(編集後記)

2001年12月号

最近、無言電話がひんぱんに鳴る。教会目当てなのか、私に用事なのか▼無差別にかけているのかも知れないが、それにしても電話を受ける側は疲れる▼もし、イタズラでなく、必死な思い出の電話なら、せめて名前くらいは言ってほしい。無言で向き合う電話は気味が悪い▼先日も、夜中の三時に電話が鳴り、「もしもし」と言ったら切れた。電気をつけっぱなしにしていたのを教えてくれたのだろうか▼最近寝不足気味。電話の音にびくついている。早く落ち着いてほしい。

2001年11月号

十一月、死者の月を迎えた。「死者→お墓」ということで墓の思い出▼小学生の時のことなので、大目に見てほしい▼一つ目は、友達と墓所に行って肝試しをしたこと。近所に住む人が肝をつぶしたに違いない▼二つ目は、石塔を建てる手伝いをしたこと。石材店のおじさんから、法外なお小遣いをもらった。三つ目は墓掘りをする父を見に行ったこと▼葬式の後、掘った穴に、棺を入れ、周りの土を埋め戻した。どさっと、鈍い音がした。これは真剣に祈らねばと思った

2001年10月号

「当たる」と「当てる」は別物だ。宝くじに「当たる」ことはあっても、「当てる」ことはほとんど不可能。それでも人は買うわけだが▼どう違うのか。ここでは、「向こうからやって来る」ものと「自分から向かっていく」こととの違いと考えたい▼「向こうから」なら、待つことになる。心にゆとりがあれば、待つ楽しみにもつながる▼「向かっていく」場合、得てして追いかけすぎてしまい、かえって結果は良くない▼「当たる」前から「当て」にせず、楽しく待とう。「当たり前」か。

2001年9月号

好きなことをしている人に、ストレスのたまるはずはないが、誰もがそうはいかない▼本人たちから聞いたわけではないが、知らずにストレスを与えたかも知れない、と思う方々がおられる▼そもそも原因は、その方々にさあアラカブが釣れた、イトヨリが釣れたと、おすそ分けをしたからに違いない▼「いいなあ、神父様釣りに行けて」。心の健康のため、これはもう連れて行くしかない▼もしもその方々が、全員同じ服を着ていても、ビックリして気を失わないように。

2001年8月号

先月号でちらっと触れたが、三十五でラジオ体操のお兄さんはちと荷が重いと感じた▼中学生が、体操のお兄さんをしてくれたら、どんなに有り難いことだろう。そのためのニンジンが、ないこともない▼太田尾の子供だったら、片島に釣りに連れていく、間瀬の子供だったら、兜島近辺というのはどうだろう▼悔しいけれど、「からだ固い」と子供にやじられながら、体操していることは確かだ▼男女は問わない。釣りに目がない子供であれば、責任もってご案内します

2001年7月号

梅雨のうっとうしいさなか、一つひとつの祈りはていねいさを欠き、さっさと終わらせようと気も焦る▼子供のけいこの日のミサでは、子供は暑さでだれて、集中力も失せ、お説教も聞かない▼こちらは何とか一つでも学んで持ち帰ってもらおうと、もぞもぞする子供を前にますます話が長くなる。何という悪循環▼早く夏が来てほしいものだ。ラジオ体操に子供が来る日が待ち遠しい▼「ラジオ体操」の写真解説を見た。写真の通りにしたら、私の骨は折れる、と感じた

2001年6月号

血の出るような(実際出た)思いで、小型船舶四級免許を取った▼とは言っても、まだ免許は送されてはいないが付、気持ちはもう「釣りバカ日誌」の浜ちゃんか▼ひさしぶりに畑違いの勉強をして、緊張する中で試験を受けたが、今振り返ると「人命をあずかる船長」として、当然求められるあれこれだったと思う▼船でなくても命をあずかることはある。車などはそのいい例だ▼考えてみると、小教区民の命もあずかっているかも知れない。舵取りの大切さを感じた

2001年5月号 

御復活後、しばらくすると司祭の異動がある。佐世保地区でもお見送りとお出迎えをして、新しくなった▼転勤も生まれて初めてというときは思いも別だろうが、そのうちに計算高くなってくる▼今年の異動で、司祭団のソフトボールは、大幅な補強ができたぞとか、テニス仲間、釣り仲間が増えたぞとか▼伏魔殿のような計算はうごめいていないが、それぞれの思いを込めて「ようこそ」とごあいさつ▼自分自身は、「ああ、あいつが来た」と、言われないようにしたい

2001年4月号 

「北風と太陽」。これは、どちらがしっかりまとったコートを脱がせることができるかの物語だ▼たくさんの人が立ち寄るある場所で記帳のノートを置いたところ、驚くほどの方が書き込んでくださった▼ところが、ある特定の人が、猛烈に中傷する書き込みを続けた。「中傷する人は出て行きなさい」と注意をしても、収まらなかった▼結局、その人を温かく包む多くの人の言葉に促され、この非難はやんだ▼祈り。遠くからでも、とげとげしい人を穏やかにしてくれる薬

2001年3月号 

司祭生活と大きく切り出すほどのものでもないが、三月十七日が叙階を受けた日だから、まる九年になる▼こちらにお世話になって三年過ぎようとしている。3という数字は考えさせられる数字だ▼三年間の宣教、三日目の復活、三位一体の神、などなど。日本では三年寝太郎というものまである▼今からは、収穫のときと考えると、三年で蒔いた種は、どうなったのだろうか。あるものは三十倍になったのだろうか▼四月二十三日着任なので、まだ一ヶ月はあるけど。

2001年2月号 

三月八日から、黙想会が始まる。準備は進んでいない。そう考えると頭が痛い▼黙想会は何だろうか?神父のほうからこんな質問では身も蓋もない気もするが、疑問に思っている人も少なくないはず▼「少なくとも年に一度・・・」の掟を果たすのには、これはありがたい。だがそれだけでは、ちょっとさみしい気もする▼私は、「腰を据えて自分の信仰を考える」三日間と思っている。序論・本論・結論。三日間はあったほうがいい▼足を止めてこそ、沈思黙考できる

2001年1月号 

「忙しい」。私が選ぶ「前世紀を表す漢字」。当たっているのではないかと自画自賛▼ところが、ひさしぶりに漢和辞典を引いてみると、「忙」はもともと「忘」と同じらしく、忘れる原因となる「いそがしさ」というのが原意らしい▼お知らせの予定表や、手帳のカレンダーをいっぱいにする度に、「ただ忙しくしているだけではないか」との不安がよぎる▼その服は、あなたに似合っているか。その生活は、あなたに適当か?▼今年の目標。「モーレツ」ではなく「とことん」

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