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(No.159)05/01/01

▼先週の聖家族につながるのですが、一人の人間ができることは本当に限られていると思います。これが、家族や夫婦、またチームとなると何倍もの相乗効果を上げます。実際にそのような現場を目の当たりにしました。
▼こういう場面です。交通船のターミナルに、私とある家族の車とが同時に到着しました。その家族は夫婦とお嬢が一人の三人です。家族はターミナルに着くと自然に連携し合います。一人は切符を三枚購入し、一人は乗船順番の確保に回り、両方の恩恵をもう一人は受けて余裕の雰囲気です。
▼これが、こうじ神父が三人いた場合はどうなるか。同時に到着した場合は三倍時間がかかるはずです。乗り合わせた家族と同じ程度の余裕を持って待機するためには、おそらく三倍早めに行動を起こしている必要があるでしょう。
▼その日は、まざまざと見せつけられました。一人ではせいぜいできることは一人と半分くらい、ですが三人で協力すれば一人で三枚の券を購入したりと、単純に考えても三倍の能率を上げるのです。考えさせられました。








(No.160)05/01/02

▼昨年末の聖家族の主日につながるのですが、一人の人間ができることは本当に限られていると思います。これが、家族や夫婦、またチームとなると何倍もの相乗効果を上げます。実際にそのような現場を目の当たりにしました。
▼こういう場面です。交通船のターミナルに、私とある家族の車とが同時に到着しました。その家族は夫婦とお嬢が一人の三人です。家族はターミナルに着くと自然に連携し合います。一人は切符を三枚購入し、一人は乗船順番の確保に回り、両方の恩恵をもう一人は受けて余裕の雰囲気です。
▼これが、こうじ神父が三人いた場合はどうなるか。同時に到着した場合は三倍時間がかかるはずです。乗り合わせた家族と同じ程度の余裕を持って待機するためには、おそらく三倍早めに行動を起こしている必要があるでしょう。
▼その日は、まざまざと見せつけられました。一人ではせいぜいできることは一人と半分くらい、ですが三人で協力すれば一人で三枚の券を購入したりと、単純に考えても三倍の能率を上げるのです。考えさせられました。








(No.161)05/01/09

▼気の早い話ですが、2005年12月25日は日曜日です。こうじ神父はこの日が来るのを5・6年前から待っていたと思います。たぶんそれくらいの間隔でしか回ってこないのです。ついでに言うと、一週間後の2006年1月1日も日曜日です。
▼何が言いたいかというと、祭日と日曜日が重なって嬉しいと言いたいのです。読者の皆さんはどうか知りませんが、準備するがわとしては、12月24日金曜日、25日土曜日、26日が日曜日というついこの前のローテーションがいちばんよろしくない。
▼説教するがわにとってはメリークリスマスではありません。ベリークルシミマス。当然一週間後は1月1日土曜日、1月2日は日曜日です。こう言っては何ですが、そのおかげで体調を崩したと言っても言い過ぎではないと思います。
▼そういうわけで、こうじ神父の今年のささやかな楽しみは年末にやってきます。あー今から待ち遠しい。どうでもいいことですが、2007年4月1日は日曜日なので皆さんご注意を。








(No.162)05/01/16

▼遠回しに言うことが相手を助けることもあるけれど、思っていることが伝わらない場合がしばしば。先週郷里の五島に帰った折り、めずらしく修道院で夕食にあずかってシスターたちと談笑したいなあと思って申し込んでみた。
▼「あのー、明日、夕ご飯をあと一人分作ってもらえませんか?修道院でご飯食べたいなあ」。「ええ、いいですよ」私はこれで十分意図は伝わったのだと思っていたが、結果はとんでもない方向へと転がっていきました。
▼その後しばらくして、修道院から実家に電話。「こちらの主任神父様と御一緒に食事されたらいかがですか?」「ええ、いいですよ」「そうなると、時間は夕方五時になりますけど、それでもおいでくださいますか?」シスターたちが五時に仕事が終わっているとは思えないけれども、まあいいかと思って了解しました。
▼行ってみてガッカリ。食事は二人分だけ用意されていて、郷里の主任神父様と一対一でご飯を食べる羽目になりました。なぜ〜?(あとで考えたこと。私たちの食事を早くサービスし終えないと、シスターたちの食べる時間が遅くなると考えたのかも知れません。だとすると、永遠に同じテーブルで食べることは叶わないのでしょう)








(No.163)05/01/23

▼どなたかハードディスクレコーダーをご利用の方はいらっしゃいますか?便利ですねぇ、あれ。はまってます。ああいうものをいじるの好きですから、とことん使い倒すつもりです。
▼ところでこれまでの撮り貯めたデータは、DVDディスクに保存していたのですが、画質を標準に設定してジャンジャン保存していました。これが失敗だった。DVDに残して保管しても、どうせ見ないでしょ。だったら画質は半分で、DVDを節約すべきでした。これまでのDVDディスク代金がもったいなかったなあ。
▼ということで、現在は画質を半分に落として記録しています。ま、特別に画質にこだわるものがあれば、その時はその時です。女優の顔が少々ざらついても、こうじ神父にはいたくもかゆくもありませんしね。
▼掲示板にも書きましたが、「DVD−VIDEO形式」の録音説教を出します。今出回っているほとんどすべてのDVDプレーヤーで利用できる形式です。これだと録音説教160回分が5枚か6枚で収まっちゃいます。ご利用お待ちしております。








(No.164)05/01/30

▼鼻歌が聞こえる生活って、いいですねぇ。こうじ神父は現在、教会役員が探してくださった方に「掃除・洗濯・食事」の賄いをして頂いています。年齢は私の母より十歳年上です。この方が、鼻歌交じりに仕事をしてくださっています。
▼私は、天地がひっくり返っても鼻歌を歌いながら説教を書くなんて芸当はできませんが、喜びが溢れるほど満ちている人は、与えられた務めを歌を歌うようにこなすことができるのかも知れません。脱帽です。
▼今いちばんこの賄いさんに救われているのは、私の「くだらな〜い」シャレや冗談に、赤くなったり青くなったりして反応してくれる(引っかかってくれる)ことです。ご自分で「神父様のお手伝いをしている日は、毎日がエイプリルフールに遭っているみたいです」と仰っていました。
▼一例だけ。民放のテレビキャスターで知らない人はいない「福澤朗(あきら)」さん。「この人知ってます。福澤さんでしょ」と仰るので、「よく知ってるねぇ。この人のお父さんも有名で、『諭吉』って言うんですよ」と言っておいたら、しばらく真剣に考え込んでくださいました。








(No.165)05/02/06

▼どうしても名前が出てこないあの人に捧げます。あなたはいつもどんなときも笑顔を絶やさず、ご主人の手を引いておられました。人が多くてもみくちゃになっている中、他の人はあなたに気が付かなかったかも知れませんが、私の目は釘付けでした。
▼また別のあの人に捧げます。私はあなたに敬意を表して、あなたが奉献で捧げた水とぶどう酒を受け取ったあと、あなたが着席するまでその場を動きませんでした。あなたはたいへんな高齢者でした。
▼侍者の子供にも言い聞かせて、「あの人が席に戻るまで、ここでいっしょに待っていよう」と言いました。あなたは水とぶどう酒を運んだだけだったかも知れませんが、私はその二つを運んだあなたの労苦も受け取りました。一生懸命運んだと確かに受け取りました。
▼どうしても思い出せないみなさん。思い出せない私にまずは責任があります。申し訳ありません。ですが、たかが一人の司祭が思い出せないとしても、神のもとでは名前は記憶されています。あなたの一つひとつの働きが、どうして忘れ去られることがあるでしょうか。







(No.166)05/02/13

▼馬込教会の写真を使ってのポストカードは秀逸な仕上がりでした。今回印刷した枚数がなくなったあとは、仕入れからすべて教会役員に任せようと思います。私はどんなことでも道をつけるのみ。
▼道順をつけてあげれば、多くのことは他の人でもできます。そして、軌道に乗ればそのうちに自分たちの活動として自信を持てるようになります。これ、私のいちばんの楽しみ。今回のポストカードも、将来は私の姿は消え、活動だけが残ることでしょう。
▼たまらない快感です。仮に、という話ですが、いつか私が今の教会を卒業し、また思い出してこの絵葉書を見に行った時、私が始めたことを誰も覚えていないとしたら、それこそ快感の極みです。右の手のしていることを、左手に知らせない。これぞ職人芸。
▼どこに行っても、何か一つはそういうことをしてきました。この姿勢が貫けるあいだは、司祭職は快感です。久しぶりに長崎地区の会議に出席した時にもそうでした。私がコピーし、印刷して残したパンフレットを、十年経っても大切に使っていました。この快感を他の司祭は理解しているのでしょうか。







(No.167)05/02/20

▼十ヶ月で、明らかに様変わりしていました。先週は前任地の小教区にお世話になったわけですが、何というのでしょうか、スッキリしたという感じです。とくに、聖堂内がスッキリ・整然と整えられていたのが印象的でした。
▼私がいた時チョロチョロしていた侍者が、朗読者を祭壇中央まで迎えに行き、朗読台まで導いていく様子を見ながら、「ああ、変わったんだ」という思いが確信に変わりました。十ヶ月もあれば、十分教会は生まれ変わるのだと思います。
▼当然ですが、こちら馬込教会も十ヶ月で見違えるほど変わりました。えっへんおっほんと言いたいところですが、「種を蒔き、水をやる」のは私であったとしても、成長させてくださるのは神です。そこのところを見誤ってはいけません。
▼何よりも、教会のために体を張ってくださる人が見える形で現れてくださいました。「○○さん、これをきちんと報告すれば消防署におこられるけん、消防設備を扱うお前が主任神父様のかわりにおこられてきてくれろ」。嬉しいじゃないですか。感謝です。








(No.168)05/02/27

▼スロースターターはある特定の種類の人と組むとものすごく力を発揮するのかも知れません。こうじ神父は典型的なスロースターターですが、私を支えてくれる人の中にものすごく仕事の段取りが早い人がいます。
▼私は、この人と出会ってこれほど教会の奉仕が面白いと感じたことはないかも知れません。振り返るとこれまでにも仕事の段取りが早い人はいたのですが、私が全責任を負う立場でなかった時代でもあり、巡り合わせの問題があったかも知れません。
▼今は違います。今日(土曜日)までにつもり積もった仕事が八つもあったのですが、話を日中に切り出しておいたところ、夕方にはそのほとんどに道筋が付きました。今はやることなすこと、楽しくて仕方がありません。たとえ準備に追われて夜中の二時まで机に向かっても、仕事が前に進むのが面白くて辛いとは思いません。
▼この小教区は、ここでしか得られないものを確実に得させてくれていると感じます。ただ一つの悩みの種は、可愛くて仕方のない小学生たちです。チビたちよ、頼むから土曜日一日中私の部屋でお菓子を食べながらDVDを観て説教の邪魔をするのだけはやめてくれ。頼むから・・・。







(No.169)05/03/06

▼昔中学校の英語の勉強で、呪文のようにこんなことを言ってましたっけ。「トール・トーラー・トーレスト」「ロング・ロンガー・ロンゲスト」。でもって今の私の気分は「ショック・ショッカー・ショッケスト」です。
▼文法的に間違っていることは十分承知しています。ただ、とあるソフトに装備してあった「メールデータのバックアップ」というメニューを鵜呑みにして作業を完了したところ、全メールと百人ほどのアドレス帳、さらに私のさまざまな「入会・会員登録情報」がどこかへバックアップされ、すべてなくなってしまったではないですか。
▼「ショッケスト」です。もうそれを通り越している気分ですが、部屋の中で「ゲルショッカー」のように「キー!」と言って暴れています。なぜバックアップした時点で、すべてどこかへ「移動」させてしまうの?またまた「個人情報」を失ってしまいました。
▼後悔先に立たず。こうなる前にいつも「機密性の低い形におろしてからデータを抜き取っておく」必要があると分かってはいるものの、今気分スッキリ状態のメールソフトを睨みながら、茫然自失の状態です。現在そのあとにリストに載っているのは城山教会の青年のアドレスが一つと、イギリス在住の方のメルマガ読者のアドレスが一つ、合計二つだけです。「泣いて〜泣いて〜泣いて〜泣いて〜。泣いて〜泣き疲れて眠るまで、泣いて」。







(No.170)05/03/13

▼先週と今週、黙想会のはしごをしています。高島教会(前半)→城山教会高校生・青年→純心中学校三年生→高島教会(後半)→馬込教会→大明寺教会。忙しいって有り難いことです。寝る時の「ストン」と落ちていく瞬間が何とも言えません。
▼ただし、起きる時は鉛のような体を起こす必要があります。目覚ましが鳴っているのに、手を伸ばそうとはしません。目覚ましはしばらくするといったん止まります。また五分後には鳴り出すのですが、何とその五分のうちに眠ってしまったりするのです。
▼世界は若者がいて明るくなります。若者は未成熟で未完成ですが、それがまた魅力でもあるのです。出会った高校生・青年、中学校の生徒さん。どうかそのはじけるような若さでやや中高年の私たちを刺激し続けてください。「堀江社長」ひとりが若者ではないことを主張し続けてください。
▼受験・就職試験を経て新たに旅立つ人たち。新天地でキリストを伝えてください。もしもこのメルマガが役に立つことがあったら、行った先でも読み続けてください。ケータイを持っている友だちを見つけて、「こんな神父もカトリック教会にはいるんだよ」って、「言うじゃな〜い」。







(No.171)05/03/20

▼皆様にはこれから話すたとえはどのように響くでしょうか。「中田神父、黙想会の機会に風呂に入ってみました。何と一年ぶりです。」「え?キタナイってですか?そうお感じになるなら、わたしも申し上げたいことがあります。」
▼「皆さんは、ゆるしの秘跡は一年に一回という方がいらっしゃるわけでしょう?あまり、大差ないのではないでしょうか?」「いいえ、神父様。私は汗をかいたりすることを慎重に避けてまいりましたので、一年間風呂に入らなくとも大丈夫なのです。」
▼「本当に、その言い分は社会の中で通用するのでしょうか。泥にまみれることや、油にまみれるような仕事なども注意して遠ざけたので風呂に入る必要はない。そのように、罪を犯さずに一年過ごしたので告白は一年に一回で十分なのです・・・それって、本当に通用するのでしょうか。」
▼馬込小教区の信徒は、今回のこのたとえに思う所があったのか、お手伝いの神父様の話では「大きな魚」が釣れたのだとか。あるお母さんも次のようなことをこぼしていたそうです。「うちにも十年風呂に入ってない息子がおるとさ〜」。






(No.172)05/03/24(聖木曜日)

▼遅い風呂に入ろうと服を脱いだ瞬間、聖木曜日の説教が天から降ってきました。風呂に浸かっている間じっくり温めまして、その勢いで今年の聖木曜日の説教は書き上げてしまいました。出来映えはどんなものでしょうか。
▼一度ひらめいたものをいったん手放してみることもあります。いったん手放してみると、どうしてもそうとしか考えられない時はもう一度それを拾って使うでしょうし、思い出そうとしても思い出せない場合は、ああ、あのアイディアはその程度のものだったのだとあきらめます。
▼また場合によっては、これはそのまま使おう、忘れないうちに形にしてしまおうと決断する時もあります。何が判断の基準かというのは難しいのですが、勘というか、経験というか、やはりこれもまた「いったん放棄してという手順は踏むべきではない」と、何かが自分に語りかける所があったりするのです。
▼まあ、気分次第という面もあるのかも知れませんが、いろんなところで自分の直観みたいなものは大事にしていたりします。その根拠というわけではありませんが、今日も「あの人、取りに来てくれないなあ」などとつぶやいていたら、チャイムを押してその人が玄関に立っていました。自分の勘を信じたくもなるわけです。







(No.173)05/03/25(聖金曜日)

▼最近天気が安定しません。本日(木曜日時点)暴風・波浪警報が発令され、お知らせをする防災無線放送でも「今後の天気には十分ご注意ください」という放送が流れました。春の嵐とは言うけれども、毎週船を乗り継いで教会にミサをしに行く神父のことをちっとは考えてもらいたい。
▼春の嵐と言えば、大相撲は「荒れる春場所」として知られているけれども、何も荒れたりしていない様子。おそらく横綱はそのままいって三十連勝するのでしょうし、相変わらず大関陣は不甲斐ないし、お茶漬けのコマーシャルの人の人気は衰え知らず。一つも荒れていないではないか。
▼そう思っていたら郵便が来て、今年の長崎教区の司祭の異動(転勤)を全司祭に通知する書類が届いていた。へぇへぇ・・・変われば変わるものだと感心しきり。一度では覚えられないくらい司祭の異動が発令されていた。最近の天気とここが「荒れ模様」だったか。
▼初めて主任司祭にご栄転されるたくさんの若手司祭の皆様。時に、責任の重大さに押しつぶされそうになるかも知れませんが、ええくろ加減の私がこうして務まっておりますゆえ、ご安心ください。分からないことは、近い先輩に聞くべし。最近いろいろ尋ねてくるある若い主任司祭が「可愛いなあ」と思う今日この頃です。







(No.174)05/03/26(復活徹夜祭)

▼ああああああ〜あくび。御復活の最初のあいさつがあくびで申し訳ありません。だって夜中だもんなあ。明日の午前中は「よきおとずれ」の編集会議があって、昼に納骨、許されないことだけど直後に年忌のミサ、夜に復活徹夜祭のミサが二回。
▼つまり明日は、説教を考えているヒマなんてないってこと。当然、二回目の復活徹夜祭が終えた夜の十一時以降に「復活の主日」の説教を考えるはずもなく、金曜日の夜中までにすべてを終えている必要があるってことです。だから眠いしあくびが出るけど、達成感はあります。
▼ところでこんな張りつめた状況に置かれた時、皆さんはどうやって張りつめた気持ちを解放し、リラックスするのでしょうか。私も苦労する部分ですが、最近はちょっぴり秘策が。秘策なので話したりはしません。アルコールではないよ。
▼新聞の編集長になったのでということではないけれども、こうなったら思う通り書かせてもらいますよ。新聞も、説教も。何だか腹いせみたいな・・・。クビになったらその時です。説教のほうは、クビになりたくないけど(爆)。








(No.175)05/03/27(復活の主日)

▼すがすがしい。本当は眠いけど。聖木曜日、「洗足式」を行いました。イエスが食事の途中に席を立って、弟子たちの足を洗うあの場面です。私は儀式に集中していたので誰の顔も見ないまま十二人の男性の足を洗い終えたのですが、あとで聞くとそうそうたるメンバーだったのだとか。
▼「いやあ、あの人が教会に来るようになるなんてねぇ」「それだけじゃなくて、背広着てネクタイ締めて、洗足式の列に加わっているじゃない」「ふだんでも背広着ない人が背広着て洗足式に加われば、かえって目立っちゃうね」。そんな方がいらっしゃったのですか。知りませんでした。
▼聖金曜日、十字架の道行きを午後三時に行いましたが、「生の木」、それも幅五寸の角材で大工さんに作らせた十字架をえいこらえいこらかかえさせて、十字架の道行きをいたしました。この時はメンバーが目に飛び込んだのですが、おおなるほど、この人が十字架を担ぐと、右と左に磔にされた人のよう・・・、いやいや、抱えているうちに顔が変わって、キリストのように見えて来るではありませんか。
▼そう言われれば、典礼係がボソッと言ったのです。「神父様、洗足式は本当にイスカリオテのユダば連れて来たばい。よかったとね?」私は軽く聞き流していたのですが、どうやら皆が認めるそれらしき人が含まれていたのだそうです。ですがイスカリオテのユダは一人のはず。何人も連れて来ていたの?







(No.176)05/04/03

▼教皇様の容態が急変。今週の話題にしようと思っていたことは、おそらく「ボツ」になるのだろう。来週ではますます話題にしづらいに違いない。
▼中学三年生の時に、教皇様は日本に来日された、長崎で見かけたのは二度、浦上教会での「叙階式」、松山競技場での「ミサ」。浦上天主堂においでになった時、神学生は中央通路に配置されて、教皇様と握手できることになっていた。
▼「今、教皇様が中央通路をお通りになります」という合図が流れた途端、頭からベールをかぶり修道服をまとった大勢の一団が「ちょっとどいてぇぇぇぇ!」と言って中央通路に押し寄せた。
▼かき分けて殺到する彼女たちから後ろに追いやられて、呆然とする中、シスターたちが握手をしていたのを鮮明に覚えている。二十七年くらいと思うが、教皇職を全うされたことに敬意を表したい。シスターに二重三重に取り囲まれて、ほんとご苦労様でした。







(No.177)05/04/10

▼マスコミも今は「報道すること」以上のものを求められているのかなと思った。ローマで勤めておられる日本人の枢機卿が、根掘り葉掘り質問されている様子を見て、「何か他局と違う新鮮なもの、ビックリするもの」を報道することが、今求められているようだ。
▼教皇選挙についてNHKはかなり綿密な取材をしたのか、ネタを持っていたのか、まるで教皇選挙に立ち合ったかのような選挙の様子の紹介だった。恐れ入った。秘密選挙でありながらあれだけ報道されているのであれば、もはや秘密にしている意味もないのかも知れない。
▼「ええ?」と声のあがるような人が教皇様になって、右か左かに梶を切ったとする。教会は様変わりするのだろうか?電子メールで教会の手続き上の書類が飛び回り、聖書の勉強会もテレビ画面で自宅にいながらあずかれたり、司祭職の根本や、結婚の大前提も大きく様変わりするのだろうか?
▼少なくとも私は、26年職務を全うされたヨハネ・パウロ二世と同じくらいの時間を、これからの教皇と共にすることだろう。あまり意識しなかった26年だったような気がするので、新教皇様とは心を共に歩いていきたい。ともかく、ゆっくりお休みください。







(No.178)05/04/17

▼木曜日に引っ越しをする。一年間で都合三回の引っ越しをして、いちばん感じたことは、これは絶対に大切だと思っているものでも、案外諦めることができるということだろうか。
▼三度の引っ越しでどうしても見つけたいものを見つけ出してまた失った。どうしても見つけることができずに諦めたところ小学生がそれを見つけてくれた。所詮、この世のものだから、絶対的な物はないというのが今の思いだ。
▼そうしてみると、何度引っ越しても失いたくないものって何なのだろうと思う。思い出か?思い出も、未来が変わればいらなくなることもある。パソコンか?これまでパソを使ってこなしてきた仕事を考えると大切なものだが、それも絶対とは言えない。
▼なんだろうと思って辺りを見回したが、最後に思い当たったのは引っ越しても引っ越しても私を見捨てずに関わってくださった人の温かさではないかと思う。消防設備で私の代わりに叱られに消防局に行ってくれた人、自分では何もできない書類をすべて揃えてくれた人、どんな小さな気付きもすべて形にしてくれた人々。
▼最後は、神様がこんな人の中に私を置いてくださったという事実がなくしてはいけない唯一のものなのだと思う。







(No.179)05/04/24

▼内憂外患。司祭館の中は物で溢れ、必要なものがまだ見つからない。歯ブラシがない。スターの汗を拭いたハンカチのように、誰かに持っていかれたかと思っていたら、案外あっさり見つかった。
▼こちらの小教区では司祭を支えてくださる方がいて、食事・掃除・洗濯をまめにこなしてくださる。いわゆる「賄いさん」と呼ばれている人だが、72歳とはとても思えない元気と仕事のこなしぶりである。
▼教皇様逝去の特集号が、長崎教区広報誌の編集長就任直後の第一号となった。思い出深い。何度も読み返すのは、体裁とか、文字の間違いとか、やはり編集長ならではのことが気にかかる。78歳の新教皇ベネディクト16世は、初めての采配などは緊張しないものなのだろうか。
▼これからが大事。司祭館を建て替えてもらったのに割に合わなかったと言われては元も子もない。諸般のことに道筋を付け、誰にその後を託すことになっても、私の影は残さずに信徒がしっかり受け入れる体制に持っていきたい。信徒は転勤しないが、司祭は転勤するのが常だから。まだしないけど。









(No.180)05/05/01

▼ネットショッピングで注文を入れていたら、「クレジットカードの期限が2005年4月で切れます。新しいカードの有効期限をお知らせ願います」という趣旨の電話がかかった。なるほど。この原稿を書いている4月30日で有効期限が切れる。こんな場合、何に気を付ければよいのだろうか。
▼これまでネットショッピングに伴ってクレジットカードの情報を記憶させている店舗は数知れない。有名どころではAmazon、楽天、ジャパネットたかた、Yahooなどなど。これらすべてについてカードの有効期限の変更を届ける必要があるのだろうか。
▼挙げた4店舗だけなら良いが、これまでどれだけの店でカード情報を提出してきたか分からないのだから、ちょっとやっかいだ。これからは電話での問い合わせと、こちらからのカード情報の修正に頻繁に応じなければならないだろう。
▼絵葉書・説教集CD・文庫本説教集。絵葉書を除けば郵便局「ぱるる」をメインにしているが、こちらもクレジット可にするか?これって、会社に手数料を毎月支払わないといけないのね。手数料以上の収入が入らない私などは、カード支払いの導入は見栄を張るだけで何の意味もない。誰であっても意味を見いだせないことはしたくないものだ。








(No.181)05/05/08

▼長崎教区では信徒がミサの依頼をお願いに来ることが多く、長崎教区の司祭は依頼されたミサを捧げることで収入をいただいている。捧げたミサは出納帳にその日付と謝礼の金額が記入され、収入として確定する。
▼長崎教区の司祭も世のご多分に漏れず、源泉徴収方式で国の決まりに従っている。私は素人で専門用語の使い方は分からないが、1997年までは各自確定申告に行っていたと記憶している。今はそれがなくなり、大変ありがたい。
▼「領収証は、とにかく一枚も失うんじゃないぞ」。司祭はお金に頓着せず、と思っていたのだが、確定申告の際に領収証を提示するように言われて、ああこのことだったのかとようやく思い至り、先輩の結論だけのアドバイスがその後に生かされた。
▼ただ、これは公務、これは私的なものと、その線引きがはっきりしないことも多々あった。一度は、遠い遠い人の見舞いに行って、そのまま車を駐車場において波止場で釣りをして帰ったことがあった。私はその駐車料金を税務署で提示したような気がする。







(No.182)05/05/15

▼メルマガ発刊200号も目標として視界に捉えることのできそうなところに来た感じがしている。長かったかも。1000号を目標にと言ったが、本当にそんなことができるのだろうか。最近キーボードを叩くのも「職業病」にならないかしらと心配。
▼頭に針灸の針をプスッと刺して、それにUSBケーブルを繋ぐと、思ったことがそのままパソコンにアウトプットされるというような技術がないものだろうか?あったら実験台でも構わないから、利用してみたいなあ。
▼ときどきお風呂の中でとか舟の上で思い付いたアイディアなどは、その場から帰還してみるとすっかり忘れていることがあるわけで、忘れる程度のアイディアではあるけれども、惜しいなあと思うこともありますから。
▼それとか、頭の中にメモリーチップを埋め込んでいて、どうしても覚えておきたいことは意図的に消さないと消えないようにできるとか、そういうのって興味がありますね。どうしても忘れたくない景色などは、これがあるとビデオカメラ要らないかもよ???








(No.183)05/05/22

▼今週は「当たりの週」だったかも。東京で韓国人をお世話しているプロテスタントの牧師先生が訪ねてこられ、日本におけるキリスト教の布教について熱心に語り合うことになった。「そうなった」という言い方は、牧師の先生の話が止まらなかったのである。
▼「日本ではとうして0.3%のままのぴないのてしょうか?」「もっとねっしんに、さそってあけるぺきてす」フムフム。実際その通りで、日本ではカトリック教会が信者を今の百倍にしようなどということは口には出さない。
▼ところが、その韓国の牧師先生は、「今の信者が100人であれぱ、10000人に増やしたいと、とうしてはっきりせんけんしませんですか?それはいいことてすよ」と熱心に仰る。どうも本気らしい。韓国人の気質によると、白か黒か、はっきりしているのだそうだ。
▼腰の引けたこうじ神父は「日本では、見ないで信じる人は少ないのかも知れません」とこぼしたところ、「それでは聖霊運動をさかんにして、きせきをいっぱいつくりましょう。それかいちぱん日本に必要かも知れません」ということでした。・・・一理あるなあ。








(No.184)05/05/29

▼ウーン、ついにこの日が来たか・・・。「取って食べなさい」(←四月に発行した文庫本形式の説教集です。念のため)を手にとって、同じ内容の説教にならないようにと、慎重に文章を考えております。
▼この現実を皆さんに明かした理由は二つです。一つは、私があと七年か八年若ければ、説教集に当たらずとも二年前、三年前の原稿とダブるようなことは考えられません。書きながら、「これは同じネタだ。書けない」とすぐに気付くはずです。
▼二つ目の理由は、「絶対に同じ説教は書かないぞ」という決意の表れでもあります。いつでしたか説教集を馬込教会の入り口に並べた時、手にとったご婦人が「二冊買わなくてもいいわ。同じ説教なのだから」と仰っていたことを思い出し、決してそうではありませんということを行動で表したいためです。
▼それにしても、自分で自分の説教が印刷された文庫本を読むのって、かなり気恥ずかしいものがあります。さらにサインを後ろに書き込むように周囲から「強要」されておりますが、それはこうじ神父にとっては何だか「恥の上塗り」のような気がしてならないのです。









(No.185)05/06/05

▼こどもの性格も社会の縮図だと実感。先週、隣の土地のあんずをドロボーしに行くにあたり、子どもたちにも手伝ってもらった。公然とドロボーすれば、皆が見ているので許してもらえるという魂胆。
▼一人ひとりの性格が皆違う。「外には空威張り、実力伴わず」という子もいるし、「認めてもらえないけれども、やらせれば立派にこなす」という子もいる。いちばん興味を持ったのは「何でも最初にしたがるが、すぐ飽きる」という子だ。
▼「おいにさせろ!」とか言っておきながら、1個か2個取ると、あとはどこかにいなくなってしまった。あとでまたふらっと来て手伝っては見るものの、どうも飽きっぽい。こんな社員を抱えた会社は、きっと頭も抱えるのだろう。
▼まあそれでも皆いちおうに達成感はあるらしく、当然のように報酬をねだる。カステラ、クッキー、アメ、果物などなど。さすがにあんずは酸っぱかったようで、ひとくち口にして、あとは突っ返されてしまった。来週は熟しておいしくなってるさ。







(No.186)05/06/12

▼長崎教区司祭の黙想会に三泊四日で参加してきました。いつも黙想会に行く時に考えることがあります。それは「持っていくものをどう絞るか」です。若い頃は何でもかんでも持っていき、さらに毎日昼休み時間にバスケットやらテニスやらをしていたので運動着も必要でした。
▼ところが最近は、「これ、本当に使うかなあ」「これを入れると、重いよなあ」そんな判断が頭をよぎり、バッグに入れては出し、また思い直して入れたりと、長いこと思案して荷物の中身が決まります。
▼そうしてギリギリの荷物を持っていったつもりでも、まわりの方の荷物がもっと少なかったりすると、どうしてそこまで思い切れるのだろうかと驚きます。大先輩の中には、手荷物だけという人がいるのですが、これは世界の七不思議の一つです。汗もかかないのでしょうか?
▼お世話になった長崎カトリックセンター。聞くところによると近いうちに光ケーブルのインターネット環境を完備するとか。羨ましくて、そこら辺を転げ回って悔しがりたい気分です。ここ伊王島には、お粗末なISDN回線しか回ってきていません。伊王島の先の高島にはADSLが届き、五島にもあるというのに!ムキー!








(No.187)05/06/19

▼設計の話。家電メーカー大手の「目の付け所が・・・・」と言っている会社、大女優を起用してのコマーシャルで自然に調和する家電製品を印象づけようとしています。この21世紀は「自然との共存」が最大の関心となるでしょう。
▼恥ずかしながら、司祭館の設計に関して、ひとまずの設計図はこうじ神父がデザインしてみました。最終的に大工さんに渡すものは私の設計図では不十分ですから、設計事務所の方にお願いしました。
▼その司祭館のベランダに、金曜日、割と大きめの鳥が羽を休めていたのです。私はすぐに、「あ!鳥が羽を休めたくなるベランダに仕上がったんだ」と一人で喜んでいました。しばらくベランダで遊び、洗濯ばさみをくちばしに挟んで引っ張ってみたり。
▼十分目を楽しませてくれたのですが、どうにかして写真に収めることはできないかと思っていると、レースのカーテン越しであればかなり近くまで寄ることができると感じ、シャッターを切ったわけです。また遊びにおいで。









(No.188)05/06/26

▼日曜日、遅ればせながら今年度の信徒総会を開きます。昨年度の決算報告と来年度の予定など。こうじ神父は「主任司祭からひと言ご挨拶いただきます」という大役を仰せつかっております。さあて、何を言おうかなって今考えているぞ〜。
▼「えー皆さん、馬込教会の信徒の皆さんはすっかり生まれ変わりました。活動する信徒になりました。人のために自分を差し出せる人になりました。二つ挙げましょう。一つはお父さんたちで当番に出てくださっている「守衛さん」の務めです。
▼もう一つは、婦人会の方で協力してくださっている「教会掃除」です。たとえば集金は、集金の方が回ってきて預けるのですが、守衛さんや掃除の手伝いは、受け取りに来る人が回ってくるようなものではありません。
▼自分で時間を工面し、教会まで足を運び、お金で済ませないで汗を流してくださっているのです。これを、変わったと言わないで何と言うでしょうか。どうか、今年はさらに踏み込んで、見えないところでも自分を差し出せる人になりましょう。この総会をその手始めに、また一年信者になっていきましょう。








(No.189)05/07/03

▼些細なことですが、霊名のお祝いは、受けることはあっても誰かのためにお祝いしてあげるということはしてなかったなあという反省があります。思いがけないきっかけで、ある同級生の霊名のお祝いに心が向きました。
▼その彼も長崎教区の司祭なのですが、彼の霊名の祝いは聖ペトロ・聖パウロ(6月29日)で少し早くやってきました。ミサの中では思い起こして祈ったのですが、面と向かっては気恥ずかしいものです。
▼ですが、ちょっと返事をすることがあったのでそれにかこつけて霊名のお祝いおめでとうを添えました。やはり、こっぱずかしいものです。ただ言葉を添えてみると、「自分が日頃いかに受けることばかりの暮らしをしているか」「与えることが少ないか」に気づかされます。
▼やはり、「受けるよりは与えるほうが幸せ」そういう姿勢は失いたくないものですね。そう言いつつ、あの人この人が、「わたしはあげたのに、戻ってこない」とぶつぶつ言っているような気がしてきました。ちなみに、それはあなた一人ではありませんから。ザンネーン!








(No.190)05/07/10

▼天気は悲観的です。このメルマガを読んでおられる国・場所ではどのような天気なのでしょうか。長崎市伊王島町では10日の親睦釣り大会を前にして、悲観的な大雨洪水警報です。うーん、今週の行いが悪かったのかなあ。
▼「縁起」のようなものをどのように受け取るかはそれぞれなのでしょうが、NHKの連続テレビ小説では積極的に取り上げていました。主人公の父親が身の危険を感じたその時、主人公は仕事をしている旅館で食器を落とし、壊れたかけらを拾っている時に指にけがを負ってしまいます。「嫌な予感→不安的中」という構図なのでしょう。
▼まあ、それもありかなあとは思いますが、NHKも時代の中で変化し、適応していくのだろうと思います。むかしは決してキスシーンはなかったけれども、今はOKのようですし、視聴者の頭も少し対応が必要かも知れません。
▼あー、NHKだけはウソでもいいから「伊王島の日曜日の天気は、絶好の釣り日和です」と言ってくれないかなあ。そうすれば、たとえ「吉野ヶ里遺跡」のレポーターが「ここにいると時を忘れてしまいそうですねぇ」と本気でもないくせにお世辞を言っても許しますから。








(No.191)05/07/17

▼どうして一週間後にはこんなに晴れるのでしょうか?釣り大会の先週は、ずぶ濡れになりながら単独で巡回教会の下にあたる海域で釣りをしました。型のよいアラカブ2匹と、イトヨリが十数匹釣れました。
▼このイトヨリ十数匹が問題です。数だけなら、「たいしたものだなあ」と褒めていただけるのですが、釣り上げたイトヨリがすべて「未満児」であれば、褒められたものではありません。人間は選ぶことはできないのですから、釣られたあなたが悪いと言えば言えなくもない。
▼イトヨリは深い海底に生息し、いったん海上に釣り上げられてしまうとリリースしても浮き袋がふくれてしまって海の底には戻りません。一匹だけ海に返したところ、沈むことができずに鳥の餌になってしまいました。私のせいじゃないからね。
▼たいてい「未満児」というものは、「担任の先生」とか「園長先生」と連れだって遠足に出かけるものです。そのうちに「担任」「園長先生」などが釣れるに違いないと読んでいたのですが、最後まで釣れませんでした。先生方の職場放棄か?と思いきや、巡回教会の「もと保育園の先生」は、「うちの園児はよく教育されているから一人で歩き回るのですよ」と申されました。








(No.192)05/07/24

▼こなさないといけない用件が二重三重に重なっていると、やはり思うような働きができません。言い訳のように聞こえるかも知れませんが、締め切りを過ぎた原稿が1本、締め切り直前の原稿が4本、広報誌の編集、今週の説教と重なると、やはりどこかにしわ寄せが来ます。
▼「もっとこう、なんか歯切れ良く書けないものかなあ」。今週の説教などがまさにそのような原稿でした。あー自分でも情けない、もうあとで読み返したくない、そんな無念さの中で今週は原稿をお届けしております。
▼今回のような悪条件がもう二度と来ないとは限りません。その時のためにも、今週の不完全燃焼のような一週間を振り返って、次の機会に活かそうと思います。与えられた人生はあまりにも短いものです。二度三度の取りこぼしをすれば、生涯の悔いが残ります。
▼メルマガの目標は1000回ですから、今回の反省が活かされるならそれはそれで意味があります。大目標の中で考えれば、残る5分の4は生きたものになるはずです。長い長いスパンの取り組みを神さまが与えてくださったことに感謝します。








(No.193)05/07/31

▼皆さんあまり興味ないかも知れませんが、船の免許にはいくつか種類があって、20トン未満の船を扱う場合、小型船舶の免許は2級と1級とがあります。2級は航行距離が5海里(約9キロ)であり、1級は制限がありません。こうじ神父は2級の免許を持っています。
▼2級の免許であれば、20トン未満の船の操船が許されていますが、実際にはそんな巨大な船を扱うことはありませんで、せいぜい数百キロの船外機付きボートに週一回乗る程度です。ただ、いわゆるプレジャーボートには、せっかくだから乗ってみたいなあという思いはあります。
▼乗っては見たいけれども目が飛び出るような値段の船です。所有することは考えられません。かといってどこかで貸してくれと言って貸してくれる船もそう見つかりません。うっかりぶつけたりすれば、軽いプラスチックの船ですから、簡単に沈没してしまうことでしょう。
▼ですがいろいろ探してみると、あるものですね。とある場所で「プレジャーボート操船講習会」が開かれているのを見つけました。早速申し込み、近いうちに免許取得以来乗っていないプレジャーボートに乗り、操船技術を学ぼうと思っています。楽しみです。








(No.194)05/08/07

▼プレジャーボートに乗ってみました。小型船舶免許を取ってから今まで、合計でも5回、それも「形式的に」操船しただけだったのが、今回の「ボート乗り方教室」に参加させてもらったおかげで、かなり集中的に練習をつけてもらう結果となりました。
▼もともとこの講習の申し込みは、一回につき2名までというものでしたが、今回申し込んだ際には自分ひとりだけだったので、一日の講習時間をひとりで占有することができたわけです。2人の申し込みがあれば、時間を平等に半分ずつ割り当てて操船の練習が行われていたのでしょうから、かなり得をした感じがします。
▼本人はとても楽しかったので満足していますが、それを読む読者の皆さんがどのように感じられるかはまた別問題です。「のんきだなあ」「平和だなあ」「現実からかけ離れた行動だよなあ」ご批判は甘んじて受けます。ただ、「夏の市民講座」の一環であり、当然船舶免許を持っている人だけが受講可能な講習会で、持っていなければ思いつきもしなかったことは確かです。
▼できれば、この体験をきっかけに心身リフレッシュして、8月の大きな日程を乗り切りたいと思います。8月9日長崎原爆の60周年、聖母被昇天(この日は終戦記念日です)。8月7日はペーロン大会、11日は教会学校典礼奉仕者球技大会、行事も目白押しです。暑さに負けてはいられません。








(No.195)05/08/14

▼交番のお巡りさんにこんなことを聞かれました。「お盆には休暇は取らないのですか?身内の方は集まったりしないのですか?」返事に困っていると、「あっ、カトリックはお盆は関係なかったですね」と、ご自分で納得した様子でした。
▼日本で「お盆」抜きには夏を理解するのは不可能なのかもしれません。日本のカトリック教会ではどのように理解し、吸収しているのでしょうか。一つは、教会の公式の見解を表した「祖先と死者についてのカトリック信者の手引き」がそれぞれの場に応じた対処・解決を助けてくれます。
▼もう一つは、すでにどのような実践を行っているかということです。盆踊りに参加したり、お盆の伝統行事に「伝統行事」として見に行くとか、参加することは問題にならないと考えます。信仰の板挟みになる問題だと感じるなら、信頼している人に尋ねた上で出した答えは神様もとがめないと思います。
▼ついでに。こちらの地域では、「ふくれまんじゅう」を聖母被昇天(8月15日)に作る習慣がありますが、この「ふくれまんじゅう」のことを特別に「ぼんと」と呼ぶのだそうです。いまだに意識しないと呼び方が出てきませんが、意味するところは「盆と、正月が一緒にやってきたような喜び」の表現なのだそうです。ことばはまんじゅうとなった。








(No.196)05/08/15


▼皆さんは骨折の経験がおありでしょうか。私自身は左折する車にバイクに乗っていて巻き込まれ、右の手首を骨折したことがありますが、世の中には興味深い形で骨折する人がいることを知りました。
▼ひとりは、思いっきりドアに体をぶつけて指を骨折してしまった方です。どういう事情だったのか分かりませんが、もしかしたら手足が長〜いので、持て余したのかもしれません。お怪我をなさった経験のある方、気を悪くさせるつもりではありませんので。
▼もうひとり、勇敢だったことが災いして骨折した人を知っています。いつか話したかもしれませんが、その方はムカデを退治しようとしてムカデに向かっていったところ、バランスを崩して手を突き、運悪く骨折してしまいました。
▼ムカデが怖い人ならはじめから逃げていてけがをすることもなかったのでしょうが、ヘビもムカデも怖くない人でしたので、ひるまず飛びかかったのでしょう。ですが失敗し、二ヶ月の静養を強いられました。わたしは夏に骨折し、ギプスを巻いたことがあるので、夏になれば骨折を思い出すことがあります。痒いんだよねぇ。








(No.197)05/08/21

▼友達はいいもんです。愚痴を聞いてもらい、お互いに持ってないものを相手に見つけて自分の鏡とし、ときには叱ったり叱られたりしてきました。その友達と日曜日に再会します。福岡教区の司祭で、同級生です。
▼ここだけの話ですが、彼がいなければ相談を聞いてもらえずにこうじ神父はつぶれていたかもしれない、そんなピンチを乗り越えることができました。彼のおかげです。彼は司祭になる時期もワンテンポ遅れたり、数限りなく転勤したりして、ずいぶん苦労してきたと思いますが、私の中ではいつまでも同級生です。
▼こうじ神父はあまり勉強で苦労しませんでしたので(あまり勉強もしなかったのですが)、よく休憩時間に彼を誘って硬式テニスをしました。彼は勉強では相当苦労したので、私からしょっちゅうテニスコートに引っ張られて、迷惑していたに違いありません。
▼長崎教区と福岡教区に分かれ、待遇もずいぶんと開きが出ているようにも思いますが、イエス様はきっとこうじ神父よりも同級生の彼を高く買うに違いありません。なぜなら、私が今あるのは、彼にいろんなことで助けてもらったからです。助けてもらった人より、助けた人の方が高く買われるのは当然のことですから。








(No.198)05/08/28

▼一週間に二度、同じような人に出会いました。一人は、写真愛好家の方で、カトリックではないけれども長崎県内の教会の写真を撮って回り、太田尾教会に行ったときにこうじ神父の話を聞き、そこで文庫本を手に入れ、その後馬込教会に写真を撮りに来て本人と会えて嬉しかったという方の話。
▼もう一人は、同級生の神父と一緒に教会巡礼で参加されたご婦人。かつて太田尾教会のある大島に住んでおられ、ときどき太田尾教会のミサに参加していた方が福岡に引っ越し、今回馬込教会でたまたまこうじ神父に再会して驚いたと葉書をくださった方。そんなこともあるのですねぇ。
▼この、「またどこかで会う」というパターンは、こうじ神父の中では固い信念のようなものがあって、「どうしても会うように決められている人には、必ず会えるようになっている」と考えております。神様が、その方と会わせてくださるということです。
▼どうしても会いたい人と会う確かな方法は、神様に信頼を置くということかもしれません。こうじ神父はこれまで何人も、そのようなご縁をいただいて再会を果たした体験を持っております。今月末も、とある大学の学長と、数年ぶりに再会を果たします。








(No.199)05/09/04

▼えー、いつの間に199号になったのでしょうか?一歩ずつ階段を上るうちに、いつかこの日がやってくるものなのですね。巡回教会の一つ、高島教会は教会下のバス停から教会までちょっとした階段です。初めのうちこそ二段飛びもしましたが、一段ずつ踏みしめて歩くことで、何十年もこの道を歩いてきた信者の皆さんの気持ちも分かるというものです。
▼そういえば、某学院女子短期大学の学長と伊王島のレストランで食事をしました。五年ぶりの再会だったでしょうか。教授から学部長、最終的に学長と、大変な職をお引き受けになっておられますが、私のような若者にも、決して距離を感じさせないスケールの大きな先生でした。ちなみに著書の一つに「子どもたちの歴史」というものがあります。
▼地道に、力をつけていけば、地道に、足元を固めていけば、どんなにひた隠しにしてもその輝きは周りを照らし、人々に知られ、取り上げられることになります。私の見たところ、目立つ場所に立っているいろんな方々が、日頃決して自分をひけらかすようなことをしたことのない人たちであるような気がしてなりません。
▼虚栄心の塊のようなこうじ神父は、つまるところ偉い場所に立つことも、神様に高く取り上げてもらうことも、ほど遠いと痛感します。そういうことで、誰にも知られず、誰をも照らさず、クラブ活動の釣りを続けることにします。








(No.200)05/09/11

▼年末に200号が回ってくるのかなあと思っていました。意外と早くやってきました。こうなってみると、「感想をお願いします」と言われても、「いやあ、続けていたら知らない間にこうなりました。通過点にすぎません」としか言いようがありません。200号くらいでは、おそらく記憶にも残らないかもしれません。
▼久しぶりに長崎の大波止で交通事故を見ました。一方は右折、他方は直進していて「ガシャン」という乾いた音が響きました。前面のナンバープレートが飛び、周辺の車、道路を横断するために待つ人々、すべてに一瞬の沈黙が支配しました。
▼ところが、次に信号が変わったときには、すべてのスイッチが切り替わっていました。何事もなかったかのようにその場をやり過ごして車は先を急ぎ、歩行者は前を見て歩いています。現場から少し車を移動させて警察の検証を待つ2台の車だけが、いつもの光景から別のものとして切り取られた場面なのでした。
▼事故車の2台はどうなったのか、知るよしもありませんが、心を痛めるとか、感慨にふけるとか、直接同じ思いをしたわけではない出来事については、なんと切り替えが早いのだろうかと思いました。もう少し出来事に寄り添いたいと思うならば、自分のこととして出来事を受け止める努力をしなければならないのだと、事故を通して考えさせられました。








(No.201)05/09/18

▼2年ぶりに歯医者にお世話になることに。きっかけは、「超極細歯ブラシ」で押しつけるように歯磨きをしていたら、詰め物をしている歯にその「極細毛」が引っかかり、歯ブラシを引き抜いたときに詰め物がはずれてしまったため。
▼「まずいなあ、この忙しいときに」。第一印象です。暇なときにも歯医者行かないくせに、言い訳だけは立派なものです。その歯医者に通っている人が身近にいたものですから、紹介してもらって出かけてみました。
▼まず何よりもほっとしたのは、治療する箇所をたくさん指摘するのではなく、今の現状をどう維持していくかをこんこんと説明してくださったことです。そして、これから四十代に入ると、歯茎のケアがもっと必要なことも説明していただきました。
▼受付で応対してくださった方が、大波止からの船の時間をすごく気にしてくださって、本当にこの医院を選んでよかったなあって思いました。またこれを機会に、歯と歯茎の健康を考えてみたいと思います。







(No.202)05/09/25

▼皆さんは秋の声をどんな「しるし」から感じ取るのでしょうか。今年、こうじ神父は海の上で「あ、季節が変わったんだな」と実感するひとときがありました。海の上と言えば聞こえはよいですが、つまりは釣りの時の一コマです。
▼それは女性二人同伴で釣りに出かけたある日のことです。午後1時に港を出発し、一時間半ほど三人で釣りをしました。わずか数日前にはそれほどでもなかった風が、この日はかなり強く吹き付けていました。
▼風そのものは心地よい風でしたが、かわいそうに風のために波が立ち、初心者の釣りには不向きな天候に急変したのです。本人たちが不安がらないように努めて天候の話はしないようにしました。幸い、一人は「ドーン」「カーン」と音の聞こえる方でしたので問題ありませんでしたが、もう一人は次第に気分が悪くなり、ついにギブアップしてしまいました。
▼その後お客さんを見送って、性懲りもなく再度ボートに乗り込んで「釣り残し」を探しに行ったのですが、ますます風は強くなり、気持ちに余裕がなくなって、結局は骨折り損という結果に終わりました。季節風が吹いて天候がころっと変わる。これが、今年学んだ「秋の気配」でした。








(No.203)05/10/02

▼長らく切らしていた「観光客向けの教会パンフレット」を新調しました。カラフルなA3二つ折り4頁のパンフレットです。我ながら良いできだと思っていましたが、今回はすぐに誤変換に目がとまり、ため息をついています。
▼細かいことを言えばいくつかありますが、どうしても気になったのは、「・・・台風被害は甚大なもので、マルマン神父が苦労して建てた白亜の天主堂も、尖塔部分は吹き飛ばされ、もはや修理の見込みが立たなくなってしまいました」という部分です。
▼上にあるのは正しい文章ですが、印刷に回した原稿には、どうやら「もはや修理の見込みが建たなくなってしまいました」となっていたようです。「はあ〜」と、深いため息をついてしまいました。
▼それでも、以前の白黒パンフレットと比べると格段に良くなりましたので、上の点を除けばまあ満足しています。教会に訪ねてくる人のためにこんなことができますよ、教会活動としてこんなことも可能ですと、いろいろ提案をしているわけですが、何かヒントになってほかの教会に波及すればいいなあと思っております。
▼ちなみに、ほかの教会でもパンフレットを置いている教会があちこち見られます。三つほどパンフレットを見ましたが、どの教会も大変ユニークなパンフレットで感心します。いつか、こうしたパンフレットを手にした人が、「わたしもこの教会に呼ばれているのではないか」そのような想いを心に抱くことができれば、これ以上の効果はないと思います。








(No.204)05/10/09

▼10月1日(土)午後9時頃から、NHK総合で「”いのち”の対話〜妊娠中絶・医師2人の模索〜」という番組が放送されました。妊娠中絶を巡る問題でした。その番組で取材を受けていたのは中山産婦人科クリニックで、当時の副院長鮫島浩二先生が妊娠した女性と何とかして生む選択をしてもらえないかと、熱心に面接する姿が紹介されていました。
▼大学の講義を依頼されていて、「命の時代を生きる」という講義を受け持ちます。その中で先の番組についても触れようと思っていますが、10週目の胎児が手足をすでに動かしている様子は、息をのむような光景でした。神秘的でした。
▼命は、手の中にあるものではなくて与えられたものだと思います。胎児も自分の意のままにできるものではなくて、授けられたもの・与えられたものです。与えられたものはその価値を下げないように心をくだく必要があります。そのへんを大学生にしっかり伝えたいのですが、どうなるでしょうか?








(No.205)05/10/16

▼延期されていた「教会親睦釣り大会」がようやく開かれた(原稿書いている時点では、そういうことになっている)。昼過ぎると季節風が吹き付け、白波が立つ季節なので午後1時までには大会を終えて、各賞の発表に備えることにしている。
▼こんな「純粋にレジャー」と思えるような企画でも、役員たちはまじめなもので、「神父様、何か気の利いた目的を見つけてきてください」と言ってきた。何も思いつかなかったのだが、10月18日が教会の献堂記念日であったので、「この教会の献堂記念に、馬込教会デーをみんなで過ごすための親睦会でどうだ」と苦し紛れに言っておいた。
▼素晴らしい「口実」をいただいたと思ったのか、献堂記念日杯といった感じの釣り大会が、明日開かれそうである。今日、聖体拝領をしていたオヤジたちに、並々ならぬ意気込みを感じたのは、気のせいではないと思う。一発大物を掛けてやるぞ、そういった意思を強烈に感じた。
▼タイミングとしてはぎりぎりのタイミングである。来週になれば、とてもではないが風が強すぎて釣りなどできないに違いない。このラストチャンスを生かすために、「鯛エビ」なるものをわざわざ釣具店に買いに行った。買い物に付き合わされて仕事の時間を棒に振ったシスターの名誉回復のためにも、大物を釣り上げたい。おいらがいちばん力が入っているような?








(No.206)05/10/23

▼東京に広報誌の全国研修会で出張した。東京は忙しいところ。エスカレーターが運んでくれるのに、さらに早足でエスカレーターを駆け上がっていく。動く歩道が東京駅に設置されているけれども、そこも黙って立っている人はわずかで、大股で歩いていた。
▼日本カトリック会館は江東区の潮見というところにある。京葉線で三つ目の駅だが、東京駅で山手線から京葉線に乗り換える間に600メートル歩き、さらにエスカレーターで地下三階まで降りた。移動するのにここまでしなければいけないものなのか。とてもではないが東京は伊王島の人間では対応できないと感じた。
▼そんな中でも、ホッとするようなこともあった。東京駅で明らかに右往左往している私たちを見て、「どちらへ行かれるのですか?」と声を掛けてくれた人がいた。長崎からのお上りさんでして、京葉線に乗り継ぎをしたいのですがと、正直に言ったところ、「わたしも30年前に宮崎から来たときはあなた方と同じでした」とニコッと笑って案内してくださった。
▼話は前後するが、飛行機の出発時間が30分遅れてハラハラしていたら、羽田上空でも「離発着陸が混雑しているのでこのまま30分旋回します」と言われ、車の渋滞とはわけが違うのになあと、恐怖のあまりおしりを浮かせたことを報告しておきたい。来週も続く。









(No.207)05/10/30

▼「神父様、本当に東京の研修に出るのですか」「本当に行くんですか」。あまりにしつこく聞くので出発前に尋ねるその人に「どういう意味ね?」と聞いたところ、「赤黒く焼けている神父様が行けば、東京で恥をかくに違いないから、行かないが良いのではないか」という親切な思いだったそうだ。確かにこの顔だと、東京では目立ってしまい、さすがに気になった。
▼同じ教区の先輩と同級生が夜に居酒屋に誘ってくれたのだが、「お前黒いなあ!」が第一声。そこまで言わなくてもと思ったが、ふるさと自慢のつもりで言ったことが却って迷惑と感じたシーンがあった。出発の前日、何を食べたか聞くものだから、正直に「イセエビのエビフライです」と言ったところ、「そんな話をいくら聞いても腹は太らない。戻ったらすぐに送れ」。
▼先輩に言われるまま正直に送ったところ、お礼状のFAXが届いた。その文面を見てビックリ。「・・・まさか本当に送ってくるとは思っていませんでした」。だったら最初から言って欲しくないなあ。もったいないじゃないの。
▼東京では懐かしい大学の先生に学内でお会いすることができた。学長でお忙しい身分なのに、一介の神父に時間を割いてくださって感謝の気持ちがこみ上げてきた。学長は会議が入っていたのでご一緒できなかったが、おいしい店でフランス料理をごちそうになった。時間を忘れて楽しませていただきました。








(No.208)05/11/06

▼「五人は愚かで、五人は賢かった」。先日釣りに行って、生涯でいちばん大きな魚がかかり、三度竿を海中に引き込まれ、三度目に枝針を結んだ糸を切られて逃げられてしまった。その時の落ち込みといったら、頭に来て夜の電話を用件も聞かずにぶち切るほど。
▼だいたい、大物対策を怠らない人はラインに想定以上のテンションがかかると糸が滑り出すようにドラグ調整をしておくのが常識。こうじ神父は過去にそんな大物を上げたことがなかったので、ドラグなんて無視してがちがちに締めていつも釣りをしていた。ふだんからそういう調子なので、いざというときに取り逃がす。
▼そんな場合でも、ドラグの調整は気がついたときでもできるわけだが、三度竿を海中に引きずられてもドラグ調整には頭が回らなかった。あー返す返すも悔しい。あの引き方からすると、相当大きなマダイだったに違いない。横に走らず、下に一方的に潜られて、ブチッと切って逃げていった。
▼賄いさんとの話。「俺は人間から逃げてきたんだぞ〜。この針を見ろ。これが証拠だ。どうだ〜なんて言ってるんですよきっと」「あー腹立つ。今日持ち帰った魚すべてをなげうっても逃した魚のほうが欲しかった」「逃した魚は大きいですからねぇ」「信じとらんやろ〜!」「信じてますよ。信じてますけど、見てないもんねぇ」








(No.209)05/11/13

▼努めて意識しないようにと思っていたけれども、今回と次回でA年が終わり、三部作で完成と考えている文庫本「取って食べなさい」の三冊目の材料がすべて揃うことになる。一歩一歩の積み重ねではあるけれども、意識しないでこの日を迎えるのは難しい。
▼例えば、できるだけ意識しないようにと思ってはいるけれども、「あと今週と先週の原稿を書いたら終わりだから、この二週に関しては原稿をびしっと書かなきゃ」とか考えてしまう。考えないようにと思っているけれども、意識しないことは不可能に近い。
▼けれどもその意識が邪魔をして、本筋から外れるようなことではいけない。長い目で見れば何百回も書き続ける原稿の、その途中の一つに過ぎないのだから、そこだけ力を入れて準備したというのは明らかに不自然な行動となってしまう。
▼今週は実は金曜日に書き上げていたのだが、結果としてはすごく早く書いたと言えるが、書くまでの時間はいちばん遅かったと言っても良いかも知れない。少しは格好つけたいなあとか思ってしまって、素直に書くことができず、思い切って書き出すまでにむしろ時間がかかったのだ。これもまた、何書いてるんだろう?








(No.210)05/11/20

▼まるまる三年半仕事きっちり。内面まで見渡せば仕事きっちりとはいかなかったかも知れないけれど、よくまあこの日曜日まで欠かさずメルマガ配信・ホームページ更新と続けることができました。これも読者である皆様と、赴任している教会の信徒のおかげです。
▼この日、たまたまですが「乗船優待券」の切り替え手続きをしてもらいました。ふだんひと言くらいしか話さないターミナル受付の方と立ち話をしたのですが、話してみれば意外と話し好きなようで、見かけによらないなあと思いました。
▼見かけによらないと言えば、大学の講義を終えて、感想文に目を通してみると、高校から上がったばかりのフレッシュマンだから、そんなに驚くような内容のレポートはないのだろうと思っていましたが、こちらが考えさせられるようなレポートもちらほら見えて、生徒たちも見かけによらないものだなあと思ったわけです。
▼一つひとつの仕事が、質的に深くなってきました。毎週続ける説教案も、長くなればなるだけ難しくなってきますし、毎月の教区報「よきおとずれ」もそろそろ一生懸命しているだけでは済まなくなってきています。また、全国で使用されている教会学校の副教材に寄せる原稿も、二ヶ月に一回から毎月になることでさらに責任を持って取り組む必要が出てきます。
▼こんなに仕事が増えても、仕事ってできるものなのだなあと驚きます。来年は、またどんな仕事が舞い込んでくるのでしょうか?それとも、仕事は減るのでしょうか?誰か、「釣りの仕事」を私に依頼してください。








(No.211)05/11/27

▼どこで小教区のための仕事が舞い込んでくるか分からないものだ。外の仕事であればいよいよになれば断ってしまえば済むことだが、小教区の主任司祭が小教区のための仕事を断る理由はどこにもない。どこにもないのだけれども、いざその仕事に行き当たったとき、「うーん、どの時間を充てれば」と思ったのは確かである。
▼最近唖然とすることがあって「サプリメント」を飲まなきゃいけないかなあと思うようになった。大学の授業が終わったその日、最終便の船に乗ったところが到着する20分のうちに寝過ごしてしまい、次の島まで連れて行かれてしまった。お疲れだなあと思いつつも、今度の小教区のための仕事にはたいへん感謝している。この小さな島の中で、灯火となるような出来事と言ってよいかも知れない。
▼この「ちょっとひとやすみ」の中では種明かしはしないけれども、外でどれだけバリバリ働いても、今回の小教区での仕事のほうが何倍も価値があると思うし、意味があると思う。だからやはり人間は外向きの仕事は加減しながら実行して、中の仕事、自分を形作り、自分がお世話になっている基盤の小教区を育て、神さまに評価していただくことが本筋だと思う。
▼そう考えれば、そのメルマガも外向きの仕事ではあるけれども、戻ってきて小教区にプラスになるこのメルマガだけは、外向きの仕事の中ではたとえ他のどんなものをしなくなっても継続していきたい。続けておけば、あとでだれかが私を天国に連れて行ってくれるかも知れないから。








(No.212)05/12/04

▼こうじ神父が利用させてもらっていたウェブログの発行スタンドがサービスを中止した。通告のようなものもなかったような気がするが、今になってどうこう言っても仕方がない。簡単なのはこうじ神父自身も「ブログの利用を中止する」ことだったが、今まであった物がなくなるとブーブー文句を言う人がいるのが世の常である。
▼文句を言う人がいるからというわけではないが、代わりになりそうなシンプルなデザインでなおかつ画像のリンクを張ったときにリンクが表示されるのではなくリンクされた画像が表示されるものをと思って探してみたが、これがなかなか気に入ったものが見つからない。「帯に短したすきに長し」である。
▼無料で使用できるブログのサービスをかれこれ6つほど申し込んで、実際に試したところ、一つのサービスがこちらの希望にマッチしたので今週からあらためてブログを続けることにした。前のブログを開こうとして迷子になった方には申し訳ない。ホームページで新しいブログのURLなどを紹介するので、確認して欲しい。
▼さらに、「静止画クリップ」のコーナーも一新して、「絵手紙」を掲載することにした。しかしこの絵手紙、目にする方には忍耐してもらわねばなるまい。なぜならこうじ神父の絵の才能は、小学生の時から高校卒業するまでずっと「2」か「3」だったのだから。さて、この企画はいつまで続くやら。



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(No.213)05/12/11

▼とあるカトリックカレンダーを小教区で大量に購入した。最初から大量に購入したわけではなく、始めは50冊限定で先に取り寄せたものを配布したところ、50冊ではまったく足りなくて追加注文をして大量購入となった。合計142冊。
▼何が弾みになったかというと、8月に馬込教会の写真を使用しているのだが、この写真に収まっている「教会以外のもの」がどうやら人気になったらしい。「あー、うちの家が写っている。買わなきゃ」「あー、うちの船が写っている。買おうかしら」
▼中にはこんな方も。「隣の船は船名がはっきり出ているのに、お父さんが物を干したままにしていたから、船名が写ってないんだわ。惜しいことしたなあ。でも買っておこう」物事は思いがけないことが引き金になる場合がある。出版社はそこのところをくすぐるように写真撮影をなさるとよいのではないだろうか。
▼ひとりで5冊買い求めた人は、どのようにそれを使うのだろうか。想像するに、子どもたちに配るのではないかと思う。子どもに配ってふるさとを忘れないように無言のメッセージなのかも知れない。そのような親の姿を見ていて、こうじ神父のふるさとには子どもたちに発信する何事かがあるだろうかと、ふと思った。








(No.214)05/12/18

▼決して止まらない列車のことを皆さんは何と呼ぶだろうか?私は「暴走列車」と呼びたい。「ノンストップ列車」は最後に必ず止まるが、「暴走列車」はそうではない。さらに「ノンストップ列車」には常識ある運転手が乗っていることが期待できるが「暴走列車」にそれは期待できない。
▼なぜ安全なはずの列車が暴走列車になるのか?どこかでゆるめてはならないネジをゆるめたり、「これくらいは問題にならないだろう」と小さな問題を見過ごしてそれが致命的な原因となったり、しばしばたった一人の人間のいい加減さでダメになる。
▼暴走の原因が上司の落ち度である場合は大変なことになる。それを諫めるのは部下の務めだが、大きな困難を伴う。上司に意見するよりも、被害が小さいことを願って指をくわえていることもあり得る。悲劇的な状況である。だがそれはカトリック教会の中でも起こりうる。
▼危険を感じたら、すぐに止めることだ。危険をかわそうとかよけようというのはもってのほかである。暴走する列車は原因を作った人間がいるがたいていの場合それを止める知識や経験を持った人間もいる。被害が出る前に何としても止めなければならない。だれかが、あらゆる手段を講じて。








(No.215)05/12/25

▼子どもの頃クリスマスには母親が必ずケーキを買って準備してくれていた。必ず買ってきてくれると思っていたけれども、「今年ケーキ買ってくるかなあ」と思って楽しみにしていたのが懐かしい。今でも親はありがたいもので、おとといだったか餅を送ってくれた。クリスマスのためじゃなくて、正月のためだなこりゃ。
▼女神大橋が毎晩ライトアップされて目に映るようになった。長崎においで、と言っているようで複雑な気持ちになるが、せっかくだから風の弱い日に渡ってみたい。何せこうじ神父は高所恐怖症。プールで競泳スタイルで水に入ることすらできない。ましてや高飛び込みなどもってのほかである。
▼橋は遠くから眺めるものと決めてかかっている。橋が架かっても船が存続するなら、こうじ神父は橋は使わない。実際は使うけれども、それでも船のほうに未練がある。第一橋が折れたらひとたまりもないけれども、船が沈没するとしてもある程度の時間があるはずだ。いろんな口実を言って、橋は嫌いなのである。
▼それでも、橋の計り知れない恩恵をこうじ神父は認めていないわけではない。郷里の小教区にかつて船で渡っていた(と聞いている)巡回教会があった。わずか数百メートルの幅、それでも橋はずっと架からなかった。ところがその島に空港がやってきて、道路と橋が整備された。空港はぱっとしないようだが、あの橋のない日常は考えられない。橋と母ちゃんは偉いのだ。