(太田尾)小教区で、我流ですが新聞を発行しています。

2001年版 2003年版 2004年版

感謝いっぱいのクリスマス
 
 今年のクリスマスに向けて、私の目を開いてもらったことをひとつ紹介したいと思います。神様は、私たちをこよなく愛して、イエス様を送ってくださいました。それは、詰まるところ、「死ぬほど私たちを愛してくださった」のだと思いました。
 ご自分のひとり子を私たちの救いのために差しだし、命を賭けての救いを成し遂げてくださいました。死ぬほどの体験をなかなかしない私たちに、イエス様はこれほど愛しているんだよと、イエス様を通して示されたのでした。
 私たちはそこまでしようとしないし、そこまでする必要を感じないのです。けれども神様は、そこまでの必要を、私たちに感じてくださいました。
 じつは今年、何人かの方を天国に送り出して、これまではあまり気付いてなかったことに気付かせてもらったのです。本当に死ぬほど神様を愛していたなら、神様はその人を忘れないし、必ず迎えてくださるだろうと。
 ひとりの方のお説教の中で、わたしはこう述べました。「あのお父さんは、舟を捨ててイエス様に付き従ったのだと思います」。
 あえて滅びる体をまとったイエス様も、死ぬほどに私たちを愛してくださったのではないでしょうか。

年賀状が届いて、これで年を越せます
 
 今年もはや十一月、気の早いところではクリスマスの飾りなどもちらほら見えるようになってきました。
 私の年末は、「年賀状を購入する」ことで完了いたします。毎年きちんと「○○酒店」から電話で注文を聞かれ、「□枚ください」と今年も返事をしました。こういうときに限って、私が電話を取ってしまうのはなぜでしょう?
 年賀状は、買ってしまえばいちおう完了です。年内にはどうせ書くことなど叶いません。気分的に、「今年も買ったぞ」と、それがあれば、いちおう納得するようです。変なものです。
 みなさんは、似たような経験はないでしょうか?つまり、用意をした、そのことでもう安心してしまうということです。学生時代、中間試験までの勉強のスケジュールを一覧表にして、もう勉強したかのように満足した経験はないでしょうか。
 今月は死者の月で、すでになくなった方々へ思いをはせる月です。また、自分たちもいつかはこの世を去る身であることを思い、この世にではなく、天に宝を積む何かを考えることも必要だと思います。
 ただし、私たちはそれでもなお生き続ける者です。来世の準備を考えただけでは、「計画表」を作っただけで終わったのと変わらない気がします。

中秋の名月 月見に限ります

 日本人には季節を愛(め)でるすばらしい習慣がありますが、月見て一杯というのは、それこそ日本人にしか分からないすばらしい感覚だと思います。
 調べてみると、旧暦の八月十五日の満月を「中秋の名月」と呼ぶそうで、今年は九月二十一日がそうでした。皆さんの家庭では、何かなさったのでしょうか。
 ある教会では、司祭を招待して月見をする集まりが開かれていました。司祭が招待されていると言っても、まずは自分たちが楽しむことがメインでして、奥さんに手伝いをさせて優雅に一杯いただくためには、それなりの「口実」が必要なわけです。「神父が来るから、何か料理を用意してくれんか」と、ご主人も言いやすいのかも知れません。もちろん本当のところは知りませんが。
 いちおうは月見会ですので、月が出ていれば「オー」と歓声が上がりますし、「月に誘われて」なんて言いながら歌ってみたりで、宴は進んでまいります。次第にお酒も進んでくると、教会で面と向かって言えないことを、ズバリ聞いてきたりするわけです。
 「なあ、神父さん、神父さんの説教はかたくるしかぞ」。そんならお前がやって見ろと言いたいところですが、聞いているといろいろためになるものです。
 皆さんもおひとついかが?

大司教様に叶えてもらいたかったこと

 大司教様、まずは、十二年間、お疲れさまでした。大司教様が一度「私は、悩みが全然ないんです。だから、こんなに元気なんです」と見栄をお張りになったときに、内心「本当は、悩みを打ち明けたいだろうになあ」と思いましたが、あれは私だけが思ったことではないと思います。
 大司教様には、大神学生の上級生になってから導いていただきました。次の年、「助祭叙階」を前にして、「大司教様、ぼくは外国に留学したいので、よろしくお願いいたします」とはっきり申し述べましたが、あのときは私の顔など、覚えていなかったのではないか、今になってそう思います。あとでもう一押ししておけば良かったと思う今日この頃です。
 滑石教会で、竹山主任神父様を失った当時の助任司祭だった私は、大司教様に面会して一言進言いたしました。あの時も、ちり紙に包んだような言い方をしたのでしたが、はっきり、具体的に言うべきだったのかも知れません。
 三年前に、大司教様と聖地巡礼に同行させていただきました。出発に当たって、またまた進言いたしましたが、さらっとかわされてしまいました。
 どれも、叶えてもらえなかったような気がしますので、天国で神様に取り次いで下さい。

被爆して司祭職をめざした先輩(2002年8月)

私がお仕えしたとある主任神父様は、長崎商業の学生だった時に(まだ神学生ではない)被爆し、命を拾ったのだと話してくださいました。8月9日のその日は、学校に集まって、何か作業をすることになっていたそうです。
 焼け野原となり、折り重なって倒れている人をたくさん見たと思います。詳しくは聞いていませんが、恐くてどうすることもできなかったのではないでしょうか?
 五島から長崎の学校に通うために大浦のお姉さんのところに下宿していたので、お姉さんの様子が心配で、きっと急いで大浦に戻ったことでしょう。この体験で、世の中で成功するために長崎商業に入ったのに、生きていて何の意味があるのだろうかとショックを受けました。
 そんな折り、大浦におられた浜口庄八神父様が、「君は、命拾いしたのだから、神学校に入ってみないか」と誘われたのだそうです。たくさんの同級生を失って生きる意味を探していたところでのお誘いでした。
 そして司祭となり、浦上教会の助任司祭として赴任したその先輩神父様は、幸運にも長崎商業時代の同級生と出会うのでした。「おー、おまえは○○じゃなかとか」「おー、おまえは○○か」「よー生きとったなあ」
 まさに九死に一生の体験だったのでした。

キング牧師の説教「私には夢がある」(2002年7月)

知らないかも知れませんが、この方はアメリカの「公民権運動」で命を捧げた牧師です。8月28日にワシントン広場で百万人の群衆を前に、黒人の権利を勝ち取るのだと熱弁をふるった時の演題です。
 40年前、アメリカではまだ黒人に対する差別がまかり通っていました。バスの乗車を拒否されるとか、トイレに「白人専用」と立て札を立てたりとか、選挙権がない、移動の自由がないなど、奴隷解放宣言が出されて百年以上過ぎているのに、考えられない差別待遇を受けていたのでした。
 キング牧師は、誰にでも分かる言葉を選んで、白人と同じ自由・権利を与えられるまで、私たちは満足しない、国民として当然の権利をもらうまでは、この暑い夏は涼しい秋に変わることはないと訴えかけたのでした。
 私の手元には、貴重な録音テープがあります。もちろん、直接録音してませんが、それでも当時の熱気と興奮は充分伝わってきます。鳴りやまない拍手や、「そうだそうだ」「いいぞー」などの合いの手が入る様子も、しっかり音を拾っています。
 説教は説教師の力量で生きたり死んだりするものです。自らの信仰とあわせて、考えさせられました。

「地道な活動を三つ」(2002年6月)

今月は一面記事にあまりそぐわない内容かも知れません。三つの活動を紹介してこのマス目を埋めたいと思います。
 一つは、神学生の養成に関係ある活動。「ソロモン友の会」と言いますが、高校を卒業した神学生を温かく見守るために立ち上げられた活動です。定期的に神学生からの便りがある模様。
 一つは、「ミッション友の会」と言って、佐世保に一つあるカトリック学校に通う中学生を援助する活動。
 今一つは、「シナピス会」と言って、フィリピンの貧しい子どもたちの学業を支援する活動。
 どれも、長崎教区が、カトリック教会を地域に証ししていく大きな働きを担っていると思うが、わたしの宣伝不足も手伝って、今ひとつ協力が得られているか疑問。
 そこで、今回紙面を借りて考えてもらえたらと思います。将来の子どもたち・司祭を育てるために、教区にまかせての支援ではなくて、「私が援助してあげたい」という形の、身近な援助をしてみてはいかがでしょうか?
 小さな支えではあっても、身近に感じる援助を一つ持つことで、「これは支援に回そうかしら」と、生活にきっと新しい風が吹くと思います。

2002年5月巻頭言

都合により、掲載いたしておりません。来月号をお楽しみに。

春を楽しみましょう

 春になりました。冬に、縮こまっていた生き物たちがようやく動き出す季節です。しばらくぶりに体を動かすものだから、なかなか思うように動いてくれないもので、いろんな形で現れます。
 たとえば、「あくび」。頭は「さあ始めるぞ」と思っているのですが、まだ体のほうはちゃんと目覚めておりません。
 それから、仕事もなかなかはかどりませんね。年度末の決算、収支が合わない。焦ってはみるけれども、思うほど頭の回転はついてきてくれません。
 そこで、わたしはこう腹を決めました。春は、体も頭も動き始め。だから思い通りいかない、うまくいかないのが普通なんだ。だったら、それを楽しもうと。ちょっとぼおっとしていてもいいじゃないですか、大事な場面で、リハーサルまで重ねたのに失敗しても、いいじゃないですか。そう、春はそんなもの。そう思うことにしました。
 今年の復活祭。綿密な打ち合わせをしたのに、思わぬハプニングが今年の復活祭を演出してくれました。記憶に残る。すばらしいじゃないですか。
 かつては、ちょっぴり神経質でした。でも考えてみれば、これも春のなせるワザ。どれだけリハーサル積んでも、春はこんなものなのです。そう思って、春を楽しみたいと思います。

3月17日で10年目に入ります

 皆さんにとって結婚十年目はどんな気持ちで迎えたのでしょうか?同じ職場で十年勤めると、どのような「仕事観」を持つようになるのでしょうか?
 私も、曲がり曲がって、曲がりなりにも十年目を迎えることとなりました。確かに歩き始めの頃には分からなかったことが分かってきましたし、経験したことから、「待てよ、この先はこうなるのではないか」という予測の立つ場面も出てきました。
 けれども相変わらず「ちっとも進歩しないなあ」とか、どうかすると「二歩進んで、三歩さがる」ような過ちを繰り返す弱さがあることも確かです。
 今年の叙階式直後の、小学生の教会学校で、召命についてこんな話をしました。
 「どんな人が神父様になると思う?すごーく頭のいい人?すごーく真面目な人?すごーく歌のうまい人?神父さんの考えではね、その、『すごーく』の付いていない、中くらいの人がなるみたいだよ」
 すごーく頭のいい同級生は、医学の道に進み、すごーく真面目な人は燃え尽きて、さほど歌えない人が残っちゃいました。
 思ったのですが、数字の10とは、1と、0「ゼロ」の組み合わせ、つまり、いったんゼロに立ち返れ、というサインなのかも知れません。

そよ風を全身で感じて

 今年は新年早々から駅伝、司祭団マラソンと怠けっぱなし、みなさんも「いつになったら走るんだろうか?」といぶかしがっていることでしょう。ご心配をかけております。ようやく「磯の香ロードレース」に向けて、重い腰を上げました。
 昨年の応援は、ずいぶん骨身に堪えました。「しんぷさまー、もううしろはおらんよー」あわてて振り返ったところ、「うしろを見る暇はなかばい」と追い打ちをかけられ、あおれしおれして走ったわけです。
 今も、走り出したとは言え、ドスンドスンという音が聞こえそうな、重たーい走りです。今年も走りに来ますよと言っておられる「S」神父様などは、新春にフルマラソンを走って、もちろん司祭団マラソンも走ったとか。比べられます。
 まあそれでも、走りながら風を感じるのは久しぶり、そして気持ちのいいものです。部屋にじっとしているよりも、よほど頭は冴えて、良いアイディアも浮かびそうな気がします。
 どんなに格好悪くても、やはり練習から始めて、成し遂げてみるものです。やれば出来るんだけどなあではいけません。今年はさらに後ろがいなくなっているかも知れませんが、完走しますので応援よろしく。

七の七十倍まで書き直して

 二〇〇二年が始まり、「初」何とかが目白押しの今日この頃。わたしの「初」は、三月十七日で叙階十年目に入ることにちなんで、「初心に帰る」ということにしました。
 これまでを振り返ってみて、このところ、私自身の中に「〜したつもり」が巣くってきて、努力の上にさらに努力する気持ちが薄れていたと思います。
 「お説教をしている『つもり』」。実際に説教台に立ち、そこで話した原稿と録音テープはインターネットに公開し、それはもう、「どうだ」という気持ちでした。ところがそれは、見る人から見れば「ちゃんとしている『つもり』」だったのです。
 そんな筈はない。多くの方に理解してもらっている。その「つもり」でした。ところが・・・
 「こういう言葉は、以前だったら使わなかったでしょう。それに替わる、もっとわかりやすい言葉を、それこそ見つかるまで探してくれていました・・・。
 だが今は違う。「『まあこれくらいは分かるだろう』と言って、楽をしようとしている。見えない所ならまだしも(それも良くはないが)、見え見えの所で手を抜き始めました」。
 これに類する指摘をたくさんいただき、身の引き締まる思いです。苦しんで突き抜けろ!

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