聖体の秘跡に、宣教への熱意を願い求める

今年の聖木曜日の典礼は、印象に残る主の晩さんのミサとなりました。これからの数日間、説教、説教、また説教の連続ではありますが、その開始に当たる聖木曜日は、新鮮な思いを持つことができました。福音は、ヨハネ福音書の十三章、最後の晩餐と洗足式の場面です。
イエス様は、夕食の席に着いてから、「食事の席から立ち上がって」弟子たちの足を洗い始めます。驚いている弟子たちに最後に言い聞かせた言葉は、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」というものでした。
ここでは「聖体の秘跡に、宣教への熱意を願い求める」というテーマに入っていくきっかけとして紹介しているのですが、イエス様はこの最後の晩餐の日に、一方で「聖体の秘跡」を残してくださり、他方で「互いに足を洗い合う」という兄弟愛の模範も残してくださいました。
繰り返しになりますが、イエス様が弟子たちの足を洗ってくださったのは、食事の最中、席を立たれてのことでした。これは、兄弟愛の大切さを強調するひとつのしるしではないでしょうか。聖体の秘跡を残してくださった、あの最後の晩餐の席は、同時に兄弟愛の模範を残してくださった席でもあると言ってよいでしょう。
ここまでは、毎年聖木曜日の説教の中で触れてきたのですが、今回「おや」と思ったのは、最後の晩餐の席が、言ってみれば聖体祭儀に当てはまるとすれば、その中で奉仕しておられるイエス様は、「司祭」として奉仕しておられるのではないか、ということです。
司祭として振る舞っておられるのであれば、その動作の一つひとつを引き継ぐ者は、やはり、イエス様の司祭職のある部分を引き受けていると言うことになります。聖体の秘跡に直接たずさわるのは、叙階の秘跡を受けた司祭であるとしても、「互いに足を洗い合う」という兄弟愛の行いは、これは洗礼を受けたすべての人が、キリストの司祭職を受け継いでいくひとつの道ではないでしょうか。
そうしてみると、私たち一人ひとりが、「キリストの司祭職」をもう少し具体的に意識することが、聖体の秘跡から宣教への熱意をいただくための大切な心構えとなるのでしょう。それは、こうして記事を書く自分を先頭に、「要理教師の友」を読んでおられる教師先生みな、であります。
誰彼と言わず、自分自身の反省から入りたいと思いますが、たとえば聖木曜日の洗足式の典礼の中で、司祭はあらかじめ選ばれた数名の男性信徒の足を洗うわけですが、何とも親方日の丸で、当時のイエス様の模範とはほど遠い、そう感じないではいられません。
と言うのは、こちらとしては特別な意識はないつもりですが、信徒のみなさんには特別な意識を持たせてしまっているのかも知れません。侍者の人数の関係で、大人の方に洗足式を手伝ってもらったところ、その方は洗う相手の足をしっかり手で押さえ、洗面器からちょっともずれないようにと、一生懸命手伝っておられました。選ばれた信徒のかたは信徒のかたで、順番が回ってくると、さっと足を差し出し、終わるとさっと引っ込めます。
別段悪いことでもなく、大変立派な気配りなのかも知れませんが、やはり私の意識の中では、「うーん、当時のイエス様の洗足式は、こんなではなかっただろうになぁ」と感じてしまうのです。司祭は「仕えられるためではなく、仕えるために」いるとは言うけれども、このあたりから何かが違うんだなあと、心の中でつぶやいてしまうのです。
いわゆる「職責」で宣教「らしきこと」をしている。こうした「すり替え」が、もしかしたらここかしこに潜んでいるのかも知れません。洗礼のお恵みに何人かの人がたどり着いても、将来を誓う二人が、よき準備をして神の前に結婚の誓いを果たしても、それは、相談があったからそうしたに過ぎないのではないか。何度も何度も気持ちを新たにして、キリストの霊に動かされて、恵みの仲介をしてきたと言えるだろうか。
こうした反省に立って、キリストに動かされて動く司祭・修道者・信徒がひとりでも多くなれば、宣教の実りは真に価値あるものとなるでしょう。真の宣教者を駆り立てるのは、「職責」ではなくて、「キリストへの愛」以外にないはずです。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」(2コリント5:14)。
さて、「キリストへの愛」とは言ったものの、その思いをどこでどのように育てていったらよいのでしょうか。宣教の第一線に立つキリスト者が、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14:8)と、きっぱり言い切るために、自分を育てる「場」はどこにあるのでしょうか。
やはりそれは、聖体拝領、聖体に養われることにつきるのではないかと思います。過去二千年のキリスト教の歴史の中で、「キリストに出会って宣教者となった」人々は、数えるほどしかいません。むしろ、今日までの宣教者の大半は、生身のキリストを見たことがないのです。「キリストと寝食を共にした」使徒を見たことさえないのです。
けれども、教会はさらにすそ野を広げ、キリスト者は数を増し、たえることなく礼拝は続けられています。見たことのない人が、いっさい捨てて宣教活動に身を捧げてきたのは、ほかならない、聖体に養われて宣教に向かった先輩たちがいたからではないでしょうか。
使徒たちは初期の迫害のさなかで、迫害者に次のように答えています。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4:20)。同じ言葉を私たちが宣教者となって語るなら、宣教活動に障害となることが何かあるでしょうか。おそらく何もないと思います。だったら、その通りに語れば良いではないですか。
ほとんどの司祭は、朝一番に聖体祭儀を挙行します。「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)」。また、「キリストのおんからだ」と示して聖体を授けます。そのまま、文字通りに生活を整えていく。「それはそれ、これはこれ」なんて綺麗事はもうこのさい言わないでおきましょう。今目の前で、「キリストのおんからだ」を見たのですから。
ほとんどの修道者は、朝一番に聖体祭儀に与ることでしょう。また、ミサの終わりに「今日一日をすべておささげいたします」というような奉献の祈りも唱えるかも知れません。そのまま、見たこと聞いたことを話す唇を保ち続ける。そうすれば、宣教の妨げとなっているいちばんの原因は、取り払われることでしょう。
毎日、ミサ聖祭に参加する信徒の方もおられることと思います。そう言った方々が、起きている時間の大半を過ごす場所で(それは職場かも知れない、家庭を中心とした地域社会かも知れない、退職後の趣味の場所かも知れない)聖体をいただいて私は一日が始まった。明日もまた、聖体をいただいて一日が始まる。そういったことを、自分なりの表現で持っていたら、「キリストのおんからだ」を見た宣教者なのではないでしょうか。
目の前に、話す相手がいるなら、それは神に感謝すべきです。洗礼を望んで司祭を尋ねる人、結婚の準備に訪れるカップル、聖書勉強会、教会学校の子供たち。なおさらに、彼らを前にして、「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と考えているなら、これ以上望むべくもありません。こうした宣教者が、「聖体に養われ、宣教に駆り立てられた宣教者」と言えるでしょう。
ある人は、チャンスを得てさまざまな違った場所に立つこともあると思います。子供を預けに来るたくさんの保護者との出会い、生徒の保護者と接する先生、地域活動として七五三やクリスマス、敬老会などに顔を出すとき、聖体に養われた宣教者として自分が見たものに参加者を触れさせる。これまた大きなチャンスです。
私が言いたいことを格好良く言えば、「聖体に生かされている自分」を生きると言うことです。同じ志の宣教者が一人でも二人でも増えれば、実際問題これほど力強い集まりは、そうそうないのではないでしょうか。
「パンの形色のうちにまことにましますかくれたもう天主」のために、相当の学識を積んだ者が、相当のキャリアで鳴らした者が、あるいは、人生のほとんどすべてをささげてきた者が、確かにいるわけですから、これは大きな力と言えるでしょう。彼らが、日々聖体を拝領し、あるいは聖体の前に自分を置き、語るべきときに、「今のわたしを作り上げている聖体のキリストは、何を望んでおられるか」と、耳を傾けつつ語るなら、「この人は、見えるものではなく、見えないものを見て話している」と、感嘆し、心を開くことでしょう。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(2コリント4:18)。私たちはパンの形色を拝んでいるわけではありませんが、あの聖体のキリストに確かに養われています。ただし、生きているかと言うことは、また一人ひとりが考えるべきことです。「それでいいのか」「そのままでいいのか」など、各人が日々問い直すべきことは残されます。
ただ、さんざん大層なことを話している私も、机に座っている時間と、聖体の前に跪いている時間を考えると、はるかに机に座ってキーボードを叩いている時間が多いので、説得力に欠ける面は否めません。ただ、机で頭をひねったことを、確信を持って小教区の今年の行事に組み入れよう、大胆に言葉に出して実行してみようと決心するのは、幸いに聖櫃の前です。
まとまらないアイディアを一本の線に結びあわせてくださるのも、最終的にどう表現すればよいのかひらめくのも、幸いに跪いているときなのです。これは、つたない私の体験として、はっきりみなさんにお伝えできます。私にとって、「見たこと聞いたことを、話さないではいられない」とすれば、最終的に行動に移させてくださるのは、しばしば聖体にとどまっておられるキリストであるとの、この一点かも知れません。
聖体祭儀をより豊かにするために、み言葉に私たちがどのように触れていくかも心に留めておきましょう。聖体拝領によって、私たちはキリストのおんからだのすべてをいただくわけですが、悲しいかな、み言葉の食卓からは、ほんの僅かずつしかいただきません。
手前味噌で申し訳ないのですが、太田尾小教区では、今年度に二回、聖書通読リレーを企画・実行いたします。祭壇の食卓をさらに深めるためにも、み言葉の食卓からすべてをいただく方法はないものかと、いろいろ探っていましたが、日本聖書協会発行の録音CD(続編のページは自分で録音)を使い、一日2時間、65日で旧約(続編を含む)・新約聖書のすべてを読み上げるというものです。
一回目は、2月13日から、復活祭直前まで行われ、延べ1071名で完全に通読いたしました。その、具体的な内容は、ホームページ(www3.justnet.ne.jp/〜renakoji/WELCOME.HTM)に紹介してあります。ぜひ、お読みいただければと思います。(近くにインターネットの利用できる環境のない方々は、長崎は葉山にあるPCINマツハヤ、佐世保も競輪場近くのPCINマツハヤにお出かけになってください。インターネットを実演しております。そこで、先の「呪文」を店員に見せて、「ここを開いていただけますか」と尋ねることです。あとはご自分で探索できます)。
全体の文章に直接関わることではありませんが、いいかげんにそろそろ、情報の公開・共有のため、インターネットを活用できないものかと思います。「聖体に養われた宣教者」のひとつのすそ野として、この分野に一肌脱いでくださる司祭・修道者・信徒を、私は熱望する一人です。
最後の晩さんに残してくださった、聖体と隣人愛。特に隣人愛に結びつけて私たちにできることは、無数にあります。司祭であるキリストが、残したいことはあってもその中で二つ残された、聖体と隣人愛。聖体によってキリストの愛に駆り立てられ、私にできる隣人愛を、値なしに差し出す。原点に帰って、今年の二千年を過ごしたいものです。

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