそんなにいないだろう。島には、余裕のある人がたくさんいるが、余命はたくさんないようなので、お願いできそうにないし。これは悪い冗談だが、協力者の必要は強く感じている。



10/02/21(No.461)

▼十分承知のことだと思うが、インターネットには「通信速度」によって恩恵の度合いが違ってくる。私は1992年司祭になると同時にパソコン通信を始めたと思うが、その頃のモデムは2400bpsとか、今となっては繋がっているのが奇跡というような通信速度だった。文字をやり取りすることが最大の目的で、画像をやり取りするなど、想像もできなかった。
▼それから10年ほどであっという間に速度は向上した。写真をメールに添付してやり取りできるようになったのだ。通信回線も、一般電話回線から、ISDN、ADSL、ついには光ケーブルまで普通の通信回線として利用できるようになった。とは言っても島暮らしの私には、光ケーブル回線は今でも「夢のまた夢」である。
▼現在の暮らしは、2年前にISDN回線がようやくADSL回線に切り替わり、もはや、ISDN回線の生活には戻れないと思っている。ところが、実家に帰ると、いまだにインターネット回線がISDNのままになっている。「こんなに遅くて、不便を感じないか?」と、実質の家長である次男に聞いても、「これで不都合は全くない」のだそうだ。
▼ちなみに、実家は申し込めば高速ADSL回線も届く地域である。「設備更新の費用だったら、自分も負担するから、切り替えないか」としきりに持ちかけるが、「必要ない」の一点張りである。私は里帰りするたびに、動画も観ることができず、録音説教も途切れ途切れになる環境に辛抱を強いられている。
▼弟は「何も不便を感じない」と言う。私は「不便きわまりない」と言う。そこで一歩引いて考えてみる。不便だと感じる分野は、いついかなる時にも必要な分野だろうか?録音説教、動画。考えようによっては、この分野から撤退しても、活動できるのではないだろうか。録音説教も動画も、すばらしい手段ではあるけれども、メルマガとしては、文字があればひとまずは成立するのではないだろうか。
▼高島に移動すると、携帯電話が通信を確立するくらいの速度で最小限の事を済ませている。遅いなぁと思うけれども、現状でも耐えられる。満足はしないけれども、耐えられる生活。これくらいの生活が、人間にとっては幸せなのではないだろうか。
▼こんなことを書いていて、ようやく聖パウロの言葉を思い出した。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」(フィリピ4・11-12)



10/02/28(No.462)

▼気分が乗らない。「先輩。それはないでしょう」と頭が思ってしまうと、それを打ち消すのは不可能に近い。こういうのを、「人間の働きの中に神の隠れた計画を見る」と言うのだろうか。本当に言うのか?まぁ、言うのだろう。
▼「これこれの状況なので、Aさんが兼務している1と2の任務のうち、2をわたしが引き受けます」「では、Aさんにはその旨伝えましょう。」これで話がまとまったのだと思った。翌々日、電話が掛かってきて、「Aさんは、1を降りて、2を引き続きしたいと言っているよ。だから、あなたと両方で、2の務めを果たしても問題ないよね」
▼問題があるからAさんには1を残して、2はわたしに回してほしいと言っているのに、Aさんにまんまと丸め込まれて上のような電話である。相手は先輩というだけなので、「何も分かってないなぁ。こういう事情を考慮すれば、はいそうですかとおめおめ戻って来ることできないはずでしょ」と一喝してもよかったのだが、まあ先輩だから、ていねいに説明した。
▼すると、「そんな事情だったのかぁ。じゃあ、もう一度説得してみるよ。」そんな事情だったのかって、そんな事情も分からないのかいと言いたい。でもこの、さじを投げたくなるような現実の中に、きっと神の見えない計画が隠されているのだろう。結果として、Aさんは1の任務を引き受けることになるだろう。
▼それは、粘り強い交渉の結果と言えなくもないが、神が粘り強く交渉することをわたしにお望みだったのだと考えられなくもない。まぁそう考えれば、神さまの考える一手は奥が深いなぁと思う。すべてのことについて、神は奥の深い一手を打つのだと信じたい。



10/03/07(No.463)

▼ワンキン、ツーキン、スリーキン、フォーキン、ファイブキン、シックスキン、セブンキン、・・・あとはご想像にお任せします。このカタカナのオチが分かった人は、メールアドレス k.nakada@bridge.ocn.ne.jp までお便りください。「意味が分かりません」という人も、メールください。答えは来週分かります。
▼2月14日バレンタインデーの日、「説教本文」に「ちょっとひとやすみ」を加えて自費出版した本が出来上がった。1冊3700円、限定10冊なので、何人かの人にしかプレゼントできない。だいたい1年半で1冊にまとめている。今回がシリーズ5作目ということになる。メルマガも8年続いた。
▼説教にも書いたが、ここまで何かしらを継続してくると、「自分を中心にして生きる」人間になる可能性が高い。「わたしのしていることは正しい」「わたしのしていることを誰にも文句言わせない」そんな、「悔い改め」の必要な罪人に、自分で自分を仕立ててしまう危険がある。
▼「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2・20)この言葉の意味は分かるけれども、この言葉を生きているかと問われれば、そうでもないとしか答えられない。「わたし」を無にするのは、なかなか難しい。いつまでたっても、わたしを忘れられたくないからだ。
▼来週、女子のミッションスクールに黙想会指導に行くことになっている。原稿はできているが、自分の言葉で話せるまで、もっと読み込む必要がある。担当する学生は高校2年生。多感な時期の生徒たちに、わたしの思いは伝わるだろうか。



10/03/14(No.464)

▼天使のお告げに答えたマリアの言葉。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)。単純明快な答えの中に、主に対する尊敬と従順の完全な姿が示されている。マリアの答えをすばらしいと思いながらも、簡単ではないよなぁと今さらのように声に出してしまう
▼長崎教区内の異動は、女子修道会から先に始まる。そのあとに司祭の異動が続く。時には自分自身の異動が決まっているのに、修道女たちを見送ったり、迎えたりしなければならない。この修道女たちも、「お言葉どおり、この身に成りますように」と自分に言い聞かせているのだろうなぁと思うと、最近は胸が詰まる
▼公表すべき日が明示されているけれども、どうしても評議会の議長にだけは心の準備をしてもらうべきだと判断して、自分は異動するのだと伝えた。腰を抜かしていた。しかし、その議長はやっとの思いでこうわたしに返事した。「み言葉どおりに成りますように」。小教区のために、たいしたこともできなかった主任司祭だったが、愛されていたことがよく分かった
▼マリアも、一言だけは天使に尋ねている。わたしも、一言だけは尋ねてみた。返事も受け取った。そしてこう理解した。「司祭は、愛される場所に、いつも派遣されていくものだ」と。だから司祭は、後ろを振り返らず、新しい任地に出かけて行く。



10/03/21(No.465)

▼(説教では名前を出したが)女子のミッション校の黙想会に行ってきた。こういうお手伝いも、しばらくはお休みということになろう。行ってみると、2学年同時に黙想会が組まれていたようで、前任地だった太田尾教会の主任司祭も応接室に通されていた。
▼黙想会のテーマはそれぞれなので、待ち時間に話題には上らなかったが、実は2人とも上五島に転勤するという共通のテーマがあり、そのことで待ち時間は盛り上がった。どちらも上五島は初めての赴任、どういったことが想定されるだろうかとああでもない、こうでもないといろいろ話して話題は尽きなかった。
▼わたしたちの待ち時間に、わたしの受け持ちの生徒が1人、司祭のいる応接室に通されて来た。聞けば、浜串教会から高校生活をミッション校で過ごしなさいと親から勧められたらしく、下宿して学んでいる生徒だという。「神父さまがおいでになると聞き、あいさつに来ました。よろしくお願いします。」かわいいなぁ。あいさつに来るのだから、立派な生徒なのだろう。
▼高校2年生に話した内容は、近いうちにホームページに掲載しようと思っている。身近な所に、宝物があることを、「開く」と「喜ぶ」という言葉を鍵に考え抜こうというものだった。経験上、高校2年生はいちばん扱いが難しい学年だが、よく話を聞いてくれて、さすがだなと感心させられた。中には問題を抱えている生徒もいるのだろうが、わたしには全員まぶしい生徒たちだった。
▼深夜に説教など書くものではない。集中力は続かないし、考えも途切れ途切れになる。金曜日、もっと言えば木曜日に、とっかかりを見つけておくべきだったなぁ。反省しています。この反動で、日曜日はノビノビ太だろうなぁ。でも夕方5時には、大明寺の評議員会だ。なかなか厳しい世の中だ。



10/03/28(No.466)

▼浜串小教区での生活をイメージしてみる。真っ先に思い浮かぶのは、主日のミサ。向こうでは、土曜日夕方5時に最初の主日のミサが始まる。引き続き夜6時半からもう1つの主日ミサ。明けて日曜日、朝7時から最初の主日ミサで、最後は朝9時のミサで終わる。
▼4つも主日のミサをすることになる。多いなぁ(泣)。もしも、この上にさらに日曜日に葬儀ミサとか入ったらどうなるのだろう?わたしには想像できない。しかし、現実にはあともう少しでその生活に飛び込むことになる。まだ、心の準備はできていない。
▼平日のミサも、ものすごく複雑。ここには書かないが、現状の「木曜日朝だけ、巡回教会のミサ」というふうにはならないらしい。わたしは前任地で、週の半分を巡回教会で、週の半分を本教会でという過ごし方をして、「もうやってられない!」と「頭の中でさじを投げた」経験がある。日程表とにらめっこしているが、どうやらそれ以上のようだ。
▼人間は移動しながら落ち着いた仕事ができるとは思えない。旅から旅に移動して暮らす羊飼いは、本能的にそのような環境でも落ち着いた仕事ができるようになっているのかも知れないが、わたしはそういうタイプの人間ではない。だから、一週間を旅回りのように暮らすのであれば、もはや何かを全力で追い求めるというのは断念せざるを得ない。
▼もちろん、現代の文明の利器は可能な限り使わせてもらうが、それでも1つのことを考え抜いたり、追い求めたりすることがどこまでできるのか、多少の心配はある。あるいはそういう固定観念も捨て去って、「世界一周旅行の豪華客船で●年間の旅に出た」と考えればよいのだろうか。
▼まだ、イメージが涌かない新生活。「案ずるより、産むが易し。」「大変らしいよ〜」も、「百聞は一見にしかず。」まぁ、蓋を開けるまで箱の中身は詮索しないでおきましょう。



10/04/01(No.467)

▼今週から、婦人会の手伝いを依頼して、引っ越しの片付けを急ピッチで進めている。とは言っても、こうじ神父が「あ、それはちょっと待って」「あ、それはわたしがチェックしてから」といろいろ注文つけるものだから、さっぱりはかどらない。
▼そうは言っても、何も見ないで箱に入れるのを許すと、びっくりするようなことをするのでなかなかすべてお任せというわけにはいかない。それでも、わたしの目の届かない所で箱の中にどさっと入れて、はみ出ているのを無理矢理ガムテープで締め上げて箱に蓋をして、「一丁上がり」とやっている人もいた。性格がよく表れる。
▼10年ぶりに、テニスを再開することになりそう。かつて、20代後半から30代前半にかけては、先輩たちとテニスをするという口実で、先輩たちをコートの隅から隅まで走らせて、ある種の「しごき」をおこなっていた。
▼ふだんは先輩に口答えなど決してできない後輩たちが、テニスコートでは鬼コーチのように先輩を走らせる。コートの右端から左端、ネット際からベースラインへ。「先輩、届くはず!」「先輩、まだ若い!」そう言って無茶なボールを拾わせていたのだが、今度は立場が逆転する。要するに、わたしが「しごかれる」ことになるわけだ。
▼それは覚悟している。それが、長崎教区の先輩後輩の伝統なのだから。そして、このしごきに耐えなければ、後輩に遊んでもらえないし、その地区に仲間入りさせてもらえない。それくらい、この「儀式」は大事なのだ。少なくともわたしは、そう思っている。



10/04/02(No.468)

▼今年も十字架の道行きを地域を縦断するようなルートで行列して祈った。このやり方はエルサレムの復活教会へ十字架の道行きをして歩いていくやり方をまねてみたものだが、少し慣れてきたのか、祈りが始まるまで私語が聞こえていた。
▼本来なら、「お静かに」と言ってあげたい所だが、本当に気持ちのある人がいたらしく、「静かにして」と言って、みんなに心の準備をさせていた。そう。もうわたしに頼らずとも、今何を準備しなければならないか(静けさを作るべきという意味)、分かってくれている人が育ってきた。これなら、わたしは心配なく旅立って行けるというものだ。
▼読者のみなさんには、「聖木曜日の珍事」を話しておこう。わたしたちの教会では洗足式を聖木曜日の典礼の中に積極的に取り入れることにしている。毎年、12人を選んで、「12弟子を準備して」洗足式に臨んでいる。
▼ところが、今年はハプニングが起こった。わたしはまったく気づかなかったのだが、何とメンバーは13人いたそうだ。何人もの人から「神父さま、今年は13人並んでたですよ」と言われた。まったく知らなかったが、12人集まるだろうかと心配していたその思いは全くの杞憂に終わった。もしかしたら、今年の洗足式で13人の足を洗ったのは、全世界でわたしたち馬込教会だけだったかも知れない。
▼今日は二階の部屋に大々的に片付け部隊が突入した。5年振りだろうか、床が真っ平らになり、テレビ台がテレビだけ載った状態になった。こんなの、一般の人にとっては当たり前のことか。突入した部隊の先頭にいたのは、なぜかすべて目を閉じてガサッとバサッと箱に投げ込むご婦人だった。気が気ではなくなり、午前中はまったく説教に手が付けられなかった。



10/04/03(No.469)

▼聖金曜日、受難の典礼が夜7時から執り行われ、それが8時過ぎまで続いた。お茶を飲んで、お腹を少し温め、それから復活徹夜祭の説教を書いた。まだ、現時点でも「受難の主日から復活の主日までをまとめたパンフレット」にこだわっているからだ。
▼明日の午前中、うまくいけば復活の主日の説教ができあがる。すると、午後からパンフレットの作成に入ることができる。去年のパンフレットの利用者から、「文字が小さかったかな」という言葉を頂いたので、今年はそのことにもちょっと気を配ろうと思う。
▼そう言えば、今年の十字架の道行きで1つ発見があった。地域のいちばん端から、道行きをすることは話したと思うが、立ち止まる場所(第○留)はある信徒の手作りである。よくできているなぁと感心して眺めながら、わたしは道行きの祈りをリードしているから、ずいぶん気が散っているわけだが、面白い手書きの留を見つけた。
▼それは第六留である。現代語で作成された「道行き」には、「第六留 イエス、ベロニカより布を受け取る」というタイトルが付けられている。今年までの6年間、わたしはずっとそのつもりで見ていたのだが、よくよく見ると、微妙に違っていた。「ベロニカ」が、「ペロニカ」になっていたのである。
▼これは、以前メルマガ第327号に書いたのだが、"INRI"を"INORI"とすり替えた墓石に匹敵する面白い誤表記だと思った。ペロニカって、どんな女性だったのだろうか・・・。あまりからかっちゃいけないか。



10/04/04(No.470)

▼御復活おめでとうございます。いよいよ話す場面も少なくなってきたので、打ち明け話を。転勤の内示が出た次の日。もちろんこの時点でわたしのほかにだれも転勤の事実を知らないのだが、早朝のミサを終えて食堂の椅子に座ると、例の調子で賄いさんが鼻歌を歌った。その日によっていろいろ歌う歌も違うのだが、この日は選曲が悪すぎた。

別れることは、つらいけど
仕方がないんだ君のため
別れに星影のワルツを歌おう
冷たい心じゃないんだよ
冷たい心じゃないんだよ
今でも好きだ、死ぬほどに

▼あまりの選曲の悪さに、わたしはせつなくなり、二階に上がって気持ちが落ち着くのを待った。すると、「おつゆが冷めますよ〜」とさらに追い打ちを掛けてくる。あ〜。知らずに歌っているとは言え、何とも無邪気な人だ。
▼ついでに言うが、この島に唯一入っていた銀行が、この6月で撤退することになった。賄いさんが「大波止まで行ってお金をおろすなんて、納得いかないわ」と言うので、「ゆうちょ銀行のATMでも、○○銀行のカードを持ってるならお金おろせるでしょ」と言うと、「またまたぁ。わたしをからかおうったって、そうはいきませんよ。何で銀行のお金を、ゆうちょでおろせるんですか。そんなはずがないでしょう。」
▼だんだんムカッときはじめていたが、やめとこうと思いつつも、「ゆうちょの窓口で尋ねてみたら」と助けてあげたつもりが、「いくら年寄りだからって、窓口に行ってまで恥をかかせるつもりですか」と言われてわたしもキレてしまった。その後の顛末は省略するが、大波止まで往復するお金を、わたしへの慰謝料として払って欲しい気分である。
▼そしてこの話の最後のオチ。どうやらゆうちょの窓口にいる馬込教会の信者の優しいお嬢さんが、「ゆうちょATMでも○○銀行カードでお金をおろせるんですよ」と実際に説明して教えてくれたらしい。得意になって賄いさんが帰ってきてこう言った。「神父さま、ゆうちょのATMで○○銀行のカード使えましたよ。いやぁ尋ねてみるもんですねぇ。」もはや反論する気力を失った。



10/04/11(No.471)

▼6年前の歓迎会を思い出した。にぎやかな歓迎をしてもらった。今回の送別会も、にぎやかに送り出してくれるそうだ。「だそうだ」と書いたが、実は仕掛け人は自分でもある。「今週の一枚」にもある通り、余興の中でドレスを着ることになっている。いちおう、「花嫁」の設定である。
▼なぜ花嫁かと言うと、余興の中で「瀬戸の花嫁」ならぬ「馬込の花嫁」を歌って、送り出してもらうことになっているからだ。以前にも、長崎本土の教会から離島の教会に転勤になった時、「瀬戸の花嫁」を歌ったことがあった。その再現である。
▼歌詞も考えている。次の通り。

1.馬込 日暮れて 夕波小波
浜串教会へ お嫁に行くの
離島とだれもが 心配するけれど
釣りができれば 大丈夫なの
イセエビ イトヨリ さよならするのよ
シスター 婦人会 行くなと泣いた
信者だったら 泣いたりせずに
次の主任を 大事にしてね

2.岬まわるの 九州商船が
馬込大明寺 遠くになるわ
波止場の向こうで 見送る人たちに
別れ告げたら 涙が出たわ
島から島へと 渡ってゆくのよ
五島でこれから 生きてくわたし
馬込 夕暮れ 明日も晴れる
司祭の門出(かどで) 祝っているわ

▼1週間後には、新しい場所での生活が始まる。戸惑いと、期待。そんな中で、何か自分がお役に立てそうな場所を見つけて、根を下ろそうと思う。司祭は、種蒔く人に種蒔かれ、根を下ろし、いつかまた植え替えられていく。植え替えのその日まで、すべての人に注がれる神の恵みを受けながら、日々を過ごしたい。



10/04/18(No.472)

▼今、4月15日木曜日の夜12時10分。あと9時間ほどで、伊王島を後にすることになる。説教にも書いたが、旅立ちの説教と、着任早々の説教は、ずっと前から練り始めていた。理由は2つあって、だんだん押し迫ってくる時期だから、説教をゆっくり考える暇はなくなるだろうというのが1つ。
▼もう1つは、配信をするにも、次の任地に金曜日に着任して、もしも土曜日にネットが開通してなかったらどうする?という心配があった。だから、早くから構想を練って、印象に残る説教をして、送ってもらって受け入れてもらう。ずいぶん計算高いが、確実に旅立ちの説教と着任の説教をこなし、配信するためにはそれしかなかった。
▼この2週間で、わたしの苦手な部分も見えてきた。「感謝を示す」ということだ。6年半、お世話になった賄いさんに、感謝のしるしをあげるべきだ。また、見送ってくれる伊王島の人々に、感謝のしるしを示すべきだ。そして最後に、これからお世話になる浜串の人々にも感謝のしるしが必要だ。
▼そうした、配慮の不足しがちな点を、幸いにもそっと教えてくれる人がいた。送別会のとき、「お父さんたちだけじゃなくて、後ろのお母さんたちにも、話をしに行って。」とてもありがたい忠告だった。「浜串のシスターたちに、お土産買って行ったら?」これも、うっかりすると忘れそうな部分だ。素直に忠告を受け入れた。
▼まだ、この原稿を書く時点では実感はない。すべてがガラリと変わり、行ってすぐにバリバリ働き始めなければ追いつかない。うーん、ちょっと不安があるけれども、イエスがきっと、下を向きそうになるわたしを勇気付けてくれるに違いない。「ほんなごてや?」「ほんなごったい」



10/04/25(No.473)

▼「灯台もと暗し」とはよく言ったもので、いちばん面白い人はいちばんそば近くにいた。毎日何か面白いことをしてくれるが、今日はその中から1つだけ。これは浜串教会の中ではすでに知れ渡っていることなので、今さら「どうしてあのことを書いたのですか!」と言われることもないだろうと思っている。
▼実は司祭館のお世話をしているシスターなのだが、この前浜串の集落に降りて来る長い長い下り坂の途中で、車をいったん停め、あらためて車を動かそうとした時に車が少し前進してしまい、運悪いことに溝にタイヤを落としてしまった。大雨に見舞われた19日のことである。
▼車は傾き、格好としては犬が電柱にマーキングをするような形で車は動かなくなった。そこへ、主任司祭の乗った車が通りかかった。本来この日は、上五島地区の司祭会議のあとであり、わざわざ浜串に向かっていたのはどうしても手元に持っていたい資料を置いてきていたためだった。
▼マーキングのポーズをした軽自動車を発見。わたしはこう考えた。「あー、どこの父ちゃんが車を溝にはめたのだろうか。飲んで運転するから、こんなことになるんだよ。自分も忙しいし、何とか自力で脱出してね」そう思ってその場を素通りした。
▼ところが司祭館で資料を鞄に入れている間に、先の事故は飲酒運転事故でないことが判明した。シスターが車を溝にはめたのだと、ことの顛末を話して聞かせてくれた。運転の途中で休憩が必要になり、路肩に車を停めて一休みし、また運転を再開しようとしていた矢先だったらしい。ほんの僅か、車が前進し、溝に落ちたのだという。
▼どうやって犬のマーキング状態の車から降りたのかは不明だが、わたしが通り過ぎたあとに傘を差して道路を下り、船員さんたちに窮状を訴え、船員さんたちがよってたかって車を取り巻き、溝から出してくれたそうだ。
▼まさに、聖書の「善いサマリア人」のたとえを絵にしたような場面だった。主任神父は「道の向こう側を通って行った。」(ルカ10・31)ほかにも車が何台か、昇ったり降ったりしたらしい。そして最後に助けてくれたのは、漁協の父ちゃんたちだったのである。シスター、知らなかったとは言え、申し訳ありませんでした。



10/05/02(No.474)

▼会議で長崎に出ることになり、ついでに伊王島時代にお世話になった賄いさんを含め個人的な人と夕食をすることにした。賄いさんは食事も喉を通らないほどだったらしいが、わたしと会って安堵したのか、集まった中でいちばん食べて満腹になった。
▼五島を出発する際、伊王島での賄いさんへのおみやげに、五島のお土産でいちばん大好きな「ちゃんここ」を買って行った。上五島・奈良尾のターミナルには売店が2軒あって、そのうちの1軒に立ち、「ちゃんここの(小)を2つ」と頼むと、店のご婦人が「最近転勤してきましたよね」と声を掛けてくれた。
▼何だろうと思って、16日にターミナルに集まってくれた人たちを全員置き去りにして高井旅教会に行ってしまったのだと話すと、「えー知ってます。ターミナルの人たちは慌てて横断幕を仕舞って、追いかけたのですが、つかまらなかったみたいでした。」そうかぁ、売店でも有名人になってしまったんだなぁと思い、ひとしきりおしゃべりした。
▼火曜日の夕食、伊王島時代の賄いさん含むメンバーで、現在の賄いさんも毎日楽しいぞぉと話をしたら、自分と同じような人がいるんだとわかって興味を持って話を聞いていた。遺伝子の型が、きっとこのお2人は似ているに違いない。
▼話をしてなかったかも知れないので、ついでにもう1つ。17日(土)の夕方、主日の前晩のミサをした時のこと。初めてのミサでもあり、戸惑いながらミサを終えた。もちろん、右に行ったり左に行ったり、右往左往してミサを終えたのだが、侍者をしてくれた兄弟のうち、中学生のほうがわたしにこう言った。
▼「神父さま、あまり、ミサに慣れてないようですね。」これには参ったが、いちおう切り替えしておいた。「うん。これから勉強するけん。」この出来事は、わたしの記憶の中で一生忘れることはないだろう。そして、一生涯語り継がれる出来事となるだろう。



10/05/09(No.475)

▼ゆるしの秘跡を受ける人のために、告白場に座って待機していた。どやどやどやと人が入れ替わり立ち替わり入ってきた。5人くらいいただろうか。すべて男性だった。途中、3人目か、4人目で考えた。「なぜ、今日は男性ばかりやって来るのだろうか。」
▼考えているうちに気がついた。今、3週間海の上で命を削って働いていた男たちが、1週間の休みのために陸に上がっている時期なのだと。長崎教区では教会祝日表というのを独自に編纂しているが、この長崎教区版の祝日表には旧暦も掲載されている。その4月と5月を見てみると、なるほど、旧暦の15日を挟んだ時期になっていた。
▼このタイミングでしかゆるしの秘跡に与れないお父さんたちだったのだなと思うと、もう少し早くそのことに気付いて、早めに告白場に座って、待ってあげればよかったなと反省した。もちろん、次の時には早めに告白場に座って、わたしも人を獲る漁師になるつもりである。
▼告白を済ませた男たちは、今日5月5日朝に船に乗って東シナ海へと出航していった。聞けば、魚釣島(尖閣諸島の1つの島)周辺まで漁に出るらしい。沖縄と台湾の中間あたりの場所である。3週間、海に出たままの厳しい仕事。わたしが小学生の頃は父は27日間連続だった。
▼そんなことも知らずに、3日間しかない子供とふれ合う時間を、子供であるわたしは面倒くさがって逃げ回っていたことを思い出した。可哀想なことをしたなぁ。今日は5月5日。命がけの漁場に行く父親を、今の子供たちはどんなふうに見送ったのだろうか。



10/05/16(No.476)

▼こんなに不愉快なことがあるだろうか。インターネット環境が劣悪だったのが、金曜日の工事で劇的に変化した。それは文句なしにありがたいことだったが、この作業にやってきたプロバイダーの業者の態度は、お世辞にも良いとはいえなかった。
▼「お客様のプロバイダー設定はこれです。」1枚の紙を渡され、そう告げられた。その紙を見ると、メールアドレスがすでに決め打ちされて用意されていた。しかも、名前を読み間違えて、間違ったフリガナから作成していることがバレバレだった。「tnakata@****」と、設定表には書かれているのである。
▼「これ、何ですか?わたしの名前はナカダコウジだから、普通に取ってもknakadaのはずでしょ。」そう言うと「あれっ?テルジさんじゃなかったですかね?」とこともなげに言う。カチンときた。「申し込みにフリガナまで書かせて、挙句に間違うわけですか。冗談じゃない。このメールアドレスではわたしは承知しませんよ。」
▼ここまで来れば、普通のサービススタッフなら、「申し訳ありません」と言うに違いない。ところがこのスタッフたち、2人とも「ダメですかね。」と言うだけで決して謝ろうとしない。腹が立って、「そんなことが許されるのか。」と食ってかかった。
▼これに対しても、「じゃあ、設定を作り直して、今晩メールで届けますので、今日はこの設定表で」と言う。あくまでしらを切るらしい。「サービスしてやってるんだ。これくらい我慢しろ」といった高飛車な態度は最後まで変わらなかった。
▼乗り換えるプロバイダーがあるなら、突っ返してやりたかったが、ほかに選択肢がないので文句を言いつつも受け入れた。わたしも心の狭い人間だと思うが、フリガナ書いた申込書を見もせずに、しかもメールアドレス作成にあたって相談もないのはいかにも不親切ではなかろうか。交渉の末に、今回利用することになったプロバイダーのメールアドレスは、k.nakada@tubaki.ccとなった。



10/05/23(No.477)

▼こんなに不愉快なことがあるだろうか。インターネット環境が劣悪だったのが、金曜日の工事で劇的に変化した。それは文句なしにありがたいことだったが、この作業にやってきたプロバイダーの業者の態度は、お世辞にも良いとはいえなかった。
▼「お客様のプロバイダー設定はこれです。」1枚の紙を渡され、そう告げられた。その紙を見ると、メールアドレスがすでに決め打ちされて用意されていた。しかも、名前を読み間違えて、間違ったフリガナから作成していることがバレバレだった。「tnakata@****」と、設定表には書かれているのである。
▼「これ、何ですか?わたしの名前はナカダコウジだから、普通に取ってもknakadaのはずでしょ。」そう言うと「あれっ?テルジさんじゃなかったですかね?」とこともなげに言う。カチンときた。「申し込みにフリガナまで書かせて、挙句に間違うわけですか。冗談じゃない。このメールアドレスではわたしは承知しませんよ。」
▼ここまで来れば、普通のサービススタッフなら、「申し訳ありません」と言うに違いない。ところがこのスタッフたち、2人とも「ダメですかね。」と言うだけで決して謝ろうとしない。腹が立って、「そんなことが許されるのか。」と食ってかかった。
▼これに対しても、「じゃあ、設定を作り直して、今晩メールで届けますので、今日はこの設定表で」と言う。あくまでしらを切るらしい。「サービスしてやってるんだ。これくらい我慢しろ」といった高飛車な態度は最後まで変わらなかった。
▼乗り換えるプロバイダーがあるなら、突っ返してやりたかったが、ほかに選択肢がないので文句を言いつつも受け入れた。わたしも心の狭い人間だと思うが、フリガナ書いた申込書を見もせずに、しかもメールアドレス作成にあたって相談もないのはいかにも不親切ではなかろうか。交渉の末に、今回利用することになったプロバイダーのメールアドレスは、k.nakada@tubaki.ccとなった。



10/05/30(No.478)

▼五島に来てみて、離島であるがゆえにインターネットが割と普及していることに驚いている。先週の説教(録音)で触れたが、五島の人から「ブログ見てますよ」なんて言われるとはつゆほどにも思っていなかった。ここから今回の話は広がって行く。
▼5月23日に、新上五島町の観光課?の方々と、町長以下お偉い方々と、上五島地区の司祭団が席を交える機会があった。わたしは転勤して間もないので責任ある立場ではないのだが、自由な話が始まったときに、1人のカトリック信徒の方が隣に座り、「ブログ、素晴らしいと思います」と、共通の話題を取り上げてくれた。名前は明かせないが、「紳士服の店」にそういう名前があると思う。
▼この人はネットにも十分通じている人で、わたしにとっては本当に話がしやすい人だった。この人を通して推測するに、五島のような離島では、ある世代までは十分にネットの恩恵を受ける環境にいるが、受けられずにいるのではないかと感じるようになった。
▼手前味噌で申し訳ないが、メルマガを受信できる環境にある人、ブログをケータイで閲覧できる環境にある人は、相当数に上ると感じた。実際、遠洋漁業に従事している世帯では、海上で命を削っている人も、その無事を願って家にいる人も、ケータイを持っていてメールで連絡を取り合っている。こうした人々は、こういうものもありますよと教えてあげれば、もしかしたら関心を持ってくれるかもしれない。
▼世界広報の日の教皇のメッセージは、司祭たちにもっとインターネットに代表されるような現在のコミュニケーションの道具を自由に使えるようになってほしいと切に求めていた。まだまだ、使えてよさそうな世代の人々が、たくさんいる。まだ使っていないかもしれない人々もたくさんいる。
▼こうした人々を通して、何とか内に外に、発信し続けていけないものだろうか。5月30日、浜串教会では聖母行列を行ってからミサに移っていく。この様子を動画に収めて、世界に発信できればどんなに素晴らしいことだろう。



10/06/06(No.479)

▼もしかしたら、日曜日の説教を配信する相手が、一度も見たことのないネットの向こうの人々だけでなく、すぐ近く、足元にいるかもしれない。そう感じたのは、小教区の広報委員会の中での会話だ。意外と近くの人が、この「ちょっとひとやすみ」を読んでくれていることが分かった。
▼そうなると、当然配信されている説教本体の部分も、読んでくれる可能性がある。希望が出てきたので、メルマガを読んでくれるように、案内のチラシを作ることにした。難しくならないように作ることが難しいが、何とか読みやすいチラシにしたいと思う。
▼メルマガを受け取る人が高齢者である場合、繰り返し読み返すことができるというメリットがあると思う。自分自身でもよく分かっていることだが、説教で話したことを、1度聞いただけでそのまま理解し、消化するというのはほとんど不可能である。
▼1度聞いただけで理解できる話をしろと言われそうだが、どんな話でも2度3度聞き直したり考えたりして、「こういう意味だったのかなぁ」と分かるものが多いのだから、聞き直すため、読み直すためにメルマガを受け取るのは十分メリットがあると思う。
▼どんな反応が来るだろうか。まったくの空振りに終わるかもしれない。まぁ、それはそれで、次のチャンスを探そう。上五島にはたくさんの、潜在的な需要があると見込んでいる。この町でうまくいかなかったら、次の町だ。きっと、必要としてくれる人に巡り合うに違いない。



10/06/13(No.480)

▼人間の目にはくっきりはっきり見えているのに、機械の目ではそうでもないという経験はたくさんあると思う。すぐに思いつくのはデジカメ。夕暮れに、「司祭年閉年ミサ」のため浦上教会へ向かう信徒・修道者の様子を「今週の1枚」に収めてみたのだが、6月10日、午後6時25分で、すでに人間の目と機械の目とでは歴然とした差が出た。
▼人間の目では、浦上教会への丘を登っていく信徒の群れがはっきり見えていて、「おー、これは教会に急ぐ信徒のすばらしいショットが撮れるぞ」と思っていたのだが、実際にはショボい写真しか撮れなかった。
▼これが浦上教会聖堂内になるとますます差が開く。肉眼では確かに見えている典礼の儀式が、デジカメで撮影すると真っ暗な画像になってしまう。だからと言ってフラッシュをバシバシたくと、フラッシュに照らされた部分だけしか記録してくれない。いかに人間の眼が立派にできているか、思い知らされる。
▼ところが、人間の眼も故障することがある。黙想会においでになった先輩の中で、視野の3分の2を失ってしまった先輩を見かけた。失った視野は取り戻せないらしく、デジカメのように買い直したり、レンズを交換したりというわけにはいかない(先輩が眼を大切にしなかったという意味ではない。)
▼高価なレンズを神さまに与えられている一方で、大切にしないと取り返しのつかないことになる。誰も作れないような超高性能のレンズを、惜しげもなく人間に準備してくださった。その1点だけ挙げても、わたしたちは返せないくらいの借りが神にあるのではないだろうか。



10/06/20(No.481)

▼小教区で教会新聞を6月20日に発行した。もちろん教区報のような重い責任を負ったものではないが、広報委員との2度3度にわたる打ち合わせと作業は、大変有意義だった。広報委員会を特別扱いするつもりはないが、よくやっているなぁと感じた。
▼教会の運営の中心は小教区評議会である。これは間違いない。その中で、典礼委員会と広報委員会は、わたしにとって特に目の留まる委員会と言える。典礼委員会は、礼拝に小教区の人がみな参加できるように、知恵と工夫を凝らす委員会だ。
▼広報委員会は、小教区評議会・主任司祭の意向を、すべての世帯に確実に届け、そこから小教区の外にもわたしたちの教会の歩みを知らせる。ある意味で典礼は神への歩みに協力し、広報は人への歩みに協力する。両方が機能すると、教会はこの世にあって地の塩・世の光となると思う。
▼今週も説教の準備に苦戦した。苦戦続き。こんな時、神さまが助けてくれないのかなぁとやっぱり思う。けれども、イエスの奇跡がなくとも、目が覚めたら原稿が出来上がっているというようなことがなくても、「あなたは神からのメシアです」と、わたしは声を上げる。



10/06/27(No.482)

▼これから数週にわたって、6月22日だけで起こったことを数週にわたって書きたいと思う。それほど、1日で興味深いことがたくさん起こった。この日は初めて葬儀が入り、高井旅という教会で葬儀ミサを行った。
▼葬儀ミサの説教で、故人は教会の功労者であることを、参列者にていねいに説明した。教会の土地を寄進してくださり、教会会計を15年間も務めて、教会運営のために骨身を惜しまず働いてくれた人だった。本当に感謝してもしきれないほどで、たくさんの宝を天に積んで旅立ったのだった。
▼個人的な思い出も残してくれた。主日のミサに参加して、聖歌を高らかに歌うのだが、音程は正直言って大きく外れていた。わたしは小学校時代の音楽が「2」だったので、まったく気にしなかったが、説教の時には次のように機転を利かせて話した。
▼「『歌う人は2倍祈る』という伝統的な考え方があります。故人は音程が人の4倍くらい外れていたので、8倍祈ってくれました。そして、もうあの歌を聞くこともできなくなり、さびしい限りです。故人のミサに対する熱意、教会への愛を、受け継いでくださる人が現れることを切に願います。」
▼ほかにも話したのだが、それはまあ、伝統的な復活への希望に結びつく話なので省略する。葬儀が終わり、火葬場へ同行し、火葬の前の祈り。そして五島では習慣としてその日のうちに納骨まで済ませるので、高井旅の信徒の家でお弁当を食べながら2時間待った(次週へ続く)。



10/07/04(No.483)

▼6月22日を語る、その2。お弁当を食べた家で、「思ったことを、思ったまま言ってしまって、大丈夫だったかなぁ」と水を向けると、「それがですね、神父さま。亡くなった人の聖歌が、音が外れていると言ったでしょ。歌うと音が外れる、その後継ぎがちゃんといるんですよ」とのこと。
▼「それは興味深いねぇ。」わたしは身を乗り出して、その話を聞いた。話をしていたら、話している当人が家にやって来るではないか。「あー、この人なんだなぁ」その時はそう思っただけだった。
▼火葬が終わり、納骨のために墓地に移動する時間が来た。山の非常に高い場所に設けられた墓地まで、歩いて登る。距離の感覚で言うと、高島教会の、教会下のバス停から、階段をひたすら登って共同墓地に行くような感覚だろうか。
▼滞りなく納骨の儀が進む。聖歌が流れる。その時だった。「かみともにいまして、ゆく道を守り、あめのみかてもて、力を与えませ。また会う日まで、また会う日まで。神の守り、汝が身を離れざれ。」とてつもなく音を外し、気持ちよく歌う1人の男性を見たのだ。
▼わたしはその人の顔を何度もこっそり眺め、確認した。そうだ。この男性だったら、故人の後継ぎになれる。音が外れて、それでも気持ちよく歌える人はそうたやすくは見つからない。こんなに身近に、後継者がいるではないか。わたしは感心しながら、その人が心地よく歌っているのを聞いたのだった(次週に続く)



10/07/11(No.484)

▼6月22日を語る、最終回。地域によって葬儀の流れもさまざま。ここ上五島では、葬儀・告別を終えて火葬し、その日のうちに納骨して、晩には親しい人を集めて食事をふるまってもてなすしきたりになっている。火曜日から水曜日にかけて、伊王島の人が訪ねてきていたので、本来ならこの日の夕食は伊王島の人たちとなのだが、まずは遺族の招待した席に出てから、伊王島の皆さんの食事会に出ることにした。
▼遺族が設けてくれた食事の席は、おいしい魚がずらりと並んだ魅力的なものだった。話はすぐに「歌う後継者」の話に移り、そこでにぎやかな会話になり、さらに「故人が楽しんできた釣り船をどう処理するか」にも関心が向いた。わたしは身を乗り出し、「その話は興味あるなぁ」と、ぜひ自分に、その船を譲ってもらいたい旨を伝えてみた。
▼すると、船は世話してくれている○○モータースに、譲渡しようという話でほぼ固まっているという。「今、○○モータースって言いました?そことはたまたま、他人じゃないよ。その業者だったら話が早い。明日にでも相談に行っていいですか?」亡くなったご主人の船が、主任司祭によって活かされるわけだから、二つ返事で話はまとまった。
▼これは面白くなりそうだ。どうにかしてボートを手に入れたいなぁと思っていたところだったので、これこそ、「渡りに船」である。故人が眠る棺を囲んで、わたしはこんなににぎやかな話をしてしまい、故人に「まいったなぁ」と思われているだろうか。いや、わたしはそうは思わない。きっと、喜んでこの場を眺めてくれていると思っている。
▼後日談だが、○○モータースとも話がスムーズに進み、実際の船も下見をしてきた。ちょっと、細部ではイメージと違っている部分もあるが、楽しみが増えたことには変わりない。また、地域の人には心配かけると思うが、これで思う存分、上五島ライフが楽しめそうである。8月12日に、船の検査がパスすれば使えるようになる。



10/07/18(No.485)

▼えこひいきするわけではないが、赴任した小教区に愛着がわくと、その小教区が持っている一番良い部分が見えてくる。もちろん、前任者の尽力によってそうなった部分もあるだろうが、客観的に見て、ここは感心するなぁという点を見つけることがある。
▼ぐうたらなわたしへの発奮材料となった、小さな出来事があった。6月30日に受けた生活習慣病健診で、運動不足と過食が原因と見られる症状を先生に突きつけられ、6ヵ月後に再度健診をして、数値が下がっていなければ生涯にわたって薬から逃れられませんと脅かされて毎日有酸素運動をしている。「半年後に薬漬けになって欲しくない」と、わたしをそのまま受け入れてくれた小学生の話。
▼ちっちゃな子が3人4人で、よく台所側から司祭館をのぞき、賄いシスターとわたしに近づこうとしてやって来る。その中の年長の子が、わたしにこう言った。「神父さま、夏休みになったらぼくたちと毎日泳ぎましょう。」まだ、わたしも二言三言しか会話したことないのに、この子供たちは臆することなく、わたしに挑戦を仕掛けてきた。
▼人を恐れずぶつかっていくこの子供たちの態度は、浜串の子供たち、ひいては上五島の子供たちの優れた点ではないだろうか。転勤してしばらくは、とにかく前任者と比べられてしまうものだが、この子は前任者と比較してではなく、いきなりわたしにまっすぐに体当たりして来た。「前の神父さまはこうだったよ」そういってくる子も確かにいるが、今回は前置きもなく、勝負を仕掛けてきたのである。
▼望むところだ、と言いたいが、毎日はちとつらいかもしれない。毎日出ていては、わたしの頭の皿は、真水がなくなって干からびてしまうかもしれない。できる範囲で、このやんちゃで曇りのない子供たちの相手をしてあげたい。子供のいないオジサン神父への、思いがけない果たし状。今年の夏は相当に面白くなりそうである。



10/07/25(No.486)

▼ちいさな失望は、大きな希望をもたらす。「毎日、一緒に泳ぎましょう」と言われ、先週は昼に行ってみたが、誘った小学生はそこにはいなかった。船の整備をしていた大人たちがいて、「泳ぎですか」と言うので、小学生に誘われたが来ていないのだと事実を話した。帰るわけにも行かず、オヤジたちの視線を浴びながら、海に入った。
▼しづかな波一つない海で、気持ちよく泳ぐことができた。泳ぎは下手だが、まぁだましだまし、30分くらいの水泳になるように泳いだ。30メートルくらい泳いで折り返し、戻ると先のオヤジたちが、「子供たちは神父さまを誘っておいて、こなかったんだなぁ」と話していた。できれば、聞こえないように言ってくれぇ。
▼みごとに裏切られた感じで、泳ぎ疲れて帰り、シャワーを浴びた。この日は午後2時から納骨が入っていた。納骨の依頼者がお迎えに来て玄関に行くと、遠くに「泳ぎましょう」とお誘いをしたお嬢さんたちが座っているではないか。かなり打ちのめされて納骨から帰ると、意外な話を聞かされた。
▼実は子供たちは、わたしが午後2時に納骨があるから午後1時までしか泳げないよと行ったことで、及び腰になって海に行かなかったのだそうだ。午後1時から3時くらいが海水浴の時間に当てているそうで、時間が会わないのでその日泳げずに海のそばで座って眺めていたらしい。そうとも知らず、悪く思ったことを申し訳ないと感じた。
▼翌々日、チャンスが回ってきた。前日長崎に出張していたので昼の船で帰り、午後3時に海に行ってみると子供たちが泳いでいる。賄いのシスターが保護者代わりでそこにいた。その中の1人の子が、「神父さま、飛び込んでみて」と挑発している。わたしはその時点でスラックスにラフなシャツを着ていたが、ポケットの中のものをすべて賄いのシスターに預けると、そのままの格好で海に飛び込んだ。
▼もちろん、洗濯が大変になるし、シスターは飛び込んで欲しくなかったかもしれないが、子供には受けが良かったようで、ある意味、この日の飛び込みでわたしは子供の心にも飛び込めたのかもしれない。この日、何のわだかまりもなく子供たちと泳ぐことができた。誘ってくれた子とも、大はしゃぎで泳いだ。小さな失望を経て、この日大きな希望を手に入れた。



10/08/01(No.487)

▼ちっちゃな子から、おっきな子まで並べて、小学生の黙想会をした。1年生が興味を持つように話していると、6年生は大きなあくびをしている。6年生になるほどと言わせようとすると、1年生は閉じていた目を必死に開けようとしている。6学年を一度に並べて話をするのは、無理なのではないかと今回感じた。
▼ずっとアイディアを練っていた割には、結局最後まで具体的なプランをお手伝いしてくれるシスターに提示することができなかった。何をやってるんだろう。これまた、頭で温め続けるということと、具体的に紙に書いたりして提示することとは、まったく違うのだということが分かった。紙に書いて、提出できなければ、ただの絵に描いた餅だ。
▼みっともない話だが、ドッヂボールの練習に付き合っていて、右太ももの裏を痛めてしまった。体操をした後、ダッシュを何本かするわけだが、その1本目、小学生に負けじとスタートで思いっきり蹴って飛び出したら、あたたぁ、となった。こんなときに、何を考えているのだろうか。
▼これから先のことを考えると、司祭団のソフトボール大会、婦人会のミニバレー、壮年会のソフトボールと、秋に向けての交流行事が目白押しなのに、こんなことになってしまうとは。年齢を考えずに、調子に乗ってダッシュするなんて、バカじゃないだろうか。
▼このメルマガを出しているのは土曜日朝、佐世保に出発するのは日曜日の朝。練習は3回積んだ。さて、結果はどうなるだろうか。予選で3試合こなすが、決勝リーグに残ってほしい。やっぱり、自分の教会の子供が一番。



10/08/08(No.488)

▼佐世保地区主催のドッヂボール大会に参加してきた。オープン参加と前もって釘刺されて出場したのだが、ブロックごとに優勝を決めるルールの中で、Aブロックの決勝にまで登りつめ、準優勝をもぎ取った。それでも結果発表の時には順位を付けてもらえず、3位のチームが準優勝となり、4位が3位になって表彰を受けた。
▼大人げないわたしは、わざと聞こえる声で「なんでぇ〜!」言ったら、参加者全員から白い目で見られてしまった(笑)。まあ、ちょっとしたパフォーマンスです。これでは子どもたちも浮かばれないと思い、帰ったら表彰状でも作ってやるかと思ったら、最後の最後に「特別賞」なるものをいただいた。それを知っていたら、あんな恥ずかしいことしなかったのに。
▼大会を通して、まず上五島の別の小教区と連合チームを組むことで、触れ合いのチャンスを持つことができた。さらに、試合の中で、ボールを怖がっていた低学年の子供も、向かっていく勇気が育った。失敗したくないという後ろ向きな気持から、失敗を怖がらない子供に変貌した。
▼ほかにもいろいろあるが、これらをこの子たちが受けた黙想会のテーマと重ねるなら、ペトロがイエスに促されて水の上を歩く経験をしたことに似ているかもしれない。人間の力では水の上を歩くことは不可能だが、イエスに信頼し、イエスに導かれて、はじめて水の上を歩く。そのように、自分たちの力では無理だったことが、大会の中でイエスに信頼し、イエスに導かれて、できるようになった。そんな大きな成長を見た一日だった。
▼長崎から懐かしい人が友達と2人でやって来た。中学3年生だった子が、大学2年生になっていた。どおりで見違えるわけだ。あちこちの教会を案内してあげた。張り切りすぎて、翌日おじさんのわたしはぐったりだった。大学生は翌日張り切って海水浴に行ったようだ。おじさんでなければ、一緒に泳いで夏物語を満喫していたかもしれないが。



10/08/15(No.489)

▼NHKの連続テレビ小説を見ている。妖怪漫画で一世を風靡した漫画家を取り上げている。今観ている場面では、締め切りに追われ、忙しくて「妖怪いそがし」がとりついているという話が展開されていた。
▼この話の落ちは、土曜日なのでまだ予断はできないが、漫画家の女房が、「妖怪いそがしにとりつかれていたのは、自分のほうかもしれない」と振り返るシーンがある。長女が学校で「漫画家の娘だ」「妖怪の仲間だ」などと言われてつらい思いをしていたのを、母親として気付いてあげられなかったことを反省していた。
▼今週に限っては、ドラマとしてではなく、自分のこととして眺めていた。「妖怪いそがし」がいるかどうかは知らないが、忙しくて本来の人間的な温かい交わりや、思いやりが欠けてきていたのではないかと反省させられた。お手紙の返事、暑中見舞いのお礼。本当に申し訳なく思っている。
▼今年はよく泳いでいる。この原稿を書いた週も、子供に引っ張り出されては泳ぎに行った。おかげで、五島生まれでありながら泳ぎが苦手だったわたしが、人命救助まではできないまでも、泳ぎ続けることができるところまで来ている。沖に出たり戻ったり、物につかまらずに泳いでいるのだから我ながら感心する。
▼8月1日の球技大会に向けて練習していた時、右の太ももを痛めたのだが、今は泳いでいても何も感じなくなった。痛めた太ももをクールダウンしながら、ジワリジワリ今日まで回復させることができたのかもしれない。だが、この話をお医者さんに聞かせれば、完治する前に泳ぐなんてとんでもない、と叱られるかもしれないが。
▼教区の新聞コラム欄に、平和について思うところを述べてみた。かわいい子には旅をさせよと言うが、今の日本では、それこそ海外での旅でもしないと、平和の尊さ、ありがたさを実感できないのかもしれない。平和を保つ人は、平和に向かって行動している。何もしないで平和が訪れるなんてことは、実際にはないのではないか。



10/08/22(No.490)

▼五島に転勤して、五島のことはよく知っているつもりだったが、知らないことがたくさんあることを思い知らされる。五島では、しばしばカトリック信者と仏教徒はお互いに摩擦を起こさないために別々の集落を形成して住んでいた。そのため、同じ五島に住んでいながら、言葉が微妙に違ったりしていた。
▼当然、別々の集落を形成すれば、頻繁には交流しないわけで、それぞれの中で習慣や伝統が成り立つことになる。その1つを、8月15日に目にした。浜串の集落から福見の集落に移動する際、途中に岩瀬浦地区がある。大まか、岩瀬浦地区は仏教徒の住む集落である。8月14日に聖母被昇天の前晩のミサを終えての夜の帰り道、目を見張る光景に出合った。
▼お墓に、都会の夜景のように煌々と明かりが灯されていたのである。詳しいことは知らないが、おそらく、先祖の魂をお迎えするために、たくさんの明かりを灯しているのだろう。あるいは、そこにいる先祖の魂が寂しくないように、明かりが灯されているのかもしれない。
▼とにかく、1基のお墓に対して10個から20個の電球が飾られていた。わたしの知っている限り、カトリック信者の墓地では、8月15日のためにそのような飾りを墓地に施すという習慣は聞いたことがない。これまで8月15日を、仏教徒の集落の伝統に沿って過ごしたことがなかったための無知である。それにしても、電球に飾られた墓地は、見事な光景だった。
▼赴任した小教区についての新しい知識。高井旅教会のある一帯の集落は、今から70年ほど前に、集団改宗をして、カトリック信者になったことを知った。それはおそらく教会の歴史を紐解けば明らかになるわけだが、今回は思いがけないことで集団改宗の話を聞くことができた。
▼木曜日に病人を訪問して御聖体を授けて回っているが、病院に入院している高井旅の信者の方が、自分は18歳の時に集団改宗を経験した、今は89歳だとおっしゃっていた。病人なので、詳しい話は聞けなかったが、あとでじっくり聞きたい興味深い話だった。また、この話は機会があれば触れてみたい。



10/08/29(No.491)

▼ボートがようやく手に入った。ボートを所有していると聞けば、贅沢だと思われるかもしれない。まぁ、その辺はお任せしたい。慣らし運転にすぐに行ってみた。この日、前日から来ていた来客も、慣らし運転に付き合うように求めたので、同伴してくれた。8月21日の土曜日朝だったと思う。この日は問題なく出航できたのだが、その後は何回もトラブルに見舞われた。
▼慣らし運転2回目。この日は別の来客(五島住まい)に「ボートにきっと乗りたいでしょ。でしょ?」と無理やり誘って乗せた。走っているときは問題なかったのだが、帰ってきて港内に戻った瞬間に、エンジンが停止して船が流された。港内だったのですぐに救助してもらったが、港外に出ていたらどうなっていただろうかとぞっとする。
▼すぐに○○モータースに連絡。翌日点検をするも、「持ち帰らないと修理できないような故障のようです」ということで、慣らし運転はお預け。それでもすぐに原因が見つかり、翌日にはエンジンが無事に戻ってきた。戻ったところに2回目に乗った来客(五島住まい)がもう1度訪ねてきたので、今度は釣りをしてみないかと誘い、ファミリーフィッシング。
▼さすがにボートからの釣りには慣れていないのか、子供たちは大苦戦。わたしと保護者は五島生まれ。慣れたもので次々にそこそこの大きさと種類の魚を釣り上げ、経験の差を見せつけていた。風が少し強まり、島影に回ろうということになり、船を移動させる。この時点で、内心は「あー、もう魚釣りは終わり。」という感覚だったのだが、結果は意外なことに。
▼風の当たらない静かな場所に着き、「釣竿を入れるだけのつもり」で開始してしばらくすると、たいした魚も釣っていなかった子供が、突然大きく竿を曲げた。つい、本気になってしまい、「竿を立てて!」「糸を巻き続けて!竿を降ろしちゃダメ!」と真剣に指導してしまった。おかげで、30センチはあろうかというイサキを、子供が釣り上げた。
▼船頭としては、客に魚を釣ってもらったのだからこれに越したことはないのだが、内心は複雑である。同じ場所にいるのだから、同じイサキが釣りたい。しかし、欲の皮が突っ張っている大人には、なぜかイサキはかからなかった。天使のような子供だけが、幸運をつかんだ3回目の慣らし運転だった。



10/09/05(No.492)

▼夏休みが終わった。十分、休ませてもらった。実家が近くなったわりには、実家に顔を出していないので、涼しくなってからでも顔を出そう。家に帰って何かをするわけでもないが、家に帰ればそこにいるというだけでも意味がある。両親のために買ったはずのマッサージチェアもだれも使わないので、使いに行くという理由もあるし。
▼9月になると、いろんなことが途端に始動する。教会学校、地区婦人会のミニバレー、司祭団のソフトボール大会、上五島地区修道女への静修(修養)、運動会に、締め切りを抱えた原稿などなど、考えていたらきりがない。新しくマリア文庫の出勤もあるし、いつも通りの教区報の仕事もある。とにかく、順に片付ける以外にない。
▼そんな中で、10月に予定している2人の知人との面会が楽しみだ。1人は、大学の先生、1人は、同級生で修道会の司祭。どちらも、遠い五島まで海を渡って会いに来てくれる。まぁ無理してでもおいでといったような気もするが、この2人に安心して面会するためにも、確実に仕事を消費しておきたい。
▼頭の仕事と、体を使う仕事。ミニバレー、ソフトボールなどの練習で体をいっぱいに使って、例えば今日の土曜日の朝。眠くて、この「ちょっとひとやすみ」を書いている間にもうとうと眠り込んでしまう。大丈夫だろうか。頭と体は、連動していると実感した。
▼説教でも触れたが、本を片っ端から開いてみた。開いてみて、頭の中に何が詰め込まれているかがよくわかった。かなり、偏った知識が詰め込まれている。整理して、もっと本の数を減らして、頭の中も軽くしておきたい。
▼上五島地区にあるこの小教区に来て、自分が学ぶべきことはほかにもたくさんあると感じた。学んで吸収するために、スペースを確保しなければならない。広めのスペースを確保していないと、物事はうまくはかどらない。机の上も、本棚も、頭の中も、心も。



10/09/12(No.493)

▼先週は台風でずいぶん振り回された。火曜日の夕方に出発する予定で仕事を入れていたが、火曜日は丸一日台風の影響で船が欠航になり、仕方なく水曜日に日帰りをする羽目になった。日帰りでも可能な仕事ではあるが、実際には帰って来てからぐったりと疲れてしまい、あとの予定を何もこなすことができなかった。
▼水曜日の予定はマリア文庫。これまでも何度か紹介をしたかもしれないが、マリア文庫の代表に来年4月納まることになっていて、まぁその挨拶をしているような仕事内容だった。
▼午前中は市立図書館で音訳者(録音でさまざまな情報を提供する人)養成講座の見学と、1時間の講話。昼食をはさんで、マリア文庫の代表者会議。午後3時半まで出席して、4時半の船で日帰り。
▼無事に予定を終えてきたが、折り返し船で五島に帰りつくと、心も体もへとへとになっていた。40代を過ぎたら、五島と長崎間、または五島と佐世保間を船で日帰りするものではないと、つくづく思った。
▼時間は無限にはない。必ず、1日は24時間で、1週間は7日しかない。よくよくそのことを考えさせられた1週間だった。



10/09/19(No.494)

▼9月13日に、「まちづくり」を専門に研究している先生と偶然食事の機会に恵まれた。わたしが招待されたのは、おそらく「広報委員会」ということがあるのだと思うが、それにしても話は相当面白い話で聞きごたえがあった。
▼名前も知らず、面識もなかったのだが、長崎県西海市の「旧長崎オランダ村」また「長崎バイオパーク」、さらに「ハウステンボス」などの設計にかかわった人で、話が全く飽きさせない。こんなに楽しい人の話なら、どこでも引っ張りだこだろうなと思った。
▼この先生は、連れて来た人たちに請われて新上五島町の「まちづくり」に力になりたいと立ち上がってくださった。もちろん1人の力で何かをしようというのではなくて、町民をうまく動かして、本当に住みたくなる町、ずっととどまることのできる町になるように、アイディアや提案を考えるために来てくださっている。
▼ぜひ、故郷でもあるし、この企画が成功してほしいと願う。だれでも自分の故郷は大切に思っているが、故郷を離れなければ暮らしが成り立たない人もいる。故郷に生まれた人が、故郷で生き続けることができる。これがあるべき姿だと思う。
▼教会サイドから、ちょっとした提案を求められたが、わたしの意見はあまり説得力がなかったかもしれない。けれども14日にも別の司祭と懇親会を持っているので、もしかしたらそちらの方で何かヒントが得られたかもしれない。誇れる町になることを願っている。



10/09/26(No.495)

▼次の「ほしかげ」(教区報のコラムのようなもの)に関連することをふと思いついた。9月23日に司祭叙階50周年の金祝を迎えた2人の司祭を祝うミサがささげられた。なんと、1つの小教区から2人も、叙階50周年の司祭を輩出しているのである。
▼ちなみに、わたしは同期が3人いるが、いずれも別々の小教区出身である。わたしと同じ教会から修道会に1人いたが、その同級生は司祭になっていないので夢は叶わなかった。そう考えると、非常にまれなケースと言えると思う。
▼この2人の金祝の司祭を見てすぐに感じるのは、今も若々しいということだ。年齢は確かに重ねているが、「年寄りとして大事に扱って欲しい」という様子は微塵も見られない。むしろ、「これからも使ってくれよな」という積極性が溢れている。だから2人は老け込んでいないのだろう。
▼そこでわたしは声を大にして言いたい。年を重ねていく司祭を、隠居させて閉じ込めないで欲しい。できれば、教区の仕組みを抜本から変えて、若い司祭の下で協力司祭として共同生活をさせて欲しい。いろいろ、ご迷惑をかける部分もあるかもしれないが、若い司祭と話し合って、一つ屋根の下で働かせて欲しいのである。
▼若い司祭は、年配司祭の知恵を借りたいだろう。年配司祭は、年を重ねてから最前線に立つのはつらいだろう。そこで、若い司祭と協力し合って、年配司祭が引っ込まなくても済むような仕組みを作り上げて欲しいのである。
▼具体的な構想は持っていない。ただ、少なくともわたしは、引退する年齢になったら、若い主任司祭の下で働かせてもらうことを希望する。どこかの6階に入り、静かに余生を暮らすなど、頼まれても御免だ。



10/10/03(No.496)

▼上五島地区カトリック婦人会のミニバレーに明日参加する。もともと浜串はチーム力が上なので、わたしは巡回の福見・高井旅チームに加わる。浜串チームと福見・高井旅チームはそれぞれ違う対戦相手が割り当てられ、それぞれ結果が楽しみである。
▼明日の試合の後は、夜に慰労会が予定されている。わたしは立場上、両方の慰労会に参加しなければならず、あまり飲めないのでどういうふうに過ごしたらよいのか、今から気にかかっている。もう少しお酒が飲めるなら、どちらでも豪快に飲んで騒いで構わないと思うのだが。
▼実はミニバレーはまだ続きがある。10月からは一般のミニバレーのリーグ戦が予定されているらしい。そこにもわたしは強制参加を命じられていて、まだまだ運動することになるらしい。リーグ戦に入ると、土井ノ浦の後輩が強力な助っ人として参加してくれる。やはり若いに越したことはないから、心強い。
▼木曜日にボートで釣りに行った。イラ(こちらの呼び名は「ナベタ」)、カワハギ、イトフエフキ、エソ、ミノカサゴ、ベラ、よくまあたくさんの種類を釣り上げたと思う。それにしても、肝心のイトヨリはどこにいるのか?イトヨリを釣りたかったのだから、イトヨリが釣れなければ、釣れなかったも同然である。何とか地元の人から情報をもらって、イトヨリの刺身にありつきたい。



10/10/10(No.497)

▼長崎で通夜と葬儀をお願いされ、出かけてきた。わたしの父方の祖父と、亡くなった方の父親が兄弟である。そういう縁があって、引き受けることになった。通夜の直前まで何を話すか迷っていたが、いくつかある定番の説教をやめて、通夜では次のようなことを話した。
▼「人間は、体を持っている間、一方ではすばらしい仕事をし、他方では過ちがあったり、欠点だらけだったりします。わたしはこの通夜に車を運転して出向きましたが、目の前にいた車が、車線を右に行ったり左に行ったりするものですから、「この野郎」と思いながらここまで来ました。そういう欠点を持っている人間ですが、こうして皆さまの前で、司祭として通夜の説教を果たしています。
▼ところが、いったん体を離れますと、人間は本来望んでいることをまっすぐに望み、心から求めているもののほうにまっすぐに向かっていくと思うのです。お亡くなりになった方は、キリシタン迫害を、身近に感じた人たちの子孫でした。迫害を受けたからこそ、この信仰が報われなければおかしいと、固く信じていたことでしょう。
▼ですから、この方は本来、キリスト信者として、神の救いを固く信じていた方なのです。体を離れた今、故人が望みをかけている神のもとへ、まっすぐに向かっていったであろうことは、十分予測できます。わたしたちは、体のあるうちは二心を抱えていることがありますが、体を離れると、望んでいることだけを、まっすぐに求めるようになるのです。
▼このほかにもいくらかのことを述べたのだが、95年の人生を、信仰の土台に立って、ひたむきに生きた人だったと思う。双子の、もう一方の方は(弟か、兄か分かりません)教区司祭であり、すでに神のもとに召されている。双子の神父さまのことを、今はいちばん近くに感じているに違いない。双子の兄弟が再会して、神のもとで憩っていると信じている。



10/10/17(No.498)

▼先週と今週で、大切な人とそれぞれ会うことができた。先週は、教育界で活躍し続けていて、現在は大学の名誉教授。長崎のカトリック大学に講義のためおいでになっていたのを、足を延ばして浜串まで訪ねてくださった。久しぶりに貴重なお話の時間を持つことができた。
▼今週は、同級生で修道会司祭ののS神父が訪ねてくれた。彼もカトリックセンターに聖書公開講座に来たついでに、足を延ばしてくれた。同級生なので気楽に、お互いの状況を話し、また話を聞いた。彼が本拠地東京で7年通っている教会の様子なども聞くことができ、楽しい時間となった。
▼同級生を港に迎えに行き、帰りがけに面白いことが起こった。小学校のそばを通過したときに、浜串の小学生たちがわたしの車を見つけ、「しんぷさま〜」と呼びかけたかと思うと、「車に乗せて〜」とせがまれてしまった。
▼まんざらでもないので、定員オーバーを知りつつ、○人を後部座席に乗せて浜串まで帰って来た。同級生のS神父は、「愛されているんだなぁ」と感心しきりだった。浜串にいったん到着してから、教会を2つ、見学した。その案内の間も、長崎教区の親しい司祭のことや、所属している修道会のことなど、いろいろ話したり聞いたりできた。
▼夜は、もう1人知人が加わって、食べ物飲み物を口に運びながら遅くまで語り明かした。2週にわたっての訪問客は、刺激的で、現状に満足してはいけないのだということを強く意識させてくれた。この浜串から、素晴らしいものを発見して、どんどん発信しようと決意を新たにした。



10/10/24(No.499)

▼おー、気が付いたら499号になっています。驚きました。また、500号記念で、401号から500号まで、少なくとも50回メルマガを読んでくださった方々は、ご連絡ください。無料で、説教の原稿ファイルと、mp3形式の録音説教を送らせていただきます。
▼こうじ神父は怠け者なので、はっきり「送ってちょうだい」と言ってもらうと助かります。「わたしのところには、言わなくても送ってくれるだろう」と当てのある方もいらっしゃるでしょうが、まあそう言わずに、送り先の住所をお知らせ願います。
▼400号は、感銘深いものがありましたが、500号は、本当に通過点だったかもしれません。ここまでの約2年間、責任を問われる立場に立たされることがあり、メルマガの土台となる説教と日常の生活は、忙しくなった分、常に綱渡りの状態でした。日曜日が来るまでに、メルマガを発行する、その競争をし続けていたと言ってもよいでしょう。
▼どうして競争しているのか、分からなくなることがあります。金曜日くらいからお尻に火がついて、頭の中のことを急いで書きだし、説教案をまとめます。本来なら、木曜日あたりからじっくり書くのが理想ですが、実際に成功したことは稀です。考えがあっても、文字に起こすのはいつも金曜日か、土曜日の午前中。短距離競走をして、ここまで来ました。
▼それでも、慰め多い感想をいただいたりして、力づけられました。心が折れそうになった時、説教を準備するのは難しいと感じますが、それでも続けることができるのは見えないけれども確かにいる読者の力だと思います。もちろん、直接、説教に耳を傾ける小教区の信徒もです。
▼井戸で水を汲み続ける。井戸の水は無限ではないので、より深い場所に水を求めて掘り下げることになります。このメールマガジンが、掘り下げた場所からのおいしい水を、皆さんに提供できるものとなれるよう、これからも精進したいと思っています。



10/10/31(No.500)

▼500号にふさわしい内容ではないが、間違い電話の続き。先週葬儀が2つも続いた。一方の関係者が、朝、通夜の時間と葬儀の時間を電話で相談してきた。亡くなったのは深夜であるから、その日の朝、ミサに来てくれれば、直接顔を合わせて相談できるのに、である。その日の昼に、間違い電話がかかった。
▼2つ間違い電話がかかったが、1つは省略しておく。2つ目の間違い電話は、わたしを花屋さんだと思い込み、次のように言ってきた。「今日の通夜の会場に、少し花を増やしたいんだけど、お願いできるかな。」どう返事しようかと考えたが、まずはこう返事した。「花のことをわたしに相談しているけど、わたしでないとダメなの?」
▼亡くなった方の関係者と思われるその人は、それに対してこう言った。「今回お世話になったから、初めから終わりまで、お世話になりたいんだけど。」わたしは繰り返しこう言った。「どうしても、わたしがしなきゃダメかね。」「できなければ仕方がないけど」「わたしは中田神父だけど、わたしがしないとダメなの?」「あ、間違いました。すみません。」
▼こちらは、「すみませんじゃないだろう」と不機嫌になって、その日の通夜には「顔を見せれば間違いも減ります」と小言を言ってしまった。もっと心を広く持って、「お引き受けしましょう。こちらで花は適当なものを持っていきます」と返事をすればよかったなと今になって後悔している。保育所の花を摘んで、「電話をもらった花屋です」と言えばよかった。
▼こんな、どうしようもない性格の神父ですが、ここまでメルマガ500回続けることができたことは、わたしにとって大きな慰めです。きっと誰かが、このメルマガを通して教会とのつながり、神とのつながりを取り戻したのだろうし、違う説教に目を通して、実際に聞く説教がもっとすばらしい(そうでないかもしれないが)ことを実感していると思う。
▼この人生で、いろいろお役に立つことがあったかもしれないが、このメルマガが、長期にわたり、安定してお役に立てているのかもしれない。もちろん、500号は通過点だ。わたしが目指している場所は、もっと遠くにある。そこへたどり着いても、技術革新がわたしを助けてくれて、メルマガ発行を支えてくれるかもしれない。道半ばだ。



10/11/07(No.501)

▼11月3日、文化の日。皆さんはどのような過ごし方をしただろうか。わたしはつい自分の趣味を優先させて、海に出て釣りを楽しんだ。しかし、寄せられてきたメールを読むと、11月3日は趣味の日だけではなかったことを思い出した。
▼まず、日本カトリック神学院・福岡キャンパスでは、毎年この日を「召命の日」として九州全域から子供たちを招いて召命について働きかける日になっている。わたしも学生時代は、この日にやって来たM教会の担当に当たり、1日その教会の子供たちを案内した、とても楽しい思い出がある。助祭になった年には、その日の召命祈願ミサで説教をしたが、当時の福岡教区司教にコテンパンにダメだしされたこともあった。
▼関東の友達からは、美しい山の景色が届いた。佐世保からやって来た写真家と山登りをしたのだろうか。気分だけは高い場所で景色を眺めたつもりになった。いただいた写真は、ほかの人にも喜んでもらおうというやさしさが伝わって来る写真だった。
▼司祭館周辺には、食事のお世話をしてくださっているシスターが鉢植えやつる草の植物や、季節ごとに楽しみを用意してくれている。その中で、ニョキニョキと伸びて花を咲かせた植物が目にとまり、「これは何?」と尋ねたら、「皇帝ダリアです」ということだった。
▼調べてみると、「木立ダリア」とも言う植物だった。地上から、グイグイ伸びて、二階のベランダで花が見えている。どうしてここに花が見えるのかとベランダに行ってみると、5メートル、あるいは7メートルくらいの高さに伸びているではないか。
▼このベランダ、夏の間は毎日のように行き来したのだが、伸び続けているダリアには全く気付かなかった。「点滴石をうがつ」と言ったりするが、見えない変化も長い時間積み重ねれば大きな結果になるのだろう。わたしの人生にも、何かそのような足跡を残せたらと思う。



10/11/14(No.502)

▼堅信を受ける中学2年生を、ようやく晴れ舞台に送り出すことができた。きっと、胸を張って今日の日を迎えてくれると思う。以前ほど、大人の信者になるんだよと強調しなくてもよいかもしれないが、聖霊の賜物は、格段に自覚を促してくれると信じている。
▼お祝いをしてあげよう。この小教区の受堅者には、オリジナルのプレゼントを用意してあげようと思う。ちょっと、中身には触れることができないが、聖書の中に響く神の声に、生涯にわたって耳を傾けることができるように、そんなプレゼントを用意したい。
▼お祝いに食事はつきものだ。中学2年生と相談して「焼き肉」でどうだ?と尋ねたら、それがいいと言う。ただし保護者からは、「底なしで食べますよ。お財布、大丈夫ですか。」という心配も聞こえている。まぁ、いいではないか。どれくらい食べるのか知らないが、財布の底が尽きるか、子供たちがギブアップするか、勝負しようじゃないか。
▼車の中にカメラを据えることにした。専用のドライブレコーダーではないが、まぁそんなもの。運転の様子を、公開しようと思っている。車内の声が聞こえるのがちょっと心配だが、こうじ神父の活動の一端を、味わってもらえたらと思っている。はじめは、「浜串−福見」「浜串−高井旅」これらのルートの往復を体感できるようなものを準備したい。
▼それが済んだら、各地の教会に行くとか、行事に参加するとか、そのほかにも可能なことがあればいろいろ撮影して「話の森ホームページ」に動画投稿していく。こういうものはまずは自分が楽しければそれでよいと思っている。議論を巻き起こすようなキワドイものは載らないが、よかったら、見に来てほしい。



10/11/21(No.503)

▼堅信を受けた中学生には、まず聖書の朗読を子供たちが持っているMP3プレーヤーでこれから生涯にわたって聞くことができるように、材料をプレゼントしてあげた。結構高くついた。それでも、これから日常生活で音楽のように聞いてくれるなら、今の時代の方法で、聖書に親しむことができるかもしれない。
▼よく人の話を聞かなければ、と思ったことがあった。焼き肉の話から始まるのだが、「中学生はとてつもなく食べますよ」と言うので、そんなものかなぁと思いつつたくさんの食材を用意した。ところが、勢い良く食べるのは男子だけで、女子はそれほどでもなかった。対象となる中学2年生8人と、わたしの合計9人で食べたのだが、思いのほか量は進まなかった。
▼焼肉パーティーを、かなり落ち込んで帰って来た。なぜ、食が進まなかったのだろう。こうじ神父だけが混じっての食事に、遠慮があったのだろうか。まぁそういうこともあるかもしれないが、お腹いっぱい食べてもらおうという当初の計画は、挫折してしまった。
▼精肉店に行って、とんでもなく食べる連中だから、と言ったのだが、しばらくはその店にも行けないかもしれない。どの顔で、会えばよいのだろうか。「いつもはもっと食べるんですけど」と本人が言った。そういう説明はよいから、目の前で食べてほしいのである。
▼まぁ、結果からすると、話は半分くらいに聞いておくべきだ、ということか。おにぎりはたくさん食べたし、飲み物は足りなくなったのだから、食べる気はあるということだ。あとは、普通に考えて、食材の調達はした方がよい、というのが今回の反省となった。
▼この苦い経験は、ほかのことにも通じるかもしれない。話半分、と言うのか、ほどほどに、と言うのか。いずれにしても、人の話にあまり左右されず、自分の勘と経験に照らして、本当に鵜呑みにしてよいのか、吟味しなければならないと思った。来年につなげよう。



10/11/28(No.504)

▼修道会の神父さまが上五島を巡礼するためにやって来た。浜串出身の神父さまは修道会の神父さま1人だけだと思うが、同じ修道会。出身の神父さまの母親が仲介して実現したのだろう。何とこの神父さま、アフリカで宣教をしているそうだ。3年ごとに帰国していると聞いた。
▼帰国の機会に、五島を巡礼しているという。聞けば、50年前、中学生の時に五島を訪ねて、いつかまた行きたいと思っていたのが延び延びになっていたらしい。どうやら本人は、いつでも行けると思っていたようだ。思い立ったときに行かないと、どんなに近くても行けなくなることはあり得る。
▼出身は奄美大島。暖かい土地だから、アフリカ宣教も志願されたのだろうか。わたしの知り合いの奄美出身司祭は、いずれも個性的。「超」が付くと言ってもよいか。明るく、快活に話す神父さまだ。「神父さまは遠くアフリカに赴任ですが、わたしは生まれ故郷から車で30分の場所に赴任です」と言ったら、腹の底から笑っておられた。
▼知り合いの奄美出身司祭とイントネーションがよく似ている。気のせいかもしれないが、日本語はとてもきれいだ。土日はとても冷え込んだから、暖かい土地で普段暮らしている神父さまには特別堪えたのではないだろうか。立ち話で盛り上がってしまったが、食堂に上げてから話すべきだったか。
▼土日、一緒にミサを捧げた。アフリカでの日常のことは聞かなかった。けれども、この声で、アフリカでもミサを捧げているのだろう。わたしは遠いアフリカの大地を思った。そこに、神父さまのミサを捧げる賛美の声が、響いているのだろう。



10/12/05(No.505)

▼クリスマスの飾り付けが忙しくなってきた。杉の葉を上手に巻いて、飾っていく。五島の教会の、伝統的な飾り付けを、今もこの教会は受け継いでいる。久しぶりに、昔の教会飾りを見ることができそうだ。
▼年末、当然のことながら忙しい。おそらく年賀状は、届いたのを横目に見ながら、返事を出すことになるだろう。いつもながら、申し訳ないと思っている。ずいぶん前から頼まれていたことなど、今になって慌てて準備をして、発送した。首を長くして待っていた人は、ろくろ首になっているかもしれない。
▼こちら新上五島町では、行政がクリスマスイベントを企画してくれている。教会を会場に、コンサートを開いてくれるのだ。これに合わせて、子供たちも返礼の歌の練習をしている。歌の練習を通して、クリスマスの心の準備も進んでいくことを願っている。
▼実家に、なかなか帰っていない。1度などは、テニスをした後にシャワーを浴びようと出かけてみたら、すべてに鍵がかかっていた。うーん。連絡をしないでフラッと行ったのが悪かったか。どこも入る隙がなくて、機会を逃してしまった。
▼馬小屋が、浜串教会は豪華に出来上がるそうだ。写真も、楽しみにしておいてほしい。



10/12/12(No.506)

▼チャーチウィークin上五島と銘打って、12月7日から12日にかけて、上五島の6つの教会で木管楽器のコンサートが開かれた。その2番目の教会として、福見教会が選ばれ、12月8日午後7時から、2時間にわたって演奏を満喫した。
▼あいさつを主任司祭がすることになっていたので、次のような内容に触れた。1つは、教会は招かれる場所で、ここに来た参加者の方々はだれかに招かれ、それは間接的には尊い方が招いたのだということ。
▼2つめは、ここに招かれた人は皆、何かをたたえるために招かれていること。演奏家は、音楽の素晴らしさをたたえるために、特別出演の子供たちは、素朴な歌で神をたたえるために、鑑賞に来た人は、人間のわざの素晴らしさを、演奏家と子供たちを通してたたえるため。
▼たたえるために来た3者は一致する。神をたたえる子供に、収束していく。たたえることを知る人は、神に心が向かうからだ。コンサートに集まったすべての人が、神をたたえる素晴らしさ、12月8日の「無原罪の聖母」をたたえることの素晴らしさ、いろいろなたたえる素晴らしさを持ち帰ってくれたのではないだろうか。
▼12月12日、小教区のクリスマス会を迎える。すでに保育園のクリスマス会を見て、ほほえましい気持ちになった。どんなクリスマス会になるのやら。こうじ神父は、休憩時間に1度、プログラムの最後に1度、出番が入っている。



10/12/19(No.507)

▼意を決して寒い冬に磯で釣りをしようと思い、生まれて初めて「ルアー釣り」の道具を買い求めた。安い道具だったが、寒がりのわたしが、海に出る決心をしたのはそう安いものではない。今の予定では、福見の磯と浜で、ルアーを投げて巻いて、遊ぶつもりである。
▼「遊ぶつもり」と言ったが、実は最初の釣行には過ぎた木曜日に行って来た。最初からこんなことを言ってはいけないのだろうが、わたしは基本的にルアーを疑ってかかっている。なぜ食べられないものを投げて巻いて、魚を釣ることができるのか、理解できない。それに、釣り上げられる魚は最後に餌を食べずにその一生を終わるのだから、こんなにむごいことはない。しかも、ルアーはわたしの感覚ではとんでもなく高い。
▼初めてのルアー釣りの釣果はというと、30回くらい投げて巻いて、岩場にルアーが引っかかり、あの手この手で外そうとしたがどうしても外れず、ラインを仕方なく強く引いたらラインがちぎれてルアーを失ってしまった。釣れなかったことも、ルアーを引っ掛けて失ったことも、ほぼ「織り込み済み。」この冬、何個ルアーを失い、結果、魚は釣れるのだろうか。
▼小教区のクリスマス会を12日に開いたが、それはもうすばらしい出演者が勢ぞろいして、盛り上げてくれた。もちろんわたしも一役買った。喜んでくれたと思う。興味があったら、ホームページ「話の森」を閲覧して欲しい。ブロードバンド回線(ADSLもしくは光)であれば、映像を楽しむことができると思う。それにしても残念なのは、動画を撮影するために机にデジカメを置いたのだが、そこに座った高齢者の方々が、机をたたいて喜んだために、いくつかの演目はひどく映像がブレてしまったことだ。よほど面白かったのだろうか。
▼福見教会の子供のミサで、ミサの手伝いをする侍者を、ついみんなの前で叱ってしまった。奉献文の間じゅう、しきりにおしゃべりをしていたので、しびれを切らしてしまった。叱られた2人の女の子はそのときはケロッとしていたが、わたしよりこわい母親から再度叱られたのだろう。もう一度ミサ後に謝りに来たときは涙をためて謝っていた。ここ4〜5年叱ったことがなかったから、わたしもミサの間、気まずい思いをした。



10/12/24(No.508)

▼街頭募金に参加した。大きな声で、協力を呼び掛けた。わたしの声出しの原則は、例えばスーパーで募金に立ったなら、買い物に立ち寄る人だけでなく、スーパーの道向かいの歩道を歩く人が振り向くくらいの大声である。買い物に来ない人が、「あれだけ声を出しているから、募金してくるか」という気持ちになる。それくらいの声を出す必要があるとわたし自身は信じている。
▼年の瀬。毎年の悩みは、年賀状。いつもいつも、年賀状が届いてから、返事を出している。いつもだから、先方も了解済みかもしれないが、本当に申し訳ないなぁと思う。年賀状を実家に持ち帰り、仕分けをして準備を整え、休みを終えてから出す。この繰り返し。繰り返しから抜け出す方法を、だれか教えて。
▼今年、クリスマスはいつもに増して忙しくなった。24日、夕方5時・高井旅教会。夜7時・福見教会。夜9時、浜串教会。どこで夕食を食べるのだろうか。点滴のような食事になるのだろうか?今年、言われるがままに実行してみるが、無理だと思ったら来年はこんなスケジュールは組まない。お願いされても正直に無理だと断ろうと思う。
▼ちなみに来年は、12月24日が土曜日で、25日が日曜日となっている。これは自動的に、24日夜7時浜串教会、夜9時福見教会、25日朝7時浜串教会、朝9時高井旅教会だ。ということはつまり、2012年1月1日神の母聖マリアは、日曜日ということだ。おー、来年はすばらしいクリスマスと正月だ。だってミサが1つ省略できるから。レベル低いけど、嬉しい!
▼年が明けてからのことも、少し考えておく必要がある。この教会の、どこを刺激すれば、反応があるのか、この9カ月で何となく見えて来た。感じたことが本当かどうかは、実際に確かめてみなければ何とも言えないが、うまく活性化の材料になればいいと思う。闘志は静かに燃え上がっている。



10/12/25(No.509)

▼お腹が空いた。変な話だけど、日中に主の降誕(夜半)の説教を書き、夜は小学生高学年と中学生の要理をこなし、その後、主の降誕(日中)の説教を書きあげた。書き上げたのは夜11時半。最近はすぐに眠くなって長く集中できないことが多いのだが、この日に書き上げなければならない事情があり、書いてはみたがこんな遅くにお腹が空いている。
▼翌日23日(木)は本来なら祭日なのだが、この日は日中に、新築落成した「真手ノ浦教会」の献堂式が行われ、取材かたがた出席することになっている。木曜日となれば、朝は浜串のミサ、10時半から献堂式ミサ、昼は祝賀会、夕方5時半からは福見教会のミサと、非常に厳しいスケジュールとなっている。
▼これでは、クリスマスの説教を考えるのは無理であろう。そういうわけで、クリスマスミサの説教は、夜半と日中を含め、22日のうちにまとめる必要があったということだ。あまり出来栄えはよくないが、背に腹は代えられない。そういう年もあると、自分に言い聞かせるしかない。
▼話は前後するが、今もお腹が空いている。今食べると、不健康な状態をさらに悪化させることになる。悩ましいところだが、申し訳ないが空腹感をごまかすために、夕食の野菜鍋の汁を温めて、少しご飯を入れて食べることにしたい。本当は、食べてはいけない時間帯だが、読者の皆さん、目をつぶってほしい。



10/12/26(No.510)

▼説教の中でちょっと触れたが、青砂ヶ浦教会は1910年10月17日に3度目の聖堂を建設し、献堂している。そして今年2010年10月17日に、献堂100周年を迎えた。実は福見教会も、間近に100周年を迎えているのだが、最初に考えていた計画に再考を求められている。
▼現在の福見教会が献堂されたのは1913年の4月29日とされている。わたしが赴任して、「100周年を祝う実行委員会を立ち上げましょう」ということになり、それは必要なことだと計画を中心になって話し合うメンバーが招集された。そこで提案されたのは、「2012年の4月29日に、100周年を祝いましょう」ということだった。
▼誰も、特に異を唱える人はなかったので、そのつもりで準備を始めてみましょうということになった。ところが、青砂ヶ浦教会の例に倣って計算すると、2013年が100周年ということになり、2012年では1年早くはないか?という問題が発生した。ちょうど真手ノ浦教会の献堂式で祝賀会の折に司教秘書からもその点を指摘され、協議が必要になった。
▼協議の結果、前例もあることだし、2013年に100周年を祝いましょうということになり、あと1年、慎重に準備する時間が与えられた。ただ、主任司祭も慌てていて、12月19日の小教区ミサ訪問に応募して福見教会の主日ミサにおいでくださった子供たちと引率者に、2012年に100周年を祝う準備をしていますと印刷したカードを配ってしまい、ちょっと困ったと思っている。訂正してお詫びしたい。
▼おそらく今年のうちにあと1回メルマガを発行するので、今年1年の振り返りは次号に回したいと思うが、小教区の信徒のために本当にしなければならないことを、十分に果たしてあげることができなかったという反省が残る。1年間ひと通りのことを経験してから、柔軟に活かすべきは活かし、変えるべきは変える、そういうつもりではいる。ただ、もっと大胆に、踏み込んでもよかったのではないかと後悔が残った。フットワークが問われた1年だったかもしれない。



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