召命の道・大神学院編(今年の小教区黙想会、オリジナルはこれだけです)

召命の道・大神学院(1)

(1)話の初めからこんなことを言って申し訳ないのですが、司祭職は結局のところ「人間が決めるものではない」と思います。家庭の話を昨日話しましたが、私の仮定だけが条件のそろった家庭などとは決して思っておりません。私は教会をそれぞれまわりながら、召し出しと関わりのあった家庭を見聞きしていますが、それぞれ、条件はそろっていたと思うのです。
(2)ではなぜ実際には誕生しなかったのか、家庭的に条件がそろっていたのであれば、あとは本人の問題でしょう。普通はそう考えます。ですが、私と同期の学生で、中学校一年生の時から一緒にいた高校三年生まで、一度も勉強・運動で負かすことのできなかった友だちがいます。優れている人を選ぶというのであれば、誰の目から見ても、もちろん神様の目から見ても、彼のほうが優れていたはずです。でも、彼は高校三年生で神学校を去り、いったんは上智大学英文科に合格しましたが、今はふるさとの役場で勤めていると聞いています。
(3)どうも、才能ばかりではないようです。結局は、「この人をわたしは使いたい」という神様の不思議な考えによるものなのでしょう。本人の才能をあれこれ言えば、私よりもいつも成績の良かった同級生が二人いました。音楽の才能に恵まれていた生徒もいました。けれども、必ず神様に使ってもらえるとは限りません。神様にしか分からないのですが、それでも持って生まれたものと司祭職への呼びかけとは無関係ではないと思いますので、私自身の大神学院生活を振り返りながら紹介したいと思います。
(4)実は現在の大神学院は、大学をすでに卒業した人、またはそれに準じる人を受け入れています。私たちの頃は高校を卒業後、試験を受けて入学を許されていました。今と私たちの頃とは仕組みが違いますが、私の知っている範囲のことを思い出しながら話してみたいと思います。
(5)福岡での神学校生活は八年間でしたが、最初の四年間を予科と言っていました。兵隊の、予科練と同じです。最初の予科の四年間に、ラテン語と哲学を学びます。それと同時に、慶応の通信教育を続けていくわけです。慶応の通信教育は教科書が送られてきて課題をレポートにまとめて出し、それが合格すると別に筆記試験を受けます。また、通信教育で学ぶ私たちも、昼間の学生が休んでいる夏の期間に、東京に行って実際の授業を受けました。夏に一ヶ月だけ通学するわけです。(つづく)

召命の道・大神学院(2)

(6)この予科生の間に、考えさせられることがいくつもありましたが、四つほど取り上げてみたいと思います。一つは、入学直後のことでした。学生と神学院の教授に奉仕するために、幼きイエズス会の修道院がありましたが、その中の一人のシスターが亡くなりました。ずっと病気療養中だったそうですが、そのシスターの葬儀は神学院の中で行われました。神学院の院長神父様が通夜と葬儀の司式をしたのですが、初めてわたしは、荘厳な葬儀の儀式だなあと思いました。そして同時に、私はこのような典礼をするために、ここに呼ばれたのだなあと感じたわけです。人が亡くなった時、その人を神様のもとへ送り届けるのは司祭しかいません。自分たちが司祭にならなければ、誰もこの務めを果たす人はいないのだと悟りました。
(7)二つ目は、最上級生のことです。大神学院の最上級生は、簡単に言うと司祭になる一年前の方々です。助祭という叙階の恵みをすでに受けている人たちでしたから、すでに聖職者であって学生でした。聖職者ですから、日曜日の聖体礼拝(ベネディクションと言います)を執り行い、学生が病気になって寝込めば御聖体を運んできました。私も二度ほど寝込んだことがありましたが、当時の助祭様が聖体を運んできてくれました。最上級生、学生でありながら聖職者という身分は、入学まもない私たちには本当に不思議なものでした。
(8)この助祭叙階の秘跡を受けた最上級生から、私はある時こんなことを言われたのです。「中田。これだけは言うとくけん。この大神学院では、上にあがるのも留まるのも、選ぶのは自分ぞ。辞めるのも続けるのも、自分次第やけん自分のことは自分でしっかりせんばぞ」。中学校高校では、学年が上がっていけば上級生になるのは当然だったし、卒業式が来れば中学校高校を自動的に卒業していました。
(9)言われたことは本当のことでした。ある先輩は四月の新学期になっても学年が上がっていません。聞いた話では単位が足りずに留年したのだということです。ですが、中学高校時代にはそんなことは考えられませんでしたので、本当に不思議な体験でした。留年して、私と同級生になった先輩がいました。その人の心の中は分かりませんが、私たちはいつまでもその人を「〜さん」をつけて呼びました。
(10)下級生といっしょに机を並べ、もう一度同じ時間同じことをやらされる気持ちはどんなものでしょうか(つづく)

召命の道・大神学院(3)

もしも私がそういう立場だったら、私はたまらなくなって、結局神学院を辞めていたかも知れません。また、家庭の事情や、自分の気持ちを整理するために休学する生徒もいました。神学院はたとえば三年生で休学しても戻ってきた時にすぐ四年生になれるとは限りません。年は上になって戻ってきますが、ずいぶん下の子と同学年になって続ける先輩もいました。それを見ていると、この道を全うするためには、相当の覚悟が必要だなあと思ったものです。下級生と同じように暮らすことも、かつては同級生だった人に先輩として接することも承知の上で、道を選んでいくのだと思いました。残念ながら、私は休学も留年もしませんでした。彼らの複雑な気持ちも、十分には分からないと思います。
(11)三つ目は、私が三年生の時のことです。哲学を習い始めていました。そのころ、ふるさとで病床にあった父方の祖母が亡くなりました。私は祖父母四人のうち三人まで通夜と葬式に立ち会いましたが、大神学院にいる頃に立ち会った父方の祖母の時に、神学生だからということで告別式の途中弔電を読み上げてほしいと頼まれました。ビックリしましたが、やはり、学生とはいっても神学生がどんなふうに見られているかがよく分かりました。私よりも近い兄弟親戚がいるのに、私に大役が回ってきました。大切な場面で、頼られる立場にあること、頼りたい人が必要だとよく分かりました。
(12)祖母とのお別れの中でもう一つ考えたことがあります。あとになって気が付いたことですが、私はこの時代、大神学院に行って最初の迷いの中にいたのです。あとでもう一度決心が揺らいだことがありますが、神様は巧みに人生の出来事を使って道を外れないように導いておられるのだなあと思いました。ふらふらしている時に、祖母の出来事をぶつけて「あなたがどうするか決めなさい、あなたが選びなさい」と仰っていたのだと思います。
(13)四つ目は、慶応の通信教育の一環、東京での一ヶ月の通学期間中に起こった事件です。およそ二十年前に起こった大事故、それは坂本九さんが乗った飛行機が墜落した「日航機墜落事故」です。私たちはその日、学業のあいだの中休みの期間で、「つくば博覧会」に出かけていました。帰りのニュースで「飛行機が墜落したらしい」と言うことは聞いていましたが、まさかあれほどの大事故になっているとは知りませんでした。(つづく)

召命の道・大神学院(4)

(14)同じ日、五島のとある海水浴場でも、一人の神父様が命を賭けて溺れた子どもを助けて海の犠牲になりました。これも、神学生である私たちには大事件でした。私たちは若いその神父様が犠牲になったことを翌日の朝のミサで聞きました。東京への通学のため、一ヶ月間は大久保という所にあるカトリックの学生寮を借りるのですが、いっしょに神学院の神父様も学生寮に留まって暮らしました。その年に一緒に暮らした神父様は、高見神父様、現在の高見大司教様です。
(15)高見神父様は次のように朝ミサの説教で話しました。「昨日、二つの事件が起こりました。一つはみなさんもニュースを聞いているかも知れませんが、日航機墜落の事故です。もう一つは、まだ知らされていないかも知れませんが、五島に教会学校のこどものキャンプで同行した神父様が、溺れた子どもを助けようとして犠牲になってしまいました。日航機の事故は確かに大変な事故です。ですが、私は、一人の司祭が犠牲になったことは、ある意味で日航機の事故に引けを取らない大きな犠牲だったと思っています」。
(16)たしか、当時の高見神父様はこのように仰ったのです。私は一人の神父様が海の犠牲になったこともショックでしたが、一人の神父様を失うことが、飛行機の墜落事故と変わらないくらい大きな犠牲だったという捉え方にも、大きな衝撃を受けたのでした。そんなに、一人の司祭の命は重いのだということを言いたかったのでしょう。私たちは、まだ大学生気分が抜けない神学生でしたので、あの短い説教で目が覚めた思いでした。一人の司祭が誕生すること、一人の司祭を失うことの重さを、つくづく考えさせられた出来事でした。
(17)私は、福岡の神学院での予科生の時代、つまり八年間のうちの最初の四年間に、明らかにのんきな気持ちで毎日を過ごしていました。ですがその中でも神様は、気のゆるみそうになる十八から二十二三までのいわゆる大学生の期間を、いくらか自由に泳がせながら、それでも手綱をしっかり握って、導いてくださっていたのだと思います。
(18)ある意味で、中学高校時代よりも軽はずみなことを実行してしまう時代です。中学高校の時代は親の目を気にして、学校を退学するとかそうそう簡単にはできませんが、大学生になるとそんなこともどこ吹く風です。(つづく)

召命の道・大神学院(5)

「辞めちゃおうかなあ」というような軽はずみな行動を戒めるために、いくつかの出来事を織り交ぜてくださっていたのだと今になって思いました。
(19)福岡の八年間は、予科生のはじめの四年間と本科生として神学を学ぶ後半の四年間では「まったく違う」と言ってもよいほど違いがあります。まず、服装が変わります。予科生の四年間はつねに背広を着るのですが、本科生になるとスータンを身につけます。少なくとも、格好だけは神父様と同じ格好になるのです。
(20)本科生になってすぐに、スータンの着衣式を準備します。これからの四年間は、言ってみれば自由にさせてもらった今までの四年間におさらばして、イエス様について行く、人の救いのために自分の生涯を明け渡すための学びが始まることになります。そして、覚悟をある程度決めたところから、本当の意味で迷いが生じてくるのだと思います。私の中での、福岡での八年間におとずれた、二度目のためらいの時期です。
(21)福岡の八年間の時代に、最初に訪れたためらいの時期は、「なりたくないなあ」という気持ちから生まれたためらいでした。ほとんど、それは身勝手から生まれたものですが、けれどもそんなつまらないことで辞めてしまう人であっても、やはり自分で決めたことです。福岡まで行った人は、誰に対しても言い訳はできません。自分がしっかり考えて、自分で決めたことです。責任も自分だと思います。
(22)ですが、後半の時期、スータンを着用してから訪れる迷いは、これまでとはまったく違った迷いだと思います。それは、「このまま留まってもよいのだろうか」という迷いです。もしかしたら、このままのほほんと留まっていれば、司祭になってしまうかも知れませんが、はたして自分がこの使命を引き受けても良いものだろうか?最後の四年間はこのような思いで心が揺れるのです。
(23)誰も、「このままでいいよ」とも、「このままじゃいけない」とも言ってくれません。神学生を指導するために、一人ひとりに指導司祭(スポーツで言えば専任のコーチ)がついているのですが、指導司祭の判断で問題がなければ、一歩ずつ階段を上っていくことになるのです。(つづく)

召命の道・大神学院(6)

指導司祭も本人の心の中までは知りませんから、指導司祭の目で見て、本人が希望すればそれは司祭への階段を確実に昇っていくわけです。「本当はまだ準備ができていないのだけれども」とか、「私は怖い」と思っていても、それを口に出して、自分で階段を降りなければ、レールの上を進む列車は止まらないのです。
(24)たくさんのスータンを来た先輩たちが、神学院の聖堂の中で跪いている姿を見ました。決められた祈りの時間ではありません。それはおそらく、自分との闘いの姿だったのだと思います。「私はスータンを身につけても、それでもこのまま道を進んでよいのだろうか。私は身を引くべきふさわしくない人間なのではなかろうか」。かつてのなりたくないから逃れたいというためらいではありません。司祭になりたい人が、ためらって跪いて戦っているわけです。
(25)私自身も、同じ体験をしました。私は幸いに、自分の中でためらいの原因になることが少なくとも一つは分かっていましたので、それは指導司祭にも相談しました。こういった弱さを抱えたままでたとえば司祭になったとして、それでも大丈夫なのでしょうか。正直に指導司祭に指導を仰ぎました。私が気にかけていた問題は、指導司祭といっしょに半年間取り組みました。その時の体験は、今でも大きな支えとなっています。学業や信心業、また日曜日の教会での実習をこなした上で半年間向き合った体験は、本当に得難い体験となりました。
(26)ただし、これから話すことはもう十年以上経ったので時効になっているものとして話すのですが、自分みたいなものが司祭になっていいのかなあと真剣に考える時間も半年はありましたが、後半四年間のうち半年ということでして、あとの三年半は、けっこうに楽しませてもらいました。勉強に楽についていける頭を授かっていたことが、却って災いになっていたかも知れません。
(27)福岡の神学院でも成績に順位が付きましたが、それは各学年ごとに付く成績ではありません。たとえば本科の神学科では、神学科の四学年(つまり最上級生の助祭のことですが)までがひとまとめになって成績が付きます。だいたい二十名ほどいる神学科生の中で、私はいつも四番から六番、学年が上がっていくとさらに成績が上がって、神学科の二年・三年生の時は最上級生を追い越して成績は一番とか二番になっていました。(ほ〜んとですって。見せましょう)(つづく)

召命の道・大神学院(7)

(28)これが、災いのもとでした。死ぬほど勉強する必要がなかったので、「適当に勉強して暮らす生活」を繰り返してしまったんです。学校の勉強が手を抜いても間に合うのなら、もっとそれ以外の高度な勉強をすればよかったではないかと言われるかも知れませんが、実際はそういう気にもなれないんですね。神学院に残って教授にならないかというお誘いを五人の方から頂きましたが、私は教会に早く戻りたかったし、学校の授業以上に山ほど勉強しても、一体それをどこで発揮するの?と思うと、どうしてもその気になれませんでした。
(29)今考えると、間違いだったと思います。少なくとも、自分が特に興味を持っていることは、もっと外国の本を引っ張り出して、深めておくべきでした。今となっては、一つのことをいつまでも勉強し続けるなんてことは許してもらえません。つくづく、学生の時に無駄にした時間が悔やまれます。
(30)時間を持て余したついでの過ちをもう一つ話して皆さんに赦しを願いたいと思います。寮生活は規則を守って成り立つものですが、私は何度か博多ラーメンを食べに行くために、夕食が済んでもう一度腹が減るのを待って、外に抜け出して食べに行きました。福大の近くですから、大学生を相手にした手頃な値段の店がありました。
(31)むこうでは博多ラーメンのことを長浜ラーメンと呼んでおりましたが、神学院の塀を乗り越えてそのラーメンを食べてきて、帰ってきて裏のゴミ焼き場へ通じるドアから戻ってくるという手口だったのですが、あー美味しかったと裏のドアを開けて中に入ったら、カナダ人の教授がそこに突っ立っているじゃありませんか。教授は視力が悪い人だったので、夜階段を上り下りする時に必ず小さな懐中電気を持って歩く人でした。その懐中電気を当てられて、彼は私にこう言います。「ナカダサン。コンナジカンニドコヘイッテタノデスカ?」
(32)「まずいなあ。よりによっていちばん見つかっちゃいけない人に見つかったよ・・・」ヘタに頭が切れる人間は、こんな時にはさらに回転が速いものです。とっさに私はこう言ったのです。「神父様。ゴミを捨ててきました。そして、今帰ってきました」。(つづく)

召命の道・大神学院(8)

(33)だいたい夜の十時過ぎに、ゴミを捨てに行くバカな奴なんてどこにもいません。ところが、これを聞いたカナダ人の教授は、ニコッと笑ってこう言ったんです。「タイヘンリッパデス。コレカラモソノココロ、ワスレナイデクダサイ」。翌日の教授会議で私は優秀な生徒として取り上げられたのだそうです。「ナカダサンハリッパデス。ガクセイガダレモイカナイジカンニ、ヒトリデゴミヲステルタメニデカケタノデス」。ああカナダ人教授、あなたが人間で良かった。神様だったら、あの時とっくに首を切られるか、切腹させられていたことでしょう。
(34)余裕はある時油断を生みます。私は学生時代に一度、人身事故を起こしたことがあります。二ヶ月以上ある夏休み期間中に、借り物の車で五島を走っていたときのことです。当時まだスータンを着て間もない時期でした。
(35)細かい様子は省きますが、「あっ」と思ったときには車は前の車にめり込んでいきました。ガシャンという音を立てて、車と車がくっつく様子は、いまでもはっきり覚えています。相手の方も首が痛いということで病院にかかり、事故は人身事故となってしまいました。
(36)目の前が真っ暗になると言うのは、ああいうことを言うのだなあと思いました。あと三年ほどで神父になるところでしたが、これで私の将来は閉ざされたなあ、と思ったわけです。私一人では謝りきれない事故でしたので、父親に伴われて誠心誠意謝り、償いをしたのですが、気持ちとしては糸の切れた凧のようでした。
(37)その後、福江の裁判所に出頭し、免許停止三ヶ月でしたか、はっきり覚えませんが言い渡されて、大神学校に戻ってから福岡の教習所で講習会に参加したりもしました。これからどうしよう?何か仕事を見つけないといけないのだろうか、いろいろ思っていたのですが、あとで聞いた話、被害に遭われた方はけがも無事に快復したあとで、私が神父になろうと目指している学生だと知って、続けて頑張ってくださいと父親に伝えてくれたのだそうです。
(38)心から感謝しました。かなり落ち込んで、暗闇の体験をしたのですが、振り返ってこういうことを思いました。いっさいのものを取り上げてもなお、あなたはわたしについて来てくれるか。あなたの評判もすべて失っても、司祭への道を歩き続けるか。この点を私はイエス様から試されたのだと思いました。(つづく)

召命の道・大神学院(9)

(39)誰も助けることのできない状況でした。私の責任で引き起こした事故ですから、どう処罰され、将来を断たれても何も言えない身分だったのですが、イエス様は最後まで見捨てることなく、あなたのおごり高ぶりを打ち壊した。あなたの評判をいったん取り上げた。それでもわたしについて来てくれるかと問いかけたのだと思います。
(40)誰にも助けてもらえそうにない中で、幸いにイエス様に憐れみをかけてもらい、今に至っています。私は、信仰と結びつけて、確かにこれは神様が働いてくれなければよい方向には変わらなかったと感じています。「お前は自分の才能や力でわたしについてくるのではない」いったんすべてを取り上げられるような体験をして、つくづく自分に頼るのではなくて、神様が選んでくれるなら、使ってくださいという気持ちに正直に生きる必要があると思いました。
(41)司祭になりたくないからこの場を逃げたい。それは、はじめの頃の迷いです。本当に迷うのは、なりたいと思ってからだと思います。なりたいと思えば思うほど、己(おのれ)に信頼しないようにイエス様は試練を用意しているのだと感じます。
(42)たとえばそれは、自分の欠点が嫌になって、こんな自分でよいのだろうかという迷いになったり、楽に生き過ぎている私のような者には、持ち物すべてを取り上げてみて、それでもついて来るかと問いかけ、迷いを断ち切るように迫るのでしょう。結局、仮定の条件がそろって送り出された一人の神学生も、自分に頼らず全面的に神に信頼するかというテストを合格して初めて、神様に使ってもらえるということだと思います。
(43)まあそれにしても、司祭になってみると、神学校で習わなかったことが多すぎます。神学校では家の建て方なんて一回も習いませんでした。それから、その教会がいくらかのお金を生み出していくために絵はがきを作るとか、そういうことは誰も教えてくれませんでした。あまりにも習ってないことが多いので、私は司祭の二十五周年に母校に呼ばれたら、ちょっと釘を刺してこようと思っています。
(44)ついでですが、四年前、司祭の十周年を迎えたということで母校から呼び出しを喰らって、私はありのままの姿を話しました。(つづく)

召命の道・大神学院(10)

(つづく)日曜日のミサで実際に起こったことなのですが、聖書の二番目の朗読者が、うっかり私が読む福音の箇所を読み始めたのです。「ヨハネによる福音。イエスは弟子たちにこう言われた・・・」という調子です。
(45)もしも私が新米の司祭であったら、飛んでいって声を荒げたことでしょう。「一体どこを読んでいるのですか。頼まれた箇所はここでしょうが。しっかりしてください」。いかにも新米の言いそうなことですよね。一所懸命さは伝わります。
(46)でも五年くらい過ぎてからだと、扱い方が手慣れてきてこんなふうに言って促すかも知れません。「あ〜、おじさんご免ばって・・・。読む所の違うとさね。おじさんここば読み直してくれんかなあ」。おじさんも納得して、気持ちよく読み直してくれるでしょう。少し、大人のやり方になりました。
(47)そして十年目にはどんなふうに振る舞ったか。実際に起こったのは十年たったその年に起こったことだったのですが、私は自分では動きませんでした。きっと典礼係が気が付いて、そこじゃなくてここよと言いに行くに違いない。あるいは少なくとも、シスターたちが足を運んで、「間違えてますよ。ここですよ」と言いに行くに違いない。
(48)そう思いながら、「このおじさんは一体いつまで読み続けるやろうか。いやあ、それにしても堂々とした読みっぷりよねぇ。司祭が読む箇所を、あそこまで堂々と読めば、たいしたもんばい」と思っていたのですが、とうとうだあれも出て行って注意する者もなく、読み終えたそのお父さんは、「主のみことば」と言って結んだのです。そして、会衆は「キリストに賛美」と、すま〜して答えました。十年も経つと、間違いも楽しみに変えてしまう。古だぬきの予備軍みたいなものだと思います。
(49)ちょっと話が逸れてしまいましたが、大神学院の八年間は、神学生が司祭になるために絶対に必要な期間です。私は、八年間の間に、いったんすべてを取り上げられる経験をしました。それでも、神様は使おうというお考えがあったのだと思います。
(50)そうして、有り難いことに神様に使ってもらっていると思っていますので、神様が私を選んでくれたお返しだと思えば、どんな苦労も苦労ではありません。今年はこちらにお世話になって二年目が始まります。これからは、思うことをどんどん形にしていきたいと思いますので、これからもよろしくお願いします。

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