(No.102)(04/1/1)

▼明けましておめでとうございます。毎年恒例?年頭に「ゴホ・ゴホ」やっています。カゼです。まあ自業自得なのですが、それにしても「神父様毎年この時期にカゼ引きますねぇ」と言われるのには閉口しています。
▼おかげで毎日9時に布団に潜り込んでいます。普段はあり得ないことですが、夜中の2時に目が覚めて(この時点ですでに5時間睡眠)、さらにミカンを一個食べて寝る、こんな贅沢な日々です。
▼最近、まったく同じ夢を一日に二度も見ました。詳しく書けないのがもどかしいですが、夢は現実のものとなり、以前よりもパソコンの前に張り付く一年になりそうな予感です。
▼皆様は、どのような思いで新年を迎えたのでしょうか。お一人おひとりの上に、神の母マリアの見守りと、父なる神の恵みと祝福が豊にありますようにと、心からお祈り申し上げます。今年一年もメルマガをご愛顧くださいませ。








(No.103)(04/1/4)

▼皆様の教会では、今年、占星術の学者たちをいつ飾りましたか。私たちの教会では、1月4日が主の公現ですから、この日に飾るのが筋です。
▼ですが、「今年は1月4日に、クリスマス飾りを片づけます」と言われるとどうでしょう?学者たちの出番はわずか1時間、これでは学者もたまったものではありません。
▼そこでこうじ神父は考えました。聖家族の日曜日から、三人の博士を少し離れたところに設置しました。「旅の途上」というわけです。神の母聖マリアの祝日にも、さらに少し近くに寄せてみました。
▼「神父様、窓枠のところに博士が置いてました。馬小屋に戻しておきましたので安心してください」。えー?そうじゃないでしょー。旅の途中の博士を、そのままにしておいてぇ。








(No.104)(04/1/11)

▼CD説教の製作現場より。デスク用のパソコン1台と、胸ポケットに入るくらいの録音機。録音機材はこれだけ。パソコンの中には、編集ソフトが入っています。特別な機材は一切なし。
▼こうしたちゃちな製作現場ゆえ、ちょっとしたことで「ノイズ」が混入する可能性があります。掃除機のスイッチを入れた、こうじ神父がうっかりシュレッダーのスイッチを入れるなどのことで、「バチン」とか「プチッ」とかの音が入る危険があります。
▼慎重にマスターCDを製作しても、複製を作る段階で、先に述べたような危険に「もう一度」さらされる可能性があります。
▼そういうことですから、ある程度耳障りな音が混じっているかも知れませんが、「あの週の説教は声で聞いてみたい・確かめたい」などの希望がありましたら、「CD説教」をご利用ください。メルマガ1号から100号までの全体も、ホームページの先頭頁から取り込むことができます。








(No.105)(04/1/18)

▼クリスマスからの一連のお祝いを終えると、馬小屋は撤収されてしまいます。何とかもう少し楽しむ方法はないかなあと思っているときに思いついたこと。
▼誕生にまつわる像だけしかないので、誕生から三人の博士の来訪あたりで終わってしまう。もう少し話は続くのだから、主の洗礼あたりまでシリーズとして像を揃えることができたら。
▼ちょうど良い機会がやってきました。馬小屋の像は、どれもこれも鼻がかけたり指がかけたり、何かしら「欠陥」を抱えるようになってきたそうです。
▼「思い切って、新調しましょう」「でも、お金が・・・」「私もその心配があるけれど、どうでしょう、思い切って一体ずつ寄付者を募ったら?」「名乗り出てくるかも知れませんね。私も一体寄付してみたいです」話はまとまりそうです。








(No.106)(04/1/25)

▼今、ホームページで実験めいたことをいろいろ取り入れて試しています。ケータイ電話から写真を投稿できる掲示板を立ち上げたり、毎週の説教のバックナンバーを「ウェブログ」風に残す試みをしたりです。
▼「貧乏暇なし」と言われるように、いろいろやってはみるけれども一つもものにならないと、そういう心配もありますが、思うところがありますので、ぜひ形にしたいと思っています。
▼i-shot(と言うのでしょうか)や写メールで投稿できる掲示板があるということは、読者の皆さんが住んでいる場所・関わっている教会・紹介したいいろんなことを掲示板で分かち合えるということです。
▼「ウェブログ」風に説教を記録していくことには、デメリットも出てくると思いますが、メリットも当然生じます。「繁雑な作業から解放されること」「連続静止画クリップがクリックしなくてもちゃんと動いてくれること」こういうことでしょうか。近いうちに、「最近の説教」と差し替えようと思っています。








(No.107)(04/2/1)

▼「こんにちは。○○××サービスです。お客様の地区が、ADSLサービス対象地区になりました。失礼ですが、お客様はインターネットをご利用なさっていらっしゃいますか?」
▼「ADSLはですね、画期的なサービスでございまして・・・・」私は途中で話を遮ってこう言いました。「うるさい。誰にものを言っているつもりか。帰れ!」
▼電話口でしたので、帰れと言っても帰ることはできませんが、「高速の8メガ回線が利用できます」と、現在では低速の部類に入るサービスを画期的とか言って売り込んできたので、カチンときて電話を切ったのでした。
▼ようやく、ここ大島にもADSL回線が届いたわけですから、素直に喜べばよさそうなものですが、現在は40メガという途方もない回線を利用できる地域もあるわけで、それを知っている私に売り込むとは、相手を選び損ねたものです。
▼「今回は残念です。また、高速12メガ回線が届いたらご連絡いたします」という最後のセリフが、さらにこうじ神父の神経を逆撫でしたのでした。おとといきやがれ。








(No.108)(04/2/8)

▼説教の本文をお読みになって、「あれ?ルカ福音書でシモン・ペトロは湖に飛び込むのだっけ?」と思った方は正解です。何と与えられたテキストを読んだ上で説教を書いたのに、違う福音記者の記事と混同して話をまとめてしまったのです!
▼ナマの説教でどれほど汗をかきながら説教したことか。録音説教がそれを物語っています。最終的に「保存版」とする説教案は、あらためて書き直します。思い込みって、恐いですね。
▼大島町教育委員会の委員に選ばれました。これでわたしも「組織」の一員です。組織に縛られない自由が一つ取り上げられて、それでも新たな出会いがあって、こんなに町の生涯教育を思ってくださっている人がいるんだなあと、つくづく感心しました。








(No.109)(04/2/15)

▼世の中、「ばれなきゃ大丈夫」という事件が続発しています。「アメリカ産だけど、国内産のラベル貼っちゃえ」いけません!少なくともアメリカ産を「五島牛」で出すとすぐにバレます。五島牛は「五島弁」を喋るからすぐ分かります。
▼先日はパック詰めした日付を偽装していました。10日にパック詰めした物を、翌日に合わせて11日パック詰めというラベルに張り替えて翌日置こうとしたのだそうです。よくやるなあと思ったり、やるものだなあと思ったりです。
▼説教の偽装工作もいけません!三年前のあの日あのときの説教を、あたかも今日の説教であるかのようにラベルを貼り替える。無駄です。自分の中で「偽装」という意識が働いて、音声説教に無理な力が入ったり、力無く説教したりと、すべて聞けば分かります。
▼自分にウソつくことは、何よりつらいことです。何とも感じなくなったら、あっさり手を引きましょう。そうならないためにも、たまには苦し紛れに古いのを混ぜたりしながらも、常にリセットかけながらメルマガを続けていきたいものです。








(No.110)(04/2/22)

▼パソコン用の複合プリンターに不具合が発生。「サポートデスクに電話を入れてください」と表示パネルに出るので、フリーダイヤル0120−×××−×××に電話。
▼エラー番号は何ですかと言われ、「エラーをさせますから、ちょっと待ってください」と言って、エラーと同時に表示された番号を伝える。するとサポートデスクのオペレーターが、「このエラーは送り返しての修理になります。商品は一年間無償サポートが受けられますが、いつお買い求めになりましたか?」
▼2002年の11月ですと言うと、「それでは実費で××円です」とこともなげに言う。私が壊したのか?と言いたい気持だ。5万円切るくらいの商品の修理代が、××円、プリンターに不具合があるのに・・・納得いかない部分もあるが、向こうは修理には応ずるが、無償サポートの期間をすぎている以上、有償での応対になるとの一点張り。
▼うーん、結果として高い買い物だったか。もうちょっと名前の通ったメーカーの商品を買うべきだったか。「兄弟」という名前なのだが、兄弟愛が・・・ないかも。








(No.111)(04/2/29)

▼「隠れキリシタンの島」生月(いきつき)に足をのばしてみました(「のばす」・・漢字が分からない)。誰にインタヴューしたわけでもありませんが、信仰の土地に足を踏み入れたという感じを持ちました。
▼感覚としては、生まれて初めて九州の長崎を旅行した人のそれに近いのでしょうか。私の今の生活に照らしてみると、やはり何か神妙な気持ちにさせられる独特の雰囲気を持っていました。
▼生月には二つの教会があります。本教会の「山田教会」と、巡回教会の「壱部(いちぶ)教会」です。思っていたイメージよりはこぢんまりした造りの教会でしたが、生月の人々のキリシタン信仰に守られた建物は、心惹かれました。
▼隠れキリシタンの信仰は、ほぼ400年にわたって受けつがれてきたものですが、近いうちにそれも消滅してしまうのだそうです。これまで信仰を受けついできた方々の上に、神様の深い配慮がこれからも注がれますようにと願います。








(No.112)(04/3/7)

▼生月教会の皆様、お世話になりました。こうじ神父は五島で言葉を覚えたためか、粗野な部分があったり、調子に乗った言い方をしたりして、上品な方にとっては気分を害するようなことがあったかも知れません。
▼感謝式を黙想会の最後にしていただきましたが、身に余るお言葉をいただき、恐縮しております。ただ、「五島弁をときどき織り交ぜてくださり、親しみを覚えました」のところは、実は、五島弁が抜けないために、そうなってしまうのです。「うまく織り交ぜた」わけではありませんので、あしからず。
▼それにしても、生活の場所としている土地をちょっと離れてみるって、ためになるものです。三日間お出かけしただけなのに、戻ってみると太田尾の子供たちが新鮮に映ったり、いつもと同じミサなのに、改めて感謝の気持ちが湧いてきたりと、リフレッシュさせていただきました。
▼最後に一言。生月でこのメルマガを読んだり、配信を受けておられる方がいらっしゃったら、掲示板などに顔を出してください。お待ちしております。あと一言。三日間頂いた料理が、忘れられません。








(No.113)(04/3/14)

▼「間違いない!」今このセリフで売れっ子になっている漫談士がいます。ちょっと真似して。「大量の郵便物を県全域にいっせいに投函すると、郡部はその日に届かないことがあるんだよね。」
▼「『届いた届いた!』って誰かに言われても、会話に乗り遅れて困ることがある。時間差をつけて投函してくれるとうまくいくんだ。間違いない!」
▼「大量の郵便物が何を意味するか、それは追々分かることだけど、いま話すともめそうだよね。間違いない!」
▼「世の中『変えられるもの』と『変えることのできないもの』があると思うんだよね。誕生日は『変えることはできない』でも誕生日をどこで迎えるかは『変わりうる』。間違いない!」








(No.114)(04/3/21)

▼長崎教区内で司祭叙階五十周年を迎える先輩方がいらっしゃいます。その中の一人は、言い方が正しいか自信はありませんが、「大叔父」さんです。私はその神父様からすると「いとこ半」の関係にあります。
▼単純に金祝五十周年でも偉いと思いますが、大叔父さんは「戦争から帰ってきて、神学校に行っていた弟が戦死したことを聞かされ、それではと、代わりに神学校に行ったのでした。よって、司祭に叙階されたとき四十歳、金祝ですから現在九十歳ということです。
▼祝辞を、近親者のこうじ神父が述べたのですが、その中でこんなことを取り上げてみました。「司祭生活で、さまざまな功績を残されたことは、数えるまでもありませんが、中田家の子孫にもう一人司祭を育て上げたこと(こうじ神父のこと)は、それに勝るとも劣らない功績です。」
▼「五十年勤め上げても、送り出した子の中から司祭になる子がついに出なかったという先輩はたくさんいるわけですが、神父様は近親者から弟子を育て上げました。どうぞこれからも、心静かに与えられた司祭生活を送って、第一線で働く司祭たちに、『第一線を退いたら、このようにして心静かに生きるものだよ』という模範を残し続けてください。」







(No.115)(04/3/28)

▼ぼくは、おおだおきょうかいで、うまれてはじめてしゅにんしんぷさまになりました。分からないことだらけで、はじめはしんぱいでした。うまくいきますように、とお祈りもしました。とてもたのしかった。
▼そつぎょうしたら、またちがうきょうかいに行きます。そつぎょうしても、ざいこうせいのことは忘れません。さいしょにしゅにんしんぷさまになった教かいなので、とてもじまんできます。
▼おせわになった「しすた」やいろいろおしえてくれたみんなにおれいを言います。ありがとう。また、おおきくなってからあそびにきます。
▼ぼくにできなかったことはゆるしてください。ぼくのせいでめいわくをうけたひとにもゴメンナサイ。ぜんぶをつぐないきれませんが、ゆるしてもらえるようにお祈りします。
▼さいごに、「カレイとヒラメのちがい」のことで、「カレイはごはんにかけてたべます(カレイライス)。ヒラメはごはんにかけません」とオバサンにデタラメを言ってしまいました。ゴメンナサイ。なっとくしていたみたいだけど、あれはジョークです。








(No.116)(04/4/4)

▼「探しなさい。そうすれば、見つかる。」聖書の言葉をこれから話す内容に引用することは失敬なことかも知れません。エイプリルフールを2日も過ぎて、ようやく「デマメール」を本気にしてくれそうな人が見つかりました。探せば見つかるものです。
▼次のような内容で送信しました。「私中田神父は4月1日に任地が突然変わり、台湾の『羅天(ラオテン)』小教区の「管理者」になりました。英語での司牧なので、しばらく語学の研修をし、9月からの赴任となります。お世話になりました。」
▼あまりの迫真の演技に騙されたのか、『羅天(ラオテン)』というありもしない地名が効いたのか、真偽のほどは定かではありませんが、昼食の弁当が喉を通らなかったと聞き、有頂天になりました(趣味悪い!)。
▼本当の任地は、長崎の伊王島です。教会名は「馬込教会」と言います。今年から隣の島「高島教会」も巡回先の教会として責任を持つことになります。というわけで、「島から島へと〜♪渡っていくのよ〜♪」という歌の通り、4月23日に引っ越す予定です。








(No.117)(04/4/8)

▼この「ちょっとひとやすみ」は後付けしたものです。聖木曜日は、「最後の晩餐の記念」「聖体の記念」ということで、どの教会でも聖体礼拝が熱心に行われます。
▼とある教会の聖体礼拝の折り、主任神父様が私に「この礼拝の時間の説教を君がやってみなさい」と命ぜられ、引き受けることになりました。主任神父様は加えて、「聖体礼拝のときの説教は30分することになっているから、しっかり準備しなさい」とも仰いました。
▼「30分かあ。これはよく準備しなければ」新米なりたてのこうじ神父は、主任神父様の言葉をまに受けて原稿を用意し、蕩々と30分の説教をしたのでした。務めを果たしたという安堵感を味わっている私に、主任神父様の雷が落ちました。
▼「だれがあんなに長い説教をせろと言うたか!お前のせいで礼拝が遅くまでかかったじゃないか」。主任神父様はからかうつもりで仰ったようで、言ったことすら覚えてなかったのです。今となっては楽しい思い出です。








(No.118)(04/4/9)

▼この部分も後付けです。聖金曜日は主の受難を偲ぶ大切な日です。ある教会では丸一日司祭が告白場に待機していて、赦しの秘跡を受けに来る人たちを迎える伝統がありました。私も与えられた時間に待機しておりましたが、印象深い出会いがありました。
▼その方は男性で、涙ながらに自分の半生を述べ、私はどうすればよいのでしょうかとこいねがったのです。こうじ神父も心動かされ、この人は私がとやかく言う前に、神様の赦しにあずかっているのだろうなあと思いました。
▼「神様はあなたが今日おいでになることをご存知で、待っていてくださったのですよ。神様の忍耐深い心に触れたので、今日からは晴れやかな気持ちで毎日をお過ごしください」実際はどんな勧めを言ったのか覚えませんが、私が話したというよりは、聖霊が語ってくださったと感じています。
▼どこかで触れたことがあるかも知れません。こういう場面に出くわしたことを、長崎教区の司祭の間では「大きい魚が釣れた」という暗号で分かち合うのだそうです。もちろん、個人のプライバシーには一切触れません。








(No.119)(04/4/10)

【太田尾の花嫁】

太田尾日暮れて 夕波小波
馬込教会へ お嫁に行くの。
「過疎地」と 誰もが心配するけれど、
釣りはできるから 大丈夫なの。

造船団地と サヨナラするのよ
幼い「しょうま」が 行くなと泣いた(泣いてくれるかなあ〜)

男だったら 泣いたりせずに
「しんや」にいちゃんと ミサ答え してね!

▼ここ何日かで、桜はすっかり花びらが落ちて、「葉桜」となりつつあります。満開のうちに何とか撮影を、と思っていたのですが、ずるずると日数だけが過ぎてしまいました。
▼転勤して大島に来られる方(カトリック教会では、教会同士で「転入・転出」届けを出しております)が訪ねてきまして、書類を提出しに来ました。お子さん3人、皆洗礼を受けておられます。うらやましい限りです。
▼この方のご主人がこれを契機に洗礼の勉強を始めるのだとか。ますます、うらやましく、心のどこかでは残念がったりもしています。だって私が関わることができないんだも〜ん。
▼まあ、それでも後任の神父様にとっては、始動するときによい刺激となることでしょう。「老兵は去るのみ」。「老」などではありませんが、後任の神父様の活躍ぶりを、遠くから目を細めて眺めたいと思います。








(No.120)(04/4/18)

▼最後に何を話すか。それは「何を大切に考えていたか」ということとつながります。説教する時間は12分なのですから、その中で話せることと言えば、やはり大切にしてきたことを一つ、または二つ。
▼その、詰まるところが「チャンスを逃さない」ということだったわけですが、「私はチャンスをすべてヒットにしましたよ」と言うつもりは毛頭ありません。頭の毛はすでにハゲかかっているわけですし、こんなところで背伸びをしてもしょーがないですから。
▼どうしてそのままに放っておいたのだろう。ある人にとっては突き落とすようなことをして、何と冷酷だったことだろう。いろいろお詫びすることがあって、「チャンスを逃しました」ということを隠すために、「チャンスを逃さないように」と言っている気さえします。
▼そんな私でも、神様は辛抱してこの教会で使ってくださいました。教会役員の方々も、私をもり立ててくださいました。感謝します。新しい任地で、応援してくださったすべての方のために、お祈りすることをお約束して、あいさつとさせていただきます。








(No.121)(04/4/25)

▼こんなことって、あるんですね。さんざんいろんな土地で電話回線からのインターネット接続を経験し、その場でいつも接続できていたのに、今回はどうしてもうまくいきませんでした。パソコンヲタクの魂を揺さぶられる出来事でした。
▼船で「家一軒分」を積み込んで、伊王島まで運んでくださった皆さん、本当にアリガトウ。日当としてお渡しした「1デナリオン」で、今頃は焼酎でも喰らっているでしょうか。一生忘れない思い出になりました。
▼馬込小教区の皆さん、お世話になります。始めてくる私を快く歓迎してくださり、荷物をせっせと階段から積み上げてくださいました。これからは、こうじ神父が皆さんの重荷を担っていきます。
▼メルマガをいつも楽しみにしてくださっている皆さん、大変お待たせしました。何とか、復旧しましたので、これからはバリバリやるぞおお。








(No.122)(04/5/2)

▼伊王島そのものが高速船で20分という「安近短」の場所にあるため、観光客がひっきりなしにやってきます。今の時点では、過去の経緯があるようで、教会堂の見学は外観のみ、ということになっております。
▼それでも、「教会に入らせてください」と訪ねてくる人もいるわけで、そういうときに中へ案内していると、ちょうどのときにやってきた若い青年2人が教会の中に同時に入りました。
▼先に開けて下さいと言った方は程なくして帰りましたが、青年2人は粘っこく、しばらく教会の前列に座って何やら話ながら見学していたのですが、いきなり祭壇に上がって行くではありませんか。
▼「中に入るなああああ!!!」と怒鳴ったところ、悪びれた様子もなく「あ、そうですか」と言ってまた椅子に座ります。これを見たときに、どうやったら心ある人が中でお祈りできて、心ない人には荒らされることなく教会堂を開けることができるのか、ただ今思案中です。








(No.123)(04/5/9)

▼私は転勤してくるときに車を持ち込みませんでした。伊王島に車を持ち込むためには、「渡し船」の業者にお願いするのですが、「行きはよいよい・・・」という面があって、考えた末に大司教館というところに置いてきました。
▼こう言うことです。例えば、伊王島から福岡に出かけようというとき、伊王島から車を渡してくれる時間は午後1時しかありません。それでは午前中いっぱい身動きが取れないことになります。
▼むしろ、長崎に置いてもらって、長崎まで出かけてから動き始めれば、朝一番からでも動きが取れます。その上、伊王島から車を運び出す運賃も、おそらく1万ではきかないでしょう。そうなると、やはり不経済です。
▼身軽ではあるのですが・・・。この時間窓の外は雨。雨が降ってる。こんな雨の日、うーん、どうしたらいいのでしょう?








(No.124)(04/5/16)

▼ひょっとしたら、私はとんでもなく贅沢な島に転勤したのかも知れません。この原稿を書き上げたのが5月14日、その時点で「伊勢エビ」を5回食べました。石鯛には2回ありつきました。
▼長崎港に寄港する「豪華客船サファイヤプリンセス」含め大小さまざまの客船を机の窓越しに見ることができますし、まるで地中海のように沿岸・対岸の町並みが見えます。その中には長崎港にもうすぐ架かる女神大橋、海沿いの神ノ島教会、香焼教会なども小さく見えています。
▼自炊も何とか続いていますが、ここ数日は地域の方が料理したものを持ち寄ってくださるので、三分の一以上は料理をしていません。美味しい料理の背景となっている自然が豊かであるということは、都会の喧噪から一歩離れて暮らすことができるということでもあります。
▼もしかしたら、こうした生活は、ある人々が「夢の中でだけ」描く生活なのでしょうか。その、「夢のまた夢」とやらが現実である私は、これはもしかしてとんでもない生活を供与されているのかも知れません。








(No.125)(04/5/23)

▼【主の昇天の祭日】主の昇天は、きょうの第一朗読にあるようにキリストの復活後四十日目の出来事でした。これに基づいて、典礼暦では伝統的に復活の主日から四十日目の木曜日に祝ってきました。
▼しかし、日本のように主の昇天を祝うために週日に集まることが難しい状況を考慮して、第二バチカン公会議後に行われた典礼暦の改訂では、主の昇天の祭日を復活節第七主日に移すことができるようになっています(「典礼暦と典礼暦年の一般原則」7番参照)。
▼もちろん、メルマガを受け取っている方の中には、海外で受け取っておられる方もおられまして、そうした方々の国では主の昇天も復活後四十日目、聖霊降臨も五十日目と、きちんと聖書の通りに祝っているようです。








(No.126)(04/5/30)

▼ことわりなしに紹介する失礼をお許しください。オランダでメルマガを読んでおられる方からたよりが届きました。その方はメルマガのことをプロテスタントの信者さんから紹介してもらったのだそうです。
▼オランダで日本人信徒が置かれている状況も、少しかいま見ることができました。その方が月に一回楽しみにしていた日本語のミサも、今は途絶えてしまって、日本語のミサ・日本語の説教に触れる機会が遠のいていたそうです。
▼縁とは不思議なものです。メルマガを発行していなければ、こんな機会は恵まれなかったことでしょう。当然、国内にもメルマガが縁で、近くて遠いあの人この人を知ることができました。
▼大変興味深い報告も入っていました。聖霊降臨の出来事にちなんで、各国の言葉がミサの各所に取り入れられるそうです。「共同祈願」を例に取ると、イラク、クロアチア、フィリピンのお国言葉が取り入れられるのだそうです。オランダのお国柄を感じさせますね。








(No.127)(04/6/06)

▼パソコンのソフトには、「聖書を自在に引く」ソフトがあります。今週の朗読箇所から紹介すると、「真理の霊」について学ぶために「真理」という言葉で検索すると、新約聖書の中で該当する節が80節あるという結果でした。
▼もちろん、狙っている意味合いで使われているかどうかはそれぞれの節について吟味が必要ですが、かつては「一生涯かけて調べ上げた業績」として一冊の本にまとまっていたことを考えると、進歩のすさまじさと同時に、何かが失われているのではないかと思ってしまいます。
▼そこで、もう一度原点に立ち返って、パソコンソフトで目的の箇所を引くのではなく、頭の中で、または実際の聖書を開いて該当の箇所を探せる状態に自分を高めるために、先週の説教にある通り、食事のたびに聖書を1ページ読むことにしました。
▼いろんな思い出がよみがえりました。中学生の時に、競って聖書を読み続けたこと、旧約聖書の通読に挑戦して、どうしても読破できずに、ある書物を飛ばして読んだふりして威張ったこと。今じっくり読みながら、どれもが懐かしく感じられます。








(No.128)(04/6/13)

▼年に一度の黙想会に参加してきました。じっくり司祭としての生き方を考える機会になったことはもちろんですが、ある意味で長崎教区と他教区(に大別させてもらいます)との「ズレ・差」のようなものを感じました。
▼良い意味での話は、「長崎ではそんなことは起こっていないでしょうが」と説教師は遠慮しながら仰います。私たちの側からは、「そんな問題、長崎では問題にならないなあ」と思うこともしばしばでした。
▼こんな指摘もありました。「長崎の教会では、ミサの前に朝の祈りを祈祷書を使って唱えている」。これが、説教師にとっては新鮮な驚きだったようですが、私たち現場の者にとっては「え?やってないの?」と、反対に驚きました。
▼長崎は日本のローマと言われるようですが、それは、「遙か昔のよき時代の中で生き続けている」「旧態依然何も変わらない」両方を見つめる刺激になりました。








(No.129)(04/6/20)

▼月九のドラマの撮影に協力しました。本当に今回のことがよい影響をもたらすものかどうか不安な部分もありますが、ドラマは教会という場所を、教会での結婚式を、ある意味このような場所として理解しているのだろうなあというおおよそのことは掴めると思います。
▼大物女優さんや、かつて渋谷で「ゲリラライブ」をよく決行していた歌手や、ビッグな俳優、今をときめく女優などを目の前に見ることができました。さすがにドレスを着た女優さんが目の前に立ったときは緊張した!
▼6月28日です。見逃しても大丈夫です。私はビデオチェックして、DVDに残す予定ですから。








(No.130)(04/6/27)

▼前アメリカ大統領の自伝「My Life」が出版されました。大統領の伝記ということだけでも十分話題性がありますが、「何でも見せる、何でも表に出す」気質の中にあって書かれた文章は、果たして日本人にも受け入れられるでしょうか。
▼そのことに引っかけてなのですが、人間は最終的に審判を受けるとキリスト教では言われますが、神様は「何でも表に出さないと済まない」気質なのでしょうか?
▼「すべて白状しなさい」と問いただされて、日本人の私が言葉に詰まったとき、「あなたはすべてを言葉に言い表しませんでした」と裁かれてしまうのでしょうか。何となく、日本人の裁きは日本人の気質を汲み取って裁いてもらいたいなあ、と思うわけです。
▼たとえば日本人は、人を家に招待したとき、すべての部屋を見せることを良いこととは思っていません。そのへん、神様も分かって裁きを行ってくださるものと信頼しております。








(No.131)(04/7/4)

▼とある読者の弁に耳を傾けながら、宣教のあり方をあらためて考えています。それは、「他宗教は自分の信仰を強要するが、カトリックは来る者は拒まず・去る者は追わずで、表面的には冷たく感じる」というものでした。
▼こうじ神父がそう理解したわけですが、信仰を強要する場面は、あえて考えれば結婚の準備に来られた「カトリックでない方」に洗礼を勧めるくらいだよなあと思ったのでした。もっと強要するスタイルも、真実を求める一つの表現かも知れません。
▼そこで私も強要したりして。このメルマガを、本当に意味があると思うようでしたら、このメルマガをまったく知らないだれかに、購読の手続きまで持ち込んでみてください。でも、何だか新聞の押し売りみたいで、自分としては腰が引けますが・・・。








(No.132)(04/7/11)

▼実はわがまま身勝手な事情で、「こうじ神父説教(日曜有料版)」を立ち上げています。税込み500円/月です。いろいろ理由付けずに、こうじ神父への「投げ銭」として受け取らせて頂きます。
▼誰にも、何も知らせなかったのですが、申込みしてくださる方がちらほら見えるようになりました。有料版の発行元が、いかに有名であるかということの何よりの証左だと思っています。
▼たくさんの人と出会います。このメルマガという媒体で出会う方々は、国を超えます。ネット媒体であるからこそ、国を超えるのだと思います。つい最近、印刷媒体を通して時代を超えてある先輩に出会いました。
▼その先輩は今小生が赴任している教会にかつておられた先輩で、こちらでの時代を含め、司祭生活25年を振り返りながら波乱の四半生(というのかな)を綴っておられます。いつかこのメルマガの延長線上で、私も時代を超えて多くの人と出会ってみたいものです。







(No.133)(04/7/18)

▼実はわがまま身勝手な事情で、「こうじ神父説教(日曜有料版)」を立ち上げています。税込み500円/月です。いろいろ理由付けずに、こうじ神父への「投げ銭」として受け取らせて頂きます。
▼「親はそこまで面と向かって言えないんです。言ってもらってよかった」これはある保護者の弁です。「早く片付いて欲しいと思っているんですが、なかなか・・・」これが本音なら、よほど長く居座っている子供がいるのでしょう。
▼男性5人、女性5人集まってもらって、ジャンケンしてください・・・こんな感じで簡単に結婚相手を決めることはできないものなのでしょうか。小学校も中学校も一校しかない島の中で、勝手知ったメンバーですから、愛情はあとで湧いてきそうなものですが。
▼私の目標(あえて小さな声で言いますが)は、この島内のカトリックの青年同士で、年内に一組成立させて、結婚式まで漕ぎ着ける。青年司牧上での密かな目標なのですが。








(No.134)(04/7/25)

▼どうしても痩せている人よりも太っている人のほうが夏は不利です。汗をかいても、痩せている人はハンカチでさっさと拭けそうな気がしますが、太っているとタオルがないと間に合わない気がします。実際その通りです。
▼また、海水浴に行ってももてそうな気がしません。小学生と泳ぎに行っても痩せているときは「神父様〜一緒に泳ごう」と声をかけてもらえたのに、今はさっぱりです。これはひがみでしょうか?単なる思い込みでしょうか。
▼太ってしまうと、一年中体が毛布をかぶっているようなもので、汗は流れても冷たい汗が流れ、体内が燃焼しているという実感はまったくありません。不利なことだらけのような気がします。
▼夏のラジオ体操。喜んで体操のお兄さん(おじさん)を引き受けていたのが、今年は遠慮させてもらいました。それでも気にはしているわけで、BSエアロビックのお姉さんの映像を見ながら、「ワン・ツー・スリー・フォー」しています。








(No.135)(04/8/1)

▼ペーロン競漕の構成要員(不勉強で間違っていたらゴメン)。漕ぎ手。14〜18名?太鼓叩き1名。ドラ叩き1名。ペーロンの中に入ってくる海水を掻き出す人1名。舵取り1名。合計20〜25名程度。
▼舟の上では完全に「スポ根」の世界。「もっと櫂を引きつけろ」「手を抜くな。手を抜いたら舟の重みですぐ伝わるんだ」「根性出せ〜。負けるためにやってるのか」「気合い入れろ気合い」その他諸々。
▼日が傾いた夕方6時半から、一度だけはっきりした休憩を入れて約2時間。密着してビデオカメラを回せば、ちょっとしたドキュメンタリーが制作できそうな中身の濃い練習風景です。その中で毎度まめをつくり、皮が破れて手袋に血を滲ませながらドラを叩いています。
▼私も「エースを狙え」「アタックナンバーワン」「巨人の星」世代ですから、スポ根ものは気持ちが良かったりします。変な言い方ですが、練習を終えて帰るときの気分は「自分に酔っていたり」するわけです。ウットリ。








(No.136)(04/8/8)

▼暑さでどうかしているのでしょう。先週は「豊か」と表示すべき箇所がほとんどすべて「豊」となっていて、「山川 豊」状態でした。目くじら立てる制服のお局は放っておくとしても、たしかに読みづらかっただろうと、本人も含めて回顧しております。
▼「関心」も「感心」になっていたし、ほとんどダメダメ。「病人の見舞いに来ました。○○さんをお願いします」。「あれ?今週でしたか?」という声を残して老人ホームの職員が一生懸命○○さんを探しに行ってくれました。
▼毎月第一の曜日に行くことにしている高島町の老人ホームですが、その日は何と7月31日、何を勘違いしたか一週早く訪ねてしまったのです。
▼訪ねて「しまった」。くだらんジョークですが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で連れてこられた○○さんに、「ゴメンね。また来週来ます」と謝って、すごすごと別れてきました。








(No.137)(04/8/15)

▼「あなたは聖母マリアでも何でもありません。ほっといてください・・・」。土曜日の昼にメルマガが届かないと言ってわざわざメールをくださった方。このメルマガは日曜日の午前5時に基本的に配信することになっています。何の心配もありません。
▼何が心配なのか、何のお世話がしたいのか。金曜日、土曜日はいろんなことで詰めの作業をしているところなのです。説教だけの詰めをおこなっているわけではありません。
▼だから土曜日にメルマガが届くのは発行人からの「サービス」なのであって、「義務」でも「約束」でも何でもありません。もしもあなたが聖母マリアなのでしたら、さっさと天に上げてもらってください。
▼聖母被昇天ですが、オリンピックの勝負を前にした選手のように、大舞台を前にしたある種の「エネルギー」が充満しているこうじ神父なのでした。








(No.138)(04/8/22)

▼この夏、一つだけ「楽しみ」を増やした。「日記」というジャンルがインターネットの世界にあるが、そこで見たこともない人と交流を持っている。
▼まったく違う世界、まったく違う価値観や話題。刺激的です。ハンドルネームをつけて、上下やバックグランド関係なしに話題に参加するので、また違った楽しみがあります。
▼皆さんも、もし良かったらそういう機会を持ってみると良いと思います。あるいは違う掲示板に書き込みをしてみるとか、そういう全然違う場所に自分を置くと、本来の自分との間でメリハリがつくかも知れません。
▼ただし、某最大掲示板サイトはあまりお勧め致しません。あくまでも個人的な見方ですが。








(No.139)(04/8/29)

▼先週の「日記サイト」が楽しみの一つになりましたというのは、少し言葉が足りなかったようです。私が利用しているのは「日記ジャム」(Nikki jam)というサイトだけです。ここだけです。
▼いろんな人が自分自身を日記風に表現していて、興味を惹いた日記に、ときどき日記を見ていますよとか、同じ話題で日記に参加させてくださいとか、そういう関わりかたをするというものです。
▼自分の興味を、日記風にまとめて、つづっていく。共感する人が参加を申し込んでくれば、その人とも日記を共有して育てていく。こんな過程を経て人と人が出会っていくさまを、感心したり、驚いたりしています。
▼もしも興味があったら、見学してみてください( http://www.nikkijam.com/ )。自分の日記を立ち上げるのも面白いと思います。掲示板とは、ひと味違いますよ。








(No.140)(04/9/5)

▼信じられる話かどうか・・・クウェートの未亡人という肩書きの女性から一通の英文の便せんが司祭館に投函されていました。木曜日でした。いつもはざっと読んでゴミ箱に入れるのですが、今回は興味を惹く箇所があったので、綿密に読むことにしました。
▼「460万ドル寄附をしたい」。私の目が一瞬「点」になりました。1ドル110円で計算しても、5億近いお金です。東大卒の神父様と、教区本部と、大神学院にあらためて問い合わせをして、最初の返事を出しました。その日、大司教様は留守でした。
▼するとすぐに、「すべての財産を管理しているスペインの代理人と連絡を取りなさい」という返事が来ました。飛び上がりたいのを必死に押さえて、翌日大司教館に赴き、内容の真偽を確かめてもらいに行ったのです。
▼「これは話が出来過ぎだよ。信用しないほうがいい」。ええぇ!5億ですよ?騙されてもいいじゃないですか、と思ったのですが、アメリカ人の神父さんの意見では、資金洗浄のためにあなたの教会が狙われ、協力をさせようという魂胆だと思うということでした。
▼うーん、それにしても惜しかったなあ〜。








(No.141)(04/9/12)

▼だれでも地元には愛着があるものです。地元がいちばんと思っています。ですが、今年郷里に帰ってみると、今度ばかりは地元は影が薄いなあ、と思わざるを得ませんでした。
▼今赴任している教会よりも、平日のミサの参加者が少なかったり、ミサに参加する人の構成(男女比とか信徒修道者比とか)も、明らかに赴任している教会が魅力的でした。これは、何かを示す兆候なのかも知れません。
▼つまり、田舎が信仰深いとか、田舎が教会に参加しやすいとか、そういった「既成概念」は「思い込み」になりつつある、ということです。都会に近い場所にあるこの教会が、「田舎の良さ」を乗り越えつつあります。
▼すべてに当てはまるということではありません。ただ、今年に限っては、信仰心は田舎が強いよなあと思っていた部分が揺らいだことは確かです。信仰は、田舎にあるのではなくて、人間の中にあるのだと、あらためて考え直した出来事でした。








(No.142)(04/9/19)

▼欲に目が眩んだ?まあそう思われる方にはあえて弁解などは致しません。「有料版今週のお説教」のお知らせと募集です。内容とサービスを紹介しておきますので、興味のある方は申込みお待ちしております。
▼これまで、無料メルマガと有料メルマガに大差はなかったのですが、これからは五週目ごとに「説教の録音CD」をお送りします。これで、無料メルマガと有料版との差をつけることができると思っています。
▼とは言え、一枚のCDに五週分の録音説教を収録し、購読者お一人おひとりに発送することを考えると、投げ銭頂いていてもほとんど収入には結びつきません。電卓たたいてくださればすぐに分かることです。
▼今回の売り込み作戦は、二つの判断がもとになっています。一つは、無料メルマガに音声説教のリンク先を付けていますが、何の役にも立ってないのではないかという判断、もう一つは、文字だけではどうしても伝えられない「場の雰囲気」を、少しの投げ銭をいただきながらでも届けたいという強い願いからです。
▼税込みで500円/月です。申込みは、ホームページ「話の森」の「メルマガ」欄から、またはこのお知らせの最後「有料版の案内」から申し込んでください。








(No.143)(04/9/26)

▼9月19日から連続広告を打ち出していました。今週も同じ文面でしたので、割愛します。








(No.144)(04/10/3)

▼9月19日から連続広告を打ち出していました。今週も同じ文面でしたので、割愛します。








(No.145)(04/10/10)

▼「報・連・相」。これ、何と読むかご存知でしょうか?「ほうれんそう」と読みます。この略語を知ったのは、「文鮮明教団」(あえて統一協会とせず、こう言いたいと思います)の被害が取り上げられるようになってからです。
▼意味は、「報告・連絡・相談」で、言葉だけなら取り立てて悪い意味ではないのですが、この集団の中では「マインドコントロールの結果」を指しています。「報告・連絡・相談」なしには、何一つできない人間にされてしまった人のことです。
▼当時の習慣は、教団を脱会してからもしばらく続きます。朝、目が覚める。自由になってみて、何をすればよいか分からない。自分で決断できず、報告・連絡・相談しなければ何もできない。そんなロボットの状態から抜けることができないのです。
▼この教団に関わりのない人でも、その傾向のある人は私の目からは「ほうれんそう」です。あの人がこのメルマガについてこう言っていましたよ、この人が「ちょっとひとやすみ」がしばらく読めなくて残念がっていました等々。
▼どうでもいいことです!ほんとに。私に「報・連・相」しないでください。その第三者は、あなたそう言ったに過ぎません。言いたいことは面と向かって言うように、その第三者に言ったらどうですか。私はほうれんそうは嫌いです。私はキャベツが好きなのです!又聞きしても、私は取り合いません。








(No.146)(04/10/17)

▼司祭館を建て直すことになりました。何となく、この小教区の象徴的な存在だったのですが、建て直すことで一つの区切りを迎えるような気がします。
▼本音を言えば、「何となく」ではなくて、「もののみごとに」象徴的な存在だったと言いたいところですが、ここはメルマガですのでこの辺で押さえておきましょう。いよいよ建て替えられるにあたって、ここで言っても差し支えない部分に触れてみたいと思います。
▼何であれ、ものは古びていく、傷んでいくのは当然ですが、大切にしていたものが傷んでいく場合と、ほったらかしにされたものが傷んでいく場合とは意味が違います。それはどちらも「もう限界だよね」ではあっても、意味が違うのです。
▼ある人は、「レンガは当時の雰囲気を残すものなので、そのままにしてください」と仰います。ですが、大工の見立てでは「建て替え以上に費用がかかります」と言われました。
▼これは一つの「警鐘」だと思っています。内部の全面改装ではどうにもならないくらい傷んでいたのです。人間は取り替え不可能でも、「もの」は取り替えがききます。過去に縛られず、飛び立つ時が来たのです。








(No.147)(04/10/24)

▼かつてテレビが世に出た時、箱の中に人が入っていると言って中を開けてみた人がいたそうです。箱のなかには真空管と、ちょっとした機械があるだけで、そこに人はいませんでした。
▼「そのDVDというものは、どうやって見ればいいんですか」とおばあちゃんに聞かれ、私はすました顔で「こうやってみるんだよ」と言って、DVDを顔に近づけて、「ウーン、ペーロン大会の様子がよく見える」と言いましたら、キツネにつままれたような顔をしていました。
▼いま、ケータイ電話の中で人が動き、お金の支払いを済ませ、通勤電車の改札をケータイをかざして通過しと、あらゆる機能がケータイに付加されてきました。そのうちにカセットCDの代わりをするのかも知れません。
▼そこに、人はいるのでしょうか。中を開けると、人が踊っているのでしょうか。聖書は、ひもとくたびに、そこに人が祈り、癒され、キリストが涙し、罪が赦されます。聖書を開ける時、そこには人が生きています。








(No.148)(04/10/31)

▼ようやく、ようやく土地の人が私を本当の意味で受け入れてくれました。魚釣りに行った帰り、「どれ。神父様見せてみらんね」と声を掛けてきました。「ほお、神父様職業間違えたばいねぇ」
▼嬉しくて、涙が出そうです。遠慮している人は、決して釣れた魚を見せろと人に言ったりはしません。中を見せろと覗いてくるということ、これが私の感覚では「敷居を置かずに付き合ってくれている」しるしの一つです。
▼ロザリオに来ているおばあちゃんのうしろから自分も階段を歩いてきて、「ばあちゃん、せいの出るねぇ」と声を掛けたところ、「ばあさんやけん、祈りしかしーきらんけんねぇ」と言ってみんなで笑いました。
▼祈りしかできることはないと仰いますが、いえいえ、祈りすらできない(祈りの必要性を感じていない)人もたくさんいるのですから、おばあちゃんたちは尊いことをしているのです。皆さん私を受け入れてくれてありがとう。








(No.149)(04/11/7)

▼十一月。死者の月です。私がこの月を意識できたのは司祭になったおかげです。もしも一般信徒であって、十一月は何の月ですかと尋ねられたら、「はぁ?そんなもん知らん」と吐き捨てるように答えるのかも知れません。
▼そういう意味では、今の信徒の皆さんは(今私が関わっている信徒、と言ったほうが正確でしょう)、十一月をふさわしく過ごす最初のとっかかりとして、第一日曜日に共同墓地に集まって追悼ミサを捧げたのですから、感心としか言いようがありません。
▼もし、私が高校生であって、今月十一月は何の月だ?と尋ねられても、ひとことも返せなかったのではないでしょうか。あるいは二十代、三十代の社会人であっても状況は変わらないのかも知れません。
▼生活の中で表現される信仰のある部分は、確かに廃れていくと思います。時代に合わない、効率的でない、まったく現代人の信仰心を呼び起こす行動となり得ないなど。けれども、思いがけない部分で、十一月の死者の月という考え方や、ロザリオはいっこうにしないけれども五月は聖母月だという意識は、案外これからも生き延びるのかも知れません。







(No.150)(04/11/14)

▼区切りのいい数字までたどり着きました。今回の配信で150号です。厳密なことを言えば、150週というわけではありませんが、まあ、それに近い期間継続できたのは、つかず離れず、応援してくださった方々のおかげです。
▼「つかず離れず」です。取り憑かれたように追い回す人には困っていますが、この適当な距離で見守ってくださる方がいることで、私は公平にものを見、福音に自分を置き、とらわれずに分かち合っていくことができたのだと思います。
▼誰かひいきの人を念頭に置いていたとしたら、私のメルマガは騒がしいドラでしかなかったに違いありません。たまに、本当にたまに感想を頂くのに、それらの声が今日まで私の背中を押してくれました。
▼実は今日まで黙っていましたが、ここ二年間で配信した説教が本になります。来年三月頃を予定しておりますが、もしも皆さんの目に留まりましたら、手にとって読んで頂ければ幸いです。お一人おひとりに感謝を述べたい気持ちでいっぱいです。まだまだこのメルマガは数字を延ばしていきます。こんなものでは終わりません。








(No.151)(04/11/21)

▼「○○さ〜ん、船で釣りに行こうと思うけど、イトヨリ釣れるかなあ?」「今イトヨリは釣れんバイ。アラカブ釣りの準備ばして行かんね」「そうね。分かったー」言われるがまま、アラカブ釣りの竿と餌を準備して、いざ現場へ。
▼ところがアラカブ&ベラ釣りは大苦戦。これでは地域住民皆が見ている中で出発した「ミカエル丸」は帰るに帰れない。おまけに今回の初釣りには心中期するものがあって、どうしても見栄えのするものが釣りたい。
▼未練がましくイトヨリ釣りのポイントに移動。シーアンカーもなく、釣り竿もアラカブ釣りの竿のまま、半信半疑で竿を出すと、しばらくして強烈なアタリが。頭を振る動作から、30センチは優に超えるイトヨリに違いない。柳のようにしなる竿を操る。1度目は痛恨のばらし。何とか2度目のアタリで大物イトヨリをゲット。
▼次の瞬間に取った行動は?ケータイから電話する。「コラッ!○○さんの嘘つき!デカイのがかかったやかね。メチャクチャ竿の曲がって、折れるかと思うたとバイ!」「ゴメンゴメン。漁師仲間は釣れんて言いよったがなあ。神父様は例外やろうか・・・」
▼そうこうするうちに30センチ前後のイトヨリを3匹仕留めたところで港に戻り、約束を果たしに行く。約束とは、この船を譲ってくれた方のおばあちゃんの霊前に、最初の初物をお供えすることだ。
▼おばあちゃんの息子が船を譲ってすぐ、彼女は天に召されてしまった。生きている間に食べさせてあげられなかったので、恩返しのつもりで船から上がったその足で遺影の前に座り、報告してきました。きっとあの魚は、シヲばあちゃんが釣らせてくれたに違いありません。








(No.152)(04/11/28)

▼最近、「はてな」(http://www.hatena.ne.jp/)というサイトの「日記」を利用し始めた。従来利用していた「メルマ!」(http://www.melma.com/)のウェブログ機能とあまり変わらないのだが、「はてな」で更新した日記だと希望者は製本サービスが利用できる。
▼「本だったら、ほかの出版社から出版するではないか」と言われそう。版権の問題など、確認しておく必要があるかも知れないが、計画している文庫本は説教本文だけの「説教集」なので少し意味が違ってくる。
▼メルマガの一つの楽しみは「ちょっとひとやすみ」であるから、エッセーの部分も含めた形で紙に残す方法を模索していたところに、この「はてな」があてはまったというわけだ。厳密には「製本」であり、出版ということではないから、版権の問題は発生しないのかも知れない。
▼エッセー付きの製本は、十冊程度の限定で、心に決めた数名に贈る予定にしている。誰に送り届けるかは、発送をもって連絡に変えさせていただきます。








(No.153)04/12/05

▼まずは先週の続きから。「説教本文+ちょっとひとやすみ」がおよそ一週間後に刷り上がります。仕上がりがとても気になるところです。装丁はブルー、A5・横組みで375ページほどの分量です。
▼司祭館の建設がいよいよ見える形になりつつあります。先週の地鎮祭に続き、12日には「上棟式」を迎えることになりました。今週は、基礎組みのようすを写真にて紹介しております。
▼実際に計画が軌道に乗るまでは、こんな大きな計画がうまく進められるだろうかと心配もありましたが、いざ動き始めるとトントン拍子に動くもので、はじめの頃の心配がウソのようです。
▼どんな時も、篤い信徒の支えに守られて「神父は神父しながら神父になる」のでしょう。この言葉は、亡くなられた島本大司教様がことあるごとに引いていた「大工は大工しながら大工になる」をもじったものです。
▼寄附をくださる方にも恵まれました。「司祭館が立派に建つといいですね」と声を掛けてくださる方も大勢いらっしゃいました。こうした応援・支援のおかげで、それらしき仕事を成し遂げることができております。








(No.154)04/12/12

▼小さい頃、大工にあこがれたことがありました。身近な親戚に、大工さんがいて、鉋(かんな)とか、鋸(のこ)とか、触らせてもらったことがあります。何よりも、木の匂い、鉋で削った鉋屑の匂いに心惹かれたのかも知れません。
▼大工にあこがれたのに、なぜ大工にならなかったのか。分かりません。小学校の卒業文集には、大工になりたいと書いたような気がします。本来は父親の職業にあこがれるのでしょうが、遠洋漁業で満月前後の三日間しか家にいない父の職業には、あこがれる具体的な要素が見つかりませんでした。
▼大工にはなれませんでしたが、今目の前で大工さんに住まいを作ってもらっていることは単なる偶然とは思えません。こんなに目の前であの大工さんの仕事を見ることができる。やはり、不思議な導きを感じます。
▼お世話になっている大工さんは朝一番から夕方真っ暗になるまで、本当にまじめ一本に仕事をしてくれています。さすが選ばれるだけのことはあると感心します。そんな大工さんのおかげで、12日は棟上げ式を迎えることができました。木の匂いを、お届けできないのが残念です。








(No.155)04/12/19

▼私は教会の馬小屋はその土地土地で独創的であってよいと思います。何でもありだというつもりはありませんが、独創的であることは許されると思っている者の一人です。
▼馬小屋そのもの。地元の大工さんがこしらえたベニヤ製の小屋もあるでしょう。あるいは新聞紙から作った「岩」を積み上げて洞穴にしてもよいでしょう。背景。飾らない、シンプルなものでもよいでしょうし、布のキャンバスに描いたため息の出るような油絵もすてきでしょう。
▼登場人物には少し制限があるかも知れませんが、その人たちがたとえば模型の線路のようなレールの上を動いて回ると楽しいなと思います。献金を入れるとその重みでスイッチが入るようにすると最高かな?
▼そしてもう一つ。はるか彼方に三人の博士がすでに旅を始めているというのはどうでしょうか。また、その馬小屋を背景にして、のちには洗礼者ヨハネが洗礼を授ける場面までセットを用意すると、なが〜く楽しめるのになあ。








(No.156)04/12/24

▼十名の皆様(団体も含む)に「クリスマスプレゼントの本」をお届けしました。利用した「はてなダイアリーブック」は、申込の時に手続き費用800円と、PDFファイルによる「ゲラ刷り」が100円、実際の印刷に当たっては1ページ8円で請求が来ます。
▼一冊の単価がざっと3500円になりました。日本でいちばん単価の低い印刷物は、おそらく聖書だと思いますが、スタディバイブルという聖書に関して言えば、1ページ5円を切る単価ですから、聖書は本当にお金以上の価値があることが分かります。
▼そう考えると、1ページ8円もするのに、それに見合う内容かなあ、と思うと穴があったら入りたい気分です。いろいろ修正箇所がありますが、決定的だったのは「No.047*主の洗礼」のページです。ダブっていました。
▼合計4ページ、自分のミスで32円私が損してしまった計算です。まあいろいろありましたが、受け取った方々、メリークリスマス!








(No.157)04/12/25

▼「ざんね〜ん!」ギター侍に切りまくられそうです。洗礼・堅信式が行われた夜半のミサでしたが、説教録音のための録音機も、記念撮影のためのデジカメも、すべて忘れておりました。せっぷく〜!
▼肝心なときに、どうもこうしたミスを犯してしまう。そんな性格なのでしょうか。自分が腹立たしいです。あの日のミサ、あの日の説教には戻れません。取り返しがつきません。返す返すも惜しいと、夜にスピリットコーヒーを飲みながら唇を噛みました。
▼23日から24日にかけて、クリスマスの説教を考え、幼児園のクリスマス会に参加し、サンタクロースを演じ、突然入った通夜と葬儀の司式者として振る舞い、御降誕の夜半のミサで「おめでとうございます」と説教します。
▼キリストは「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣く」そんな一生だったと思いますが、及ばずながら、司祭もすべての人の喜びと悲しみに寄り添う者でありたいと思います。ついでに、「釣りをする人とともに釣りをする」ことも。








(No.158)04/12/26

▼どうもギリギリにならないと説教案がまとまりません。メルマガ配信先のうち一誌は土曜日の配信に間に合わないと配信元から警告が発せられます。さらに二十四時間後、四十八時間後と順にペナルティーが加算され、ついに配信ツールを閉鎖され、お取りつぶしになるのです。
▼そんな危険な状況が、目の前に迫っています。ただ今夜の十一時四十五分、あと十五分以内に該当の発行スタンドから出さないと、警告が発せられます。
▼先を見て早め早めに行動できないくせに、何と小生は来年二月からとある要理教育の雑誌に記事を連載することになりました。全体の中のほんの一部を引き受けるに過ぎないのですが、それでも四月の記事を二月に入稿する必要があります。大丈夫かいな?
▼今日の説教を読む限り、人には言えた義理ではありません。ですが、人に物申す以上は、みずからも襟を正し、本日の説教案を謙虚に受け止めて、早めかつ大胆な行動に打って出ようと思います。








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