(No.001)(02/3/10)

(挨拶)
ようやくこの日を迎えることができました。実は誕生日が近く、また来週の日曜日がちょうど叙階十周年ということで、何かしよう、と始めたのがこの「メルマガ」です。これまでのノウハウを生かしながら、さらに砕かれていく日々でありたいと思います。皆様のご期待に十分添えるものは、とても提供できませんが、スタンスを変えることなく、継続して行くつもりです。ご購読くださる皆様に、重ねて御礼申し上げます。
(挨拶終わり)

▼皆さんにとって結婚十年目はどんな気持ちで迎えたのでしょうか?同じ職場で十年勤めると、どのような「仕事観」を持つようになるのでしょうか?
▼私も、曲がり曲がって、曲がりなりにも十年目を迎えることとなりました。確かに歩き始めの頃には分からなかったことが分かってきましたし、経験したことから、「待てよ、この先はこうなるのではないか」という予測の立つ場面も出てきました。
▼けれども相変わらず「ちっとも進歩しないなあ」とか、どうかすると「二歩進んで、三歩さがる」ような過ちを繰り返す弱さがあることも確かです。
▼今年の叙階式直後の、小学生の教会学校で、召命についてこんな話をしました。「どんな人が神父様になると思う?すごーく頭のいい人?すごーく真面目な人?すごーく歌のうまい人?神父さんの考えではね、その、『すごーく』の付いていない、中くらいの人がなるみたいだよ」
▼すごーく頭のいい同級生は、医学の道に進み、すごーく真面目な人は燃え尽きて、さほど歌えない人が残っちゃいました。
▼思ったのですが、数字の10とは、1と、0「ゼロ」の組み合わせ、つまり、いったんゼロに立ち返れ、というサインなのかも知れません。








(No.002)(02/3/17)

▼うーん、心と体がばあらばら。イエス様は最後の苦しみの中で、「御肉は破れ、御血は流れて御力尽き、なお御渇きは堪え給うべくもあらず・・・」だったのですが、金曜日の試走では、小生も「御力尽き、なお御渇きは堪え給うべくもあらず」でありました。ぜんぜん次元が違いますが。
▼また、レースの結果などは、どこかで紹介いたします。余談ですが、去年招待選手で見かけた藤○よしこ選手の顔はちっちゃかった・・・
▼(追伸)配信されたメルマガ、右端がぐちゃぐちゃで見づらくありませんか?気になる方は、Outlook Express の設定をいじってみてください。設定は、「ツール」「オプション」「読み取り」の項目の下にある、「フォント」というバーを押して、その中の「プロポーショナルフォント」に指定されているフォントを、たとえば、「MSゴシック」に変更してみてください。きっと右端が揃っていると思います。








(No.003)(02/3/24)

▼聖週間。皆さんにとってはどんな一週間でしょうか?こうじ神父にとっては、一年で最大の「頭脳労働週間」かも知れません。聖木曜日・聖金曜日・復活徹夜祭・復活の主日(日中)と、休みなくキーボードを打ちまくり、しぼっても出てこない頭を冷やしてはしぼりの連続です。復活祭が終わったときに、初めて「あー、御復活が来たなあ」と感じたりします。本当は、礼拝と同調するように喜びがわき上がるのがベストなのでしょうが。
▼先週「磯の香ロードレース」無事に走り終わりました。ただ、無事に走っただけです。タイムは・・・56分30秒くらいかな?たぶん250人中240位当たりだろうと思います。もうかれこれ一週間も経っているのに、高い足場に足をかけたりすると痛みがあります。これでようやく「みそぎ」は終わりまして、晴れて海の男になれそうです。








(No.004)(02/3/31)

▼皆様お気づきになったでしょうか?今回のメルマガお説教は、何と10年前、司祭になり立てほやほやの時のお説教であります。かなり冗長な言い回し、あまりにもくどい表現があり、15箇所ほど手を入れましたが、当時の雰囲気をできるだけ保った形で分かち合いさせていただきました。
▼今思うと、参考に使った解説書から一歩も外れないし、踏み込みもしない、いわゆる「優等生の」お説教であったと、我ながら感心します。けれども、10年経って読み返してみると、課題も見えてきます。聖書のテキストが言わんとしていることを汲み取る、そこまでは良しとしても、それを聞く人の立場に立って語って初めて「説教」になるということです。
▼論説・解説であれば、じっくり読み返して吟味することもできるでしょう。けれどもこれは、「説教」であり、その場で聞いて分かるのでなければ、そこまで噛み砕く努力をしなければ、説教と言えないのではないか、あらためてそう感じました。
▼説教は、理想があり、課題があり、現実がある。それはひとことで言えば、生涯をかけて探求するに値する使命だと、思いを新たにした次第です。








(No.005)(02/4/7)

▼ただ今、朝の5時5分前。夜中じゅう考えて、何も浮かばず、机にうつ伏せになってキーボードの型が顔に付き、「ピピピピピ!」とエラー音で目が覚めて、ようやく今書き終えました。まあ、こんな日もありです。毎回ロボットのように、安打製造器のようにお説教が湧き出るわけではありません。たまにはこうして格闘して産んだ子どももいていいと思います。
▼誕生と言えば、愛子様の誕生もおめでたいですが、長崎教区では、このたび4月29日に補佐司教様が誕生します。53歳なので、あまり若いとは言えませんが(スミマセン)、補佐司教様となられる神父様は、かつて大神学院で旧約聖書を講義してくださいました。私、恥ずかしながらこの司教様の講義の7割は居眠りしておりまして、しばしば「どうして君はそんなに居眠りするのかね」と言われたものです(理由なんて言えませんよね)。
▼また、大学の通信教育(慶応大学を通信で卒業しなければいけませんでした)の教務主任でもありましたが、「どうして君は、Cが多いのかね」とも言われまして、「受かっているからいいじゃないですか」と反抗的な態度を取ったこともありました。大変申し訳なかったです。ここに、「全能の神と、兄弟の皆さんに告白します」。








(No.006)(02/4/14)

▼暖かくなってきました。九州・長崎では桜も「散ってしまった木」と「まだ花びらを残している木」があります。桜がまったく同じ日に咲いて、同じ日に散ってしまうとしたら、まるで機械のようで味も素っ気もないことでしょう。いろいろな条件が複雑に絡み合ってのこととは言え、神様が与えてくださった「懐の深さ」なんだと思います。
▼この間、堤防にイカ釣りに行ってまいりました。「イカ釣り」にまいりましたも何もありませんが、行って30分も経たないうちに北西の風が吹き出し、釣りにならなくなりまして、2時間も経たないうちに引き上げて帰ることに。釣りをする人って、気の長い人たちだと思われるかも知れませんが、案外気の短い人たちなんです。
▼いよいよ春めいてきたこの時期、皆さんはどんな形でリラックス気分を味わうのでしょうか?それとも、ストレス発散?








(No.007)(02/4/21)

▼きっと最近は、歯の治療もいろんな進んだ技術があって、治療が楽しいという人もいるかも知れません。聞くところによると、レーザー治療というのがあって、必要以上に歯を削ったりしないとか。
▼けれども、やはり私の記憶に焼き付いている歯医者は「大丈夫。恐くないからね。」「うぃ〜ん」「しっかり口を開けてください!」「押さえて!」という、書きながらも音が聞こえそうな場面です。
▼皆さん、歯を大切にしましょう。








(No.008)(02/4/28)

▼大型連休。皆様はどのようにお過ごしでしょうか?最近は、あまり飛んでいかないように、できれば近くでリフレッシュするようにしております。
▼と言いますのは、立場上、「神父さんどうしているだろうか?」と、連休を使ってわざわざ訪ねてくださる方がいらっしゃるからです。助任司祭時代は、人が訪ねてくるのは「主任司祭のところ」と人ごとのように考えておりましたから、それはもう「三井グリーンランド」だ、「スペースワールド」だ、「ハウステンボス」だと飛んでまわっていたのですが、このごろはせいぜい行ってもボートで沖に30分、ケータイに連絡くだされば30分で戻ってくると、そういう連休でございます。
▼今年は、「訪ねてきてくださってありがとうございます」と、何人の人と声を交わすのでしょうか?








(No.009)(02/5/5)

▼「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ5:17)。こう言ってイエス様は宣教活動に奔走されたわけですが、ここには教会が世界規模で考える「広報手段と宣教」という問いに対する一つの答えがあるように思います。つまり、今も、そしてこれからもたゆまず、あらゆる広報手段にキリストの「顔の輝き」を放つようなお手伝いをしなければ、世界の隅々まで「良い知らせ」を伝えることはできない、と言うことです。
▼人によって、得手不得手があります。それぞれの得意を生かして、広報活動の中にキリストの居場所が与えられるように、そのための小さな一里塚として、このメルマガがお役に立つことを願うばかりです。








(No.010)(02/5/12)

▼2週前に公約していたのに、果たせなかった約束。「大島磯の香ロードレース」の完走記録証を、以下のURLに掲載しております。
http://isweb23.infoseek.co.jp/family/koujix/2x2iso_k.htm
▼まったくもってお恥ずかしいのですが、メルマガをもっと身近に感じていただくきっかけになれば・・・、という思いです。これが原因で、引いちゃってしまう方もおられるのかな?まあそれはそれ、去る方を追いかけても決して引き留めることなどできませんので。
▼皆さんの中には、漢字変換の機能に好みはおありでしょうか?こうじ神父は昔から、「ATOK」という漢字変換(ソフト?)を使っています。基本的にはすばらしい変換効率だと感じていますが、最近頭に来るケースがあります。「〜の主日」と変換しようとすると、「これは、『しゅうじつ』を間違って入力したのだな」と勝手に判断されて、どうあがいても「終日」と変換されてしまうのです。私は「意図的に」「しゅじつ」と入力しているのですが、ATOKが出過ぎたことをするのです。
▼気の短いこうじ神父から、よく腹立ち紛れに物を投げつけられたりしないで済んでいるものだと、感心しきりです。








(No.011)(02/5/19)

▼小学校・中学校の春の大きな行事、運動会が真っ盛りです。こちらの中学校でも、この日曜日が運動会でして、前日まで一生懸命練習をしていたようです。
▼金曜日、中学生の教会学校の様子。私は言葉には出しませんでしたが、部活帰り、運動会の練習明けで、勉強する部屋はものすごい汗のにおいがしました。「ものすごい」というのは、これはわたしの感覚ではありませんで、おそらく「汗をきらう」都会の人の感覚であります。念のため。
▼「あー、きつかあ。神父様、はよう勉強始めて。そして早く終わってぇ」。調子のいい奴らです。でも、体操服でやってきたかわいい中学生の「小さな願い」です。むげにするわけにも行かず、5分だけ早めに切り上げました。
▼「あー早く終わったあ。帰ってゲームしよう」「テレビ見よう」くっそー!騙された!なんにも疲れてないじゃん。これって、赦してあげないといけないのでしょうか?








(No.012)(02/5/26)

▼「その環境に置かれてみないと分からない」ということはあるものですが、このたびの日曜日は、午前中から昼まで「地域の運動会」に選手で参加し、それからすぐに「お葬式」を執り行い、大島から佐世保に飛んで晩6時にはろうあ者のために手話ミサというスケジュールでした。どれも、それぞれの心の持ちようがあるわけですが、このことに関して、忘れられない体験があります。
▼大神学生時代、生徒会長を務めた年がありまして、教会実習に出かけている中で、実習先の神父様にこう言われました。「神学院でどんな問題を抱えているか分からないけれども、それを顔に出して悲しそうな顔で教会の実習に来てもらっては困る。実習生としてふさわしい顔を作って、出直してきなさい」。私はそれからでしょうか、どんなときでも「神父様は悩みがないような顔していますね」と言われるようになったのでした。
▼まあ、誰にでもそれなりの複雑な暮らしがあるし、立場があるでしょうが、何もなかったかのごとく、それぞれの場に接していくことで、タフになれるのかも知れませんね。








(No.013)(02/6/2)

▼諸般の事情により、配信予定日時を変更することとなりました。今朝の出来事を例に取りますと、教会掃除を終えた班のおばちゃんが(おばちゃんにおばちゃんと言ってすみません)、「お茶にしませんか?」と、どうしても来て欲しいというようなお誘いを受けました。お茶に行きたいけれども、ここでおばちゃん宅に伺えば、ほぼ2時の配信は絶望的・・・どうする?アイフル!みたいな状況が発生いたしております。
▼ほかにも、小教区の新聞の発行と重なっている、飛び込みの用件が入った、などなど、土曜日は意外と心配事が舞い込む日。「どうする?アイフル!」。これまでは何とかアクロバットをこなしてきましたが、アクロバットは必ず成功するとも限りません。そうであれば、安心して更新できる時間をさがしたほうがいいのではないか、という結論です。
▼ある意味で、お茶に誘われた時間(午前10時)に説教ができあがっていれば、何の問題もないのでしょうが、私の場合まずそれはあり得ません。「神父様はお茶に誘っても来てくださらない」「お説教くらいぱっぱっと作れるでしょう。神父様だから」さまざまなプレッシャーを考慮した結果、日曜日早朝の配信を決断いたしました。どうぞご理解くださいませ。








(No.014)(02/6/9)

▼「おやしらず」を抜きました。特別イタズラしていたわけではないのですが、いつかは抜いたほうがいいだろうということだったので、抜いてもらったのですが、1時間45分の格闘にもまいりましたが、麻酔が解けたあとの痛みといったらこれがまた表現のしようもないほど痛かった。歯医者の若い先生、お疲れ様でした。
▼「2・3日は腫れがあるかも知れませんので」と言われましたが、今週は司祭の黙想会もあるのに、お岩さんのような顔で出かけたくないなあと気を揉んでおります。
▼歯医者は、午前中の病人訪問と、午後の病人訪問の合間をぬって出かけたのですが、帰りのとある直線道路で(50ccの、カブに乗っていましたが)「ねずみ取り」に御用となりました。
▼「お急ぎのようですね。お仕事ですか?15キロオーバーなんですよね。メーターがちゃんと作動していなかったのかなあ。ちょっと確かめさせてもらっていいですか?」能書きはいいから、早く処理してちょうだいと思っていたら、なんと、「安全運転で、お願いしますね」と言われ、放免されました。
▼この日、抜歯の痛みに罰金の痛みが加わらず、神に感謝したのでした。








(No.015)(02/6/16)

▼年の黙想会(一年に一度、司祭の修養会)に参加して帰ってまいりました。修行を積みましたので、食事の皿にハエが降りてきても動じることなく、火もまた涼し・・・といきたいところですが、ほんとうに内面から変革され、宣教者としてのリフレッシュが出来たのかと言われると、???といったところです。
▼黙想会の指導をしてくださったイエズス会の神父様は、言葉に深い意味を見いだすコツをご存じで、話を聞くたびに、「いつも使っている言葉に、そんな意味があったのか」と考えさせられました。
▼「美しい」という漢字は、「羊」と「大」で成り立っているそうで、「神に捧げるべき羊が、大きい」から来るのだそうです。「神に捧げる供え物がまるまる太ってりっぱ」そういう様子なのかな、と思うとき、ふだん使っている漢字・言葉は、宗教的な意味が根底にある、もっと言うと、根底に宗教的な意味があることを、現代人は忘れているのではないか、そう思った黙想会でした。








(No.016)(02/6/23)

▼June Bride(ジュン・ブライド)。あこがれる言葉かも知れません。結婚式を司式する私の立場から言えば、もう少し涼しいうちがいいかなあ、なーんて思ったりします。この「六月の花嫁」説については、私は、もっと現実的なことを考えておりまして、最初の子どもが結婚後に生まれる時期を考えると、六月がいいのかなあと思っております。産まれた子どもが真冬では、ちょっと厳しいでしょうから。
▼こちらの教会では、「六月の花嫁」に一組恵まれました。一年に何度も結婚式はめぐってきませんので、教会としてはちょっとしたにぎわいです。結婚の準備で学んだことを時には思い出して、いつまでもお幸せに。








(No.017)(02/6/30)

▼1992年の3月17日に、浦上教会で司祭に叙階されて、10年と数ヶ月が経過しております。ありがたいことで、教会に赴任した司祭は「霊名(洗礼名)のお祝い」というものを準備して頂くのですが、今年は「十周年もあわせて、盛大にお祝いしましょう」という話になっているようです。
▼関連する話ですが、私たちは神学生時代から、「自分の誕生日は、自分でケーキを買ってきてお祝いしてもらう」というありがたくない習慣がありました。で、その癖は今も治っておりませんで、「お祝いの魚を手配しないといけないなあ」と考えておりましたところ、「渡りに船」、ちょうど親しくしている人と金曜日に「イサキ釣り」に行きました。
▼釣果は、二人で66匹と、「爆釣」(ばくちょう)と言って良かったと思います。ただ、霊名のお祝い会には、70人ほどの参加が見込まれるので、いろんな料理(塩焼き・刺身・みそ汁)と作ってしまえば、あっという間です。ペトロが不思議な大漁を経験したあと、どんなふうに魚を配分したのか、そんな思いがちょっと頭をよぎりました。
▼十周年と言っても、長崎教区ではまだ「平社員」みたいなもので、もっともっと経験しないといけないことがたくさんあります。特に今の私の中では、積み上げては壊し、積み上げては壊しして、何がほんとうに通用するのかを検証していく必要があると感じている次第です。
▼長くなりましたが、これからもこの縁を大切にしていきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。








(No.018)(02/7/7)

▼言わずと知れた「七夕」ですね。織り姫と彦星が年に一度出会うと、私は信仰とか宗教とは別に、ロマンチックでいいなあと思います。年に一度の遠距離恋愛であれば、昔はどうやって絆をあたため続けていたのでしょうか?
▼今だったらメールや電話(YahooがスタートさせたIP電話も含めて)、果ては「写メール」までも使って愛を確かめ合うのでしょうね。(私はJ−PHONE愛用者ではありませんが、実の妹とその婚約者が写メール機能付きのJ−PHONE持ってました。きゃー!)
▼これは、又聞きなのですが、「写メール」は、DOCOMOにも送信できるとか。ワン切りはイヤだけど、間違い写メールは受け付けまーす?








(No.019)(02/7/14)

▼あー、破天荒な(こじ付けとも思える)切り口で今週の福音を黙想してみました。私のスタンスは、「たとえはたとえであって、たとえのためのたとえじゃない」、つまり、「分かりさえすれば、畑のたとえでも釣りのたとえでもオッケー」と考えています。
▼実際イエス様はありとあらゆる素材をお使いになりました。不正な裁判官のたとえ、ドロボーが家に侵入するたとえ、不正な管理人のたとえ、要するにたとえはたとえに過ぎず、その先に神の国を垣間見せる真実が待っていたわけです。さて私のたとえから導かれる結論は、毎度神の国を垣間見せる内容になっているのでしょうか???
▼実は今週トライアスロンがご当地大島町で行なわれ、大変な賑わいでした(なかにはこちらの小教区所属のカトリック信徒の方も出場しておられるとか。敬服いたします)。私はその賑わいにあまり染まらず(出場する勇気もないし)、手話ミサのために島の外に出ました。
▼暑さ厳しき折ですが、お一人おひとりの健康のためにお祈りさせていただきます。こうじ神父は、腕に大やけどを負うほどに、イサキを釣って健康を維持しているつもりです。
▼釣果のほどは、「ビボビボ」ホームページまで。
http://isweb23.infoseek.co.jp/family/koujix/








(No.020)(02/7/21)

▼7月20日は海の日でした。ぜんぜん海と関係ない一日を過ごしました。すごーく湿度の高い部屋の中で、海のことまったく頭に思い浮かぶこともなく、小学生の黙想会の準備(と言っても21日から始まる)でバタバタしておりました。
▼生活の中で確実に祈る。こういう目標で今年の小学生の黙想会を取り組みます。子供たちはどんなときに、「確かに」祈るのでしょうか?朝・夕の祈りは?食前の祈りは?食べてしまったあとに、忘れずに食後の祈りしている?お母さんは、「歯を磨きなさい」とは言ってくれるけれども、「食後の祈り、した?」と言ってくれるのかしら?
▼あなたにとって、私にとって、一日の中で、確実に祈る時間はいつですか?








(No.021)(02/7/28)

▼5年ほど前に、研修という名目で、フィリピンに出かけたことがありました。青年の研修でしたので、30過ぎた人は私だけで、あとは20代の若いピチピチの人が多かったのですが、その時始めて「時差」というものを意識しました。その後、エルサレム巡礼の時も同じ経験をしたのですが、時差のことだけ考えると、フィリピンでの体験がはっきり記憶に残っています。
▼日本とフィリピンの時差は1時間でした。マニラ空港に降り立った時に、引率の神父様が、「みんな〜、時計を1時間戻してください」と教えてくださいました。私は時計を戻しながら、ふるさととは1時間違うのだなあと、何だかしみじみと郷里を思ったものです。1時間前にミサが終わったんだろうなあ、1時間前にご飯は終わったんだなあ、1時間前に日が昇り、沈んだんだろうなあ・・・そういう感じです。
▼今回どうして「時差」の話をしたかって?それは、時差を意識する出来事があったからです。皆さんにちょっとびっくりして欲しいのですが、メルマガ(ホームページかも知れません)は、海を渡ったんです。最近、フィリピンからと、ドイツから、メールが届いたんです。びっくりしました。
▼そういうわけで、これからはもっと日本語の言葉にも気を配り(こうじ神父の場合、もっと方言を使って、程度の意味合いですが)、懐かしい言葉の響きを活かしながら、福音のメッセージを届けていけたらと思います。
▼ちょっと、力が入りすぎました。ごめんなさいませ。








(No.022)(02/8/4)

▼長崎地区・佐世保地区では夏に教会学校小学生の球技大会を行う習慣があります。教会によっては、朝のミサに来て、そのあとすぐに練習をするところもあり、いつだったか、そこの教会に試合で負けてしまった時、「ミサに来るか来ないかが、勝負の差だったなあ」と言いましたら、素直なうちの子供たちは、「そうかも」という顔をしていました。そう思ったはずなのに、今年のミサとラジオ体操には、出足が悪いようですが・・・
▼昨年までは、決まって格下グループで試合をしていたためか、毎年優勝しておりましたが、今年はそうはいかないようで、「あー、今年は優勝できないかも知れない。その時はどこに旅行に連れて行ってくれるのかなあ」とかぼやいています。うちの「モーニング娘。。」たちは、鍛錬は眼中になくて、その先の褒美が気になるようですが、それって、レベルが高いってことなのかな???








(No.023)(02/8/11)

▼とある病人訪問での会話。「神父様、最近海がしけて、釣りに行かれずにさびしかでしょ〜。特に昨日の波はひどかった〜」。実はその日、お友だちの神父様を連れて釣りに出かけていたのでした。かなりの時化の中、まるまるとしたアジを80匹近く釣り上げて、ちょっとじいちゃんばあちゃんに言い触らしてまわろうかなあという矢先だったのです。
▼「お、お〜、昨日みたいな時化の中に誰も釣りには行かんよ。ひどかったもん」「ばって、ほんとのこと言えば、釣りに行ったっさね」「え!!!」
▼帰りに、とあるお母さんの車とすれ違いざまに、調子に乗って手を振りましたが、直後に「しまった」と思いました。そこの息子に、「ヤス君。ごめんけど、木曜日の釣りは中止ね。波がひどかとさね」と言って、断っていたからでした。あとで謝っておかないと。
▼もう一つ、チョー嬉しい話。先ほど話題に出た「ヤス君」が、「ねえ神父様、一回泊まりに来てよか?」と尋ねてきたんです。二つ返事で「おーよかぞ、来い来い」と言って、その日は火曜日と話がまとまりました。
▼その当日の昼頃でした。「ねえ神父様、2時頃から泊まりに行ってよか?」「うう、4時頃がいいんじゃないかなあ(長く相手をするのがイヤだったので)。どう?」「うん、じゃあ4時ね」そういうわけで息子の子がやってきました。
▼その日、一緒に晩ご飯を食べ、風呂にも一緒に入り、一緒に「トンデラハウスの大冒険」を見て(付き合わされて?)並べてふとんを敷いて寝ました。自分の息子がいるような錯覚になりまして、寝顔がとってもかわいかったなあ。
▼盛りだくさんの一週間でした。








(No.024)(02/8/18)

▼お知らせを含めて、いろーいろ書きたいことがあります。まずお知らせ。i-mode「話の森」も、そのうちにメルマガに移行したいと思います。というのは、今の形では、i-modeを接続したままでないと、読むことができないからです。これはどう考えても不経済。何人かから、「あの分量をつなぎっぱなしでは読めません」と言われ、そうだよなあと思いつつ、実行できませんでした。
▼それから。8月15日の、メルマガ増刊号に、「今後有料化のことも視野に入れております」と書きました。その際貴重なご意見をいただいたのですが、その中で特に目を引いたのは、「活動費という名目は、明細書でもない限りわかりにくいです。いっそのこと、有料メルマガで得たものを、さらにどこか必要としているところに寄付する、その活動に賛同を求めてはいかがでしょうか?」というものがありました。
▼実は個人的に、「カトリック点字図書館」の活動にほんのわずか協力をしているのですが、そこで「あーそうか、ケチなこと考えずに、このメルマガに費やした労力を有料という形で協力してもらえるなら、有料化で得た購読料を、カトリック点字図書館に寄付すれば、はっきり目的も示すことができるよなあ」と思いました。
▼聖パウロは、コリントの信徒への手紙の中で、次のように言っています。「では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです」(1コリント9:18)。これでいいじゃないか。うんそうしようと、腹は決まりました。
▼もちろん、今すぐではありませんが、近い将来「有料メルマガ」と「無料メルマガ」に分けて、あらためて購読を募りたいと思います。内容に差が付くかどうかは、今のところ何も考えはありませんが、皆さまの忌憚(きたん)のないご意見を頂戴できればと思っております。
▼皆様からのご意見ご感想をお待ちしております。








(No.025)(02/8/25)

▼今週配信のメルマガで、第25号となりました。配信当初は、購読者数の増減に一喜一憂したり、「どうやったら購読者の気持ちをつかんで離さないようにできるだろうか」と悩んだり、いろいろでした。購読者をつかむのは、テクニック云々ではないことは明らかです。小細工なしで、淡々と、福音に込められた喜びを解き明かすこと、二千年前に現れたイエス様は、今の私の暮らしをも照らし・守り・救ってくださることを提示していくことだと思っています。
▼さて、一年という期間で眺めれば折り返しを迎えたわけですが、折り返しを迎えて新たな提案をいたしました。それは、メルマガの「有料化」と言うことです。最初は、安直な考えで「ちょっぴりでも皆さんから活動費をいただければ、メルマガとHPの維持管理の助けになるなあ」程度の考えでした。明細もないし、どうやって報告するかの見通しもありませんでした。
▼私としては、活動の一環として、一石を投じるという狙いもありましたので、何となくではいけないのだがなあと思いつつ、はっきりした見通しを示すことができませんでした。今現在は、はっきりした意図があります。「メルマガ配信を受けている方に、『受ける』ことを通して、『与える』この提案に協力願えませんか?」という呼びかけです。
▼具体的な内容は、先週のメルマガでお知らせした通りですが、もっと詳しいことについては、ホームページに掲載したいと思います。「メルマガを読むことで、点字図書館を支援してみたい」という方は、将来発刊される「有料メルマガ」サイトで購読を申し込んでください。
▼今後は、「有料メルマガ」と「無料メルマガ」の二本立てで配信を続けることを前提に(内容に違いはありません)、内容をさらに検討していきたいと考えております。一ヶ月か、二ヶ月後をめどに、以上の構想を具体化できれば、と考えております。
▼今後しばらくは、この「有料メルマガ」「無料メルマガ」に関する書き込みはしないつもりですが、皆様の率直なご意見はいつでもちょうだいいたします。よろしくお願いいたします。








(No.026)(02/9/1)

▼猛烈に書き続けて、そのあとでばっさばっさとハサミを入れて、お説教の原稿が出来上がるときがあります。そうかと思えば、唸っても何をしても文字が埋まらず、ヘトヘトになって一定の文字を連ねたという原稿もあります。
▼どちらもかわいいお説教ですが、どちらかというと、文字が足りないときのほうが、真実味があるような気がします。それは私の主観なのかも知れませんが、流れるように、あふれ出てくる言葉(文字)には、玉石混淆(ぎょくせきこんこう)で、さらに意味のある言葉を探す必要があるように思います。
▼けれども、どうしても言葉が出ない。七転八倒して、絞り出したものには、何となく爽快感が残ります。「イエス様、今日は本当に言葉が出ませんでした。それでも語れ、止めてはいけないと言われれて、これだけ用意したのです」。
▼さて、今週のお説教は、どちらでしょうか?








(No.027)(02/9/8)

▼いろんな伝(つて)で、長崎大司教区の教区長・フランシスコザビエル島本要大司教様の訃報をお聞きになったかと思います。本当にあっという間の出来事で、「悲しむべき時間」も、「立ち直るための時間」も与えないまま、天に召されたという思いです。
▼秘書の神父様と、教区本部事務局の神父様が仰っていました。「大司教様は何でも早い人でした」。何でも早い人だったので、幕引きも早かったのかも知れません。けれども、十八番の「大漁節」を歌うときは、歌詞が6番まで付いていれば、6番まで歌って、「まだ歌うの?」と苦笑されていたのですが・・・。
▼カトリック長崎大司教区のホームページ
http://www.nagasaki.catholic.jp/index.html








(No.028)(02/9/15)

▼夢を見ることはあるでしょうか?私は目覚めの良い夢も、目覚めの悪い夢もどちらも見ることがあります。目覚めの良い夢は、いつかまた見たときにお話ししたいのですが、この間は目覚めの悪い夢を見ました。
▼夢の中での行動は、潜在意識を表現していると言われますが、悪い夢での悪い振る舞いもそうなのでしょうか?私は、その夢の中で、振り払いたい人が幾人も現れ、何と棒切れをつかんで、いなくなるまで暴力を振るっていたのでした。
▼そして、目覚めたあとにあることに気付いたのです。悪い夢の時は、どうやら登場人物が繰り返されている、と言うことです。誰なのか分かりません。少なくとも、今現在の身の回りの人物ではないのですが、どうも同じ人が何度も現れて、私をさいなんでいるようです。
▼個人的に、解説できるという方は、ご連絡くださいませんか?








(No.029)(02/9/22)

▼24時間、何かをしているのだと思います。睡眠も、「意識してはいなくても」人間の活動かと。そうすると、一日の苦労は、一日で足りるというイエス様の言葉には、実際的な意味があるのかも知れません。ただし、夢を見ると、一日24時間以上あるような気がしますが。
▼私たちの日毎の糧を、今日もお与えください。そう祈りながら、今日の糧を与えられたと確信できない弱さ。飽くことのない金銭への執着、誰かに対する妬みやそこから来る自分に対する不満。何とも悲しい人間の現実です。
▼イエス様はそんな私たちに、「あなたにもふさわしい賃金を払ってあげよう」と仰います。謙虚に、「あなたが払ってくださる賃金が、いちばん適正賃金です」と言える人間になりたいと思いました。
▼(おまけ)メールアドレスが変わりました。








(No.030)(02/9/29)

▼「引っ越しました」。大切なあいさつ。物理的に移動するに当たって、特に交流のあった人には心を伝えるあいさつをするものです。
▼ところがネット上では、本当に顔の見える方々はごくわずかで、その上「引っ越し」をしても「引っ越しました。引っ越し先はこちらですから、よろしくね」みたいなあいさつでつい済ませたりします。私は、30週もの間購読してくださった方々に、何もお返しできずに、「よろしくね」で済ませようとしているのかも知れないと振り返るのです。
▼メルマガを通じて、カトリック教会に関わった、カトリックの神父に(もっとりっぱな方がいらっしゃるのを承知で)出会ったという方もおられることでしょう。何かメッセージをお伝えし、それが「気分の問題」ではなくて、「生き方」に、また「人への接し方」に、キリストの物差しをあてはめるきっかけになっていればと思うのです。
▼イエス様は、雲の上の生活をされませんでした。すべての人と交わり、すべての場所に神はとどまってくださるよと、身をもって教えてくださったと思います。私もそのつもりで、日常のごく日常の中にとどまる神の姿を拾い、福音に結びつけていくことができたらと思うのです。これが、私のスタイル。
▼これからも、今目の前の社会に神がとどまっておられることを証しするために、この道具を使っていきたいと思います。イエス様がそこにおられるメッセージをお届けする道具となれますように。アーメン。(←そうなりますように)








(No.031)(02/10/6)

▼神様は深い計画をお持ちの方。今日お説教に取り上げた「産婦人科の先生」の話題は、実は6月のはじめにたまたま調べたソース(ネタ)でした。本来なら、埋もれてしまうか、記憶の彼方に消え去る運命にあったかも知れません。そんなちょっとした記憶の隅のとっかかりを、神様はちゃんと今日の日のために取って置いてくださいました。
▼10月から、このメルマガも新体制でスタートいたしました。たくさんの励ましの声や、正直な意見を頂戴して、さらに気持ちを引き締めてのスタートのつもりでしたが、みなさまにとってはどのように映ったのでしょうか。
▼このメルマガを育ててくださるのは、ほかならぬ読者の皆様です。人間的な弱さから、時に手を抜こうとするこうじ神父を、これからも温かく、時には厳しく見守っていただければ幸いです。新たな出発を神に感謝して、来週の福音と2002年10月13日との接点を、今から探したいと思います。








(No.032)(02/10/13)

▼「日は昇り、日は沈む」。何となく詩人になったような気分です。いま二つのことが頭に浮かびました。住んでいる大島に、長崎県最長の大島大橋が開通した瞬間、私は波止場でクロダイを釣っていました。「橋は自分がいなくても開通するさ」そんな気持ちでした。
▼大島を車でひと流しすると、ときどき白黒の幕を張った家に出くわします。不幸がありましたよという知らせですが、同じ日に楽しいことに興じている人もいるわけです。そう、日は昇り、日は沈む。どんなに人が悲しい思いをしていても、全世界が悲しんでいるわけではないし、日本中が喜びにわいている中でも、悲しみに暮れている人だっています。
▼神様はそんな世界をお造りになりました。みんなが笑っているわけではない、みんなが泣いているわけでもない。いろいろなことが同時に、あちこちで起こっている「この世界」を神様がお造りになった。
▼だから、喜んでいる人も愛したいし、悲しんでいる人も愛したいと思います。喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しみたい。そんなことを、とある仏式の「告別式」に出席する前に思ったのでした。








(No.033)(02/10/20)

▼信じられない話だが、Windowsパソコン(私のはWindows Me)の標準フォント(と思っているが)MS明朝フォントが表示できなくなった。変だなあという兆候はあったのだが、今日(土曜日)になって突然壊れてしまった。印刷もマジックで太線を引いたような状態。えらいことになった。
▼おそらく原因は、日に何度も繰り返す「リセット」だろうと思うが、これまた画面が「フリーズ」を繰り返すので仕方がない。どの辺で妥協して、トラブルとつきあっていけばよいものか思案している。
▼最近「冷たいのかも知れないなあ」と思う。パソコンが調子悪いときに、「もう!リセットかけよう。ハイ、リセットリセット」と、平気でパソコンをいじめる。ほかにも、すごく酷なことを人に求める。五島弁、長崎弁で言うと、もっと「やーらしく」してあげればよいのに。
▼案外、自分自身の内面の不調を、何かにぶつけているのかも知れない。心と体の健康にもっと配慮しなければと、十年前は考えもしなかったことに心が向いた。








(No.034)(02/10/27)

▼今週、太田尾小教区に佐世保地区の手話会(みことば会)が訪問してくださり、一緒に手話ミサをささげた。誤解されたくないが、あえて言えば、ろうあ者と共に捧げる手話ミサは、「ユニバーサルデザイン」ではないかと思う。
▼「ユニバーサルデザイン」とは、「だれにでも(子どもにも、高齢者にも)使いやすい形」だと理解しているが、通常のミサの流れは、もしかしたら大人、それも、いつも参加している方々にのみ理解できて、子供たちや、はじめてミサに参加する方々には、ついていけないのかも知れない。
▼その点、手話ミサは動作が入る分、念入りにというか、かなりていねいに捧げていくように思う。年輩の人には唱えている祈りが聞きやすいだろうし、子供たちには手話を通して、場面場面が心に届きやすいのではないか。
▼本来、もっともっと心を砕いて、平常のミサが「ユニバーサルデザイン」である必要があるのかも知れないが。いたく反省。








(No.035)(02/11/3)

▼とあるシスターの報告。8月31日に亡くなられた前長崎大司教区長・島本要大司教様が夢枕に立ったと言う。夢を見た時間にも依るが、おそらく11月1日、「諸聖人の祝日」に夢に現れたことになる。
▼「服装は?」と尋ねると、「祭服を着ていました」と言う。すると、葬儀の時に着せた祭服か、大司教様の生前のミサのことが頭にあったのか、いずれかのことがきっかけになっているかも知れない。
▼教会は、11月を「死者の月」として、すでに亡くなった方々のことを思い起こし、祈るように勧めているが、この夢はどう判断すべきか。天国の喜びにすでに入っているということか、続けて私のために祈って欲しいということか。
▼天国にすでに迎えられている方々が、広い意味での「諸聖人」であるとすれば、夢枕に現れた大司教様は、ひょっとしたらすでに「聖人」と同じ喜びを味わっているのかも知れない。
▼最速のスピードで列聖された「エスクリバー神父様」さえも27年かかったのだから、地上の教会による追認は、当人にとってはたいしたことではないのかも知れない。








(No.036)(02/11/10)

▼めずらしく、ドラマを見ている。「アルジャーノンに花束を」。先生役の女優は、「君の手が話している」だったか、手話を大ブレイクさせたドラマのヒロインをつとめたことがあった。
▼痩せていた頃は、ドラマの主人公「ハル君」に小生もそっくりだったので、物まねをすればけっこうに様になっていると自負している。ただし、いまは研究室でネズミの実験につきあった先生のような体型をしているが。
▼あのドラマの原作を取り寄せて、読んでみようかと思っている。きっといい涙を流すことができるのではないだろうか。最近は心から感動して涙ということにとんと縁がない。
▼「本の虫」「パソコンの虫」も、足下がじんじん冷えるなかで心温まるドラマに涙するのも、悪くはないと思っている。








(No.037)(02/11/17)

▼先週は「恵楓園」(けいふうえん)を「楓風園」と書いてしまい、たいへん申し訳ありませんでした。今日は、中学生の話。
▼信仰養成講座の講師をとある場所で引き受けていて、それが中学生の教会学校勉強会と重なった。さあ困った。
▼重なってしまったので、休みにしたいのだけれどもと切り出したら、「神父様、一泊宿泊の日にしてくれない?学期に一回は、一泊宿泊の日を用意するって言ったでしょ」それはそうだけれども、責任者不在では何かあったときに申し訳が立たない。
▼「大丈夫。何も起こらないさ」たしかに。夜7時以降に町をうろついても、ゲームセンターはないし、コンビニは親戚の方が経営していて、「こんな時間になんばしに来たとね?」と言われるからうろうろできないだろうし。それで夕食の買い出しだけ済ませて、私は講座に出向いた
▼10時過ぎに戻ってみると、連中はエンジョイして、ホラー映画できゃあきゃあ言って騒いでいた。「帰ったぞ」と言ってわざと電気をつけたら、「もう神父様、いいところだったのに」と怒られた
▼親はなくとも子は育つのかも知れない。はたして信仰はどうなのだろうか








(No.038)(02/11/24)

▼11月21日、聖マリアの奉献の記念日に、福岡の大神学院に出かけた。母校であり、今年は司祭叙階十周年でもあったので、あいさつもお願いしますとの依頼に応えるための訪問になった。
▼あいさつは、福岡までのおよそ3時間、練りに練って、推敲を重ねたので、自分としては満足のいくものが準備できていた。もちろん十周年であるから、二十五周年、五十周年の大先輩のスピーチには及びもつかないが、それなりにということ。
▼ところが物事は両方に受け止められるもので、「興味深い話」と喜んでいただいた方と、「けしからん」とおかんむりの方とがいらっしゃったとか。
▼十周年でもあり、少々突っ張っていたのかも知れず、それは謙虚に受け止めたい。言いたいこともあるが、王であるキリストの国民に迎えられるまでには、まだまだ道のりは遠いなあ、とちょっぴりため息をついたのだった。わっかるかなあ、わっかんねぇだろうなあ・・・








(No.039)(02/12/1)

▼降誕祭に向けて、聖歌の練習が始まった。いつもそうだが、だれかその年の聖歌を救ってくれる人が現れて、降誕祭を盛り上げてくださる。今年は、オルガンのシスターだ。
▼ある年は、澄んだ高音を聞かせてくれる人が加わってくれたり、ある年はよく響く低温を聞かせてくれたりするが、今年はシスターの「ちゃきちゃきの江戸っ子だ〜い」が救ってくれるかも知れない。
▼「あ、そんなに遅い歌じゃないですよ」「ダメです。ここは、こう歌ってください」なかなか手厳しい。おばさまたちもちょっと押され気味。いいぞいいぞ。
▼中学生にも、一役買ってもらうことになっている。いいんだまたこれが。でも教えない。








(No.040)(02/12/8)

▼過ぎた12月3日は、聖フランシスコ・ザビエルの祝日だった。ホットな週に取り上げるべきだったかも知れないが、この聖人の名を、かつての長崎教区長島本大司教様はいただいていた。今だから打ち明けるが、私たちの耳には、島本大司教様が教区長として選ばれるなどということは考えもしないことだった。「え〜!」と多くの関係者が思った(と聞く)。
▼しばしば神様のなさり方は、人間の思いをはるかに超えている。まさに、「まったく新しい未来」をお示しになる。現在の補佐司教様も、ご自身が選ばれることについてはまったく予想外のことだったと聞く。次の教区長についても、そうであろうか。
▼浅はかな知恵で思いを巡らすならば、「かつてはヨセフの洗礼名をいただいた方が司教様に選ばれてきたのだから、今度はフランシスコ・ザビエルの霊名をいただいた方かも知れない」などと思うが、おそらく想像もつかない結果なのだろう。
▼神は、想像もつかない未来を提示して、「みな、これを取って食べなさい(受け取りなさい・受け入れなさい)」と迫る。あとは私たちの心の持ちようだ。神様がお示しになった答えが正解ですと思うことができるか、人間の思いを引きずって、神様の答えに素直になれないのか、いずれにしても私たち次第。もっとも、はやく決まって欲しいというのが正直なところか。








(No.041)(02/12/15)

▼年の瀬も押し迫り、一年があっという間だったことを良しとするのか、反省するのか、思案する。あっという間に過ぎた、それほど充実していたと言えば聞こえはよいが、断言もできない。
▼今年は自分にとっては「メルマガ創刊」が何よりも大きな出来事となった。41週の配信を続けてきた。わりと書きたいように(もちろん黙想と祈りがあっての話だが)書いてきたので問題なく続いたが、本当に読者にとって泉のわくようなものであっただろうか。
▼あまり欲のない人がうまくいくのだそうだが、こうじ神父は欲が強い。成功し続けたい、勝者であり続けたいという欲望だろうか。独り配信作業に入るとき、これではいけないのでは?との不安もよぎる。
▼皆様にとっては、どのような一年だったでしょうか?そしてこのメルマガが、皆様の生活の中で何をもたらしてくれたのでしょうか?臨時の掲示板を設けてみますので、ご自由に書き込んでみてください。
http://8214.teacup.com/koujimaga/bbs








(No.042)(02/12/22)

▼連絡が遅れてしまいましたが、「ボイスウェブホームページ」は、プロバイダー側の事情でURL表示方法が変わっております。以前のURLを「お気に入り」に入れておられる方は、いったん削除なさって、下にある新しいものと入れ替えてくださいませ。
▼教会学校の最後の週に、「クリスマスの喜びや、クリスマスの大切さって、毎年参加して、少しずつ分かるようになってくるんだよ」と話しました。
▼その例として、「小学校のお勉強も、六年かけているでしょ」といって比較してもらったのだけれども、あれでよかったのかしら?とあとになって思い返します。
▼六年でも理解し尽くせない小学校の学習課程。神様の永遠の昔からのご計画「主の降誕」が、人生すべてをかけてクリスマスのミサにあずかっても、はたして理解できるものなのでしょうか。
▼ヨハネ福音記者は、イエス様のことをすべて書こうと思えば、世界もそれを収めることができないであろうと仰っています。この神秘を、私たち自身が幼子の心に立ち返って、迎え入れたいものですね。








(No.043)(02/12/24)

▼今年もあとわずか。今年一年は、どのように振り返ることができるでしょうか。
▼「帰」という漢字が、今年一年を表す漢字なのだそうですが、私はどこから、本来の私に帰ってきたことでしょうか。
▼クリスマスは、私をみずからの誕生に帰らせてくれます。私は産婆さんに介助してもらうまで、息をしていなかったのだそうです。
▼母親は、「どうか息をしてくれますように。息を吹き返したら、神様におささげしますから」と、一生懸命祈ったのだそうです。
▼あれから36年9ヶ月。頭が禿げてきて、ショックもハゲも隠せなくなりましたが、クリスマスプレゼントに、両親にイスラエル巡礼をプレゼントいたしました。出発が3月11日、私の誕生日の前日です。








(No.044)(02/12/29)

▼最近めっきり走ることもなくなりましたが、司祭になって教え込まれた正月三日間の過ごし方は、「箱根駅伝応援」です。学生時代はもちろん、司祭になるまで箱根駅伝があることすら知りませんでした。
▼けれども最初にお世話になった教会では、箱根駅伝をゆっくり応援するために、食事のシスターにお休みしてもらって、自分たちでその間自炊し、玄関にも「誰もおりません」と居留守を使って観戦しておりました。
▼驚いたことに、先輩の助任司祭は今年の箱根駅伝のミニデータを収集し、主任司祭にそれを示して、さあどこそこが優勝するに違いないと、一生懸命お互いに予想を立てていたのでした。
▼私はその時からの箱根駅伝のファンです。それまで名前すら知らなかった「山梨学院大」「神奈川大(じんだい)」などの大学名も知りましたし、さらには「東京農大『大根踊り』は、出場した年しか見ることができない」ことも、はじめて知ったのでした。
▼今年もきっと、「箱根駅伝で迎える正月」となることでしょう。みなさんも、良いお年をお迎えください。そして、一人ひとりの上に、神様の平和といつくしみが一年を通してありますように、お祈り申し上げます。

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