第四回:できる人は、受け入れなさい

(以下、聖書の引用は、日本聖書協会「新共同訳」より)

みなさんの目の前で説教している中田神父は、今から六年前、1992年3月17日に司祭に叙階され、五年間浦上にいて、昨年四月に滑石へ移り、約一年お世話になって、今現在に至っています。司祭叙階までの道のり、と言ったら大げさですが、この時間を使って、司祭召命と家庭ということについて、わたしなりに話してみたいと思います。

ここでお話しするのは、わたしが司祭になった頃のことです。これからの神学生は、基本的に長崎大学を卒業することが条件になっていきます。期間も二年間のびるようです。

さて教区司祭と言われるわたしたちは、だいたい長崎の小神学校(今のカトリック神学院)に入学して、中学・高校の教育を南山で受けながら、司祭職への道を歩き始めます。まだこの時点では、ほとんど海の物とも、山の物ともつきませんが、それなりに、司祭職へのあこがれを、自分の目標としてしっかり眼前に置くようになります。

「神学校に行くくらいだから、やっぱり小学生時代、よほど見込みのある子どもだったのでしょう。」おそらく、何かの素質があったわけですが、実際どういう子どもだったのか、思い出すことを並べてみたいと思います。

わたしが、ぼんやりとでも神父様へのあこがれを持つようになったのは、家庭での母親の声かけだったと思います。何年生の頃か知りませんが、わたしはいつも、寝る前に母親から神父様のすばらしさを枕元で聞かされ、それを子守歌のようにして床に就いていました。

「神父様は、すばらしい仕事だよ。神父様がパンに言葉をかけると、イエズス様になるんだよ。また明日、ミサに行こうね。」だいたいこんな調子だったと思います。わたしが寝付くまで、この繰り返しですから、わたしはオウム真理教の信者みたいに、徹底的に洗脳されていたわけです。もうちょっと、「お医者さんはすばらしい仕事だよ」とか、「大工さんはすばらしい仕事だよ」とか言ってくれれば、自分にも選択の余地があったのでしょうが、これではほかに選びようがありません。

そうした声かけは、本当のところ、効果があったのかどうか分かりません。けれども、次第にわたしはミサ仕えをするようになり、近くで神父様が着替える様子や、祭壇の様子を見ることになります。徐々に、神父様が身近に感じられるようになりました。

わたしが侍者をしていた頃の神父様は、わたしが日曜日に着ているカズラという祭服を毎日着ておりまして、何枚も上に重ね着していくのですが、途中でチングルムという紐を腰に巻きます。その紐は、必ずいちばん先輩の侍者が手に持って、神父様が後ろに手を回したときに、さっと手渡すのでした。

わたしは、これがすごくかっこよくて、早く先輩みたいに紐を持って、神父様に手渡せるようになったらいいなぁと思っていました。いざ、その時が来て、手渡したときの気持ちは、今もしっかり覚えています。こんな小さなことが、次第に憧れとなっていったのかも知れません。

すぐに暗示にかかるのも、道を選ぶきっかけになっていきます。六年生になり、わりと体も大きくなると、今まで着ていた赤いベベのついた侍者服が入らなくなり、中学生の先輩が着ていた黒い侍者服を着せられました。ちょっと言うと、スータンにスルプリを着た、わたしが今説教をしている格好の服です。

この服を初めて身につけ、ミサが終わったときに、片付けに来たシスターから、思いがけないことを言われました。「こうじ君、この黒い侍者服を着た人はね、神父様にならんばいかんとよ。」シスターは何の気なしに言ったのでしょうが、わたしは、それを真に受けまして、「あー、神父様にならんばいかんごとなった」と思い込んだわけです。

今考えれば、黒い服を着て小学生の指導をしていた中学生のお兄ちゃんは、一人も神学校に行ってなかったのですから、わたしが黒を着たからと言って、神学校に行く理由はどこにもなかったわけですが、わたしはいつの間にか、行かなければならなくなったと思ったのです。暗示と言えば、母親の暗示もそうです。すばらしい仕事は、ほかにもいっぱいあったのです。なのに、すぐに暗示に引っかかったのです。考えれば、わたしも相当単純な子どもでした。

六年生の夏に、神学校の神父様と、大分の平山司教様が、相次いで神学生募集のために来られました。平山司教様は、指に立派な指輪をして、腰に赤い帯をしています。「神学校に行きませんか」と言われて、わたしは蛇ににらまれた蛙のようになっていました。

するとすぐに、主任神父様が、「ダメダメ。この子は長崎教区にやるつもりですから」と言っていたのを覚えています。当時は、長崎教区とか、大分教区とか、そんなものは全然分かりませんから、指輪に惹かれて行きかけていたのです。

しばらくして、長崎の小神学校の校長神父様が「神学校に来なさい」と声をかけてくれました。今、相ノ浦教会にいる浜崎渡神父様です。浜崎校長神父様は、指輪はもちろんありませんが、別のものを持っていました。現ナマです。現金をわたしに握らせて、「これで、文房具でも買いなさい」と、当時の五百円札をくれたんです。

これには参りました。イチコロです。指輪にはつられそうになりましたが、五百円には最初からつられていました。要するに買収です。たった五百円の賄賂で、人生を買収されたわけです。安いもんです。神学生養成のためには、一人あたり何千万と、最終的にはかかりますが、わたしが現金で神学校からもらったのは、あのときの五百円札が最初で最後です。

ですから、司祭になるために金がかかるというのは、人が大学を卒業して、大学院まで行く、そうした必要な経費をのぞけば、あと五百円あれば十分です。安いと思いませんか。

 

「いやいや、お金はそうかも知れないけれど、ご両親をはじめ、親戚みなさんが、信仰篤い家庭だったのでしょう。」実はそのあたりも怪しいものでして、わたしの父は中学時代から有名な悪黒坊主だったらしくて、神学校に入ってすぐの夏休み、故郷で日曜日のミサに与ったときに、こんな話を信者の人がしていました。

 

「輝あんちの息子が神学校に行ったとって?」

「おう」「ほんなごとかよ」「ほんとたい」

「なんのそん。輝あんちの息子のならうっとっちかよ」

 

本人がいるとも知らず、教会の玄関口でそんなことを言っていた大人の人がいました。要するに、あんな親の子供が、神学校に行って勤まるはずがない、と言っていたのです。

未だにだれとだれが話していたのかはっきりしませんが、幼いながらもいたくプライドを傷つけられまして、「ようし、見とれよ」という気になったものです。絶対に見返してやる、そう心に誓いました。

また、わたしの出身教会には三つの巡回教会がありまして、それらの教会には必ず神学生が手伝いについて回っていました。どの巡回教会に行っても、まずは身の上話です。

 

「神学生さんのお父さんは、誰ちゅうとですか?」

「輝明です」

「へぇ!輝明さんですか。あの人は悪かったもんねぇ。」

 

初対面のわたしをつかまえて、あなたの親は悪かったとは、何という挨拶だと、すごく腹が立ったのですが、また次の巡回教会に行って同じことを聞かれて答えると、「はー、輝明さんですか。あの人はバラかったもんねぇ」と言われます。口裏を合わせてるんじゃないかと疑いたくなるくらい、みんながみんな同じ事を言うわけです。こんな父親ですから、信仰がどうのと言う以前の父だったということになります。

ですから、とてもじゃないですが、信仰深い家庭だったから、司祭が誕生したとは、わたしは目をつむってあっちを向いたとしても言えないんです。ごくふつうの、もしかしたら標準に満たない家庭だったかも知れません。

 

こういった家庭環境の中で、最初の神学校生活が始まります。入学当初は、ホームシックにかかって何とかという子どもがいるそうですが、わたしは全くそうしたことを経験しませんでした。何せ修学旅行でしか見なかった平和祈念像が近くにあります。生まれて始めてみたデパート、路面電車、それにグラバー邸。修学旅行でしか見たことのないあの町の中に自分がいる。そう考えただけでわたしには毎日が夢のようでした。家のことを思い出して、ベッドでしくしく泣くといったことは、ついに一度もありませんでした。アウジリアシスターは何度も泣いたそうですが。

勉強は、小学生の時は通知票で5432、いろいろな数字をもらってきていましたから、あまり優秀とまではいきませんでした。それは今頃の子どもたちのように、やれ塾だ家庭教師だと、きちんとした勉強の仕方を習っていなかったからです。

実際、中学に入って最初の中間試験の時は、昨日の続きみたいに学校に行って、試験を受けて帰ったようなものです。うまく行くはずがありません。結果はさんざんで、次回同じような成績だったら、坊主になりなさいとまで言われました。

この坊主になるかどうかは、わたしにとってはホームシックよりも重大な問題でした。郷里の中学校に行けば、絶対に丸坊主にならなければなりません。坊主になるくらいなら、最初から郷里の中学校に行っていたでしょう。坊主になりたくない。これも、わたしが神学校に行った大きな理由の一つだったのですから。

それで、よく分からないまま、期末試験前には勉強し始めました。すると、試験も案外いい加減なもので、ちょっと勉強したら、すぐに学年で3番になりまして、それからは「なぁんだ」ということになりまして、以来学年で3・4番から落ちることはなくなりました。いっぺんそういう成績を取ると、欲が出てきて、自然とそのレベルを維持するようになるものです。

勉強はそんなに苦にならなかったのですが、神学生には祈りがあります。祈りと勉強の両立、これはたいへんに難しいことでした。一日のうち2時間はあった祈りの時間がわたしには退屈で退屈で、ほとんど居眠りばっかりしていたのです。

おかげでしばしば正座を半時間、ひどいときには一時間させられ、大切な勉強時間を取り上げられることがしばしばあったのです。祈りの時に起きてさえいれば、と何度も思ったのですが、長い長い祈りの時間は、わたしの睡眠時間になって、結局わたしを含め、何人かに付けられたあだ名は、「スイミングクラブ」という名前でした。水泳じゃないですよ。睡眠ばかりするクラブで、「睡眠ingクラブ」と冷やかされたわけです。

これは、余計な話ですが、わたしに正座を命じた歴代の聖堂係は、ことごとく神学校を去りました。わたしはほかにも、ちょっとサッカーボールが川に流れたから、取りに行くので、ここで待っていてほしいと、勝手口の鍵を夜遅く開けて、先輩の無断外出の幇助をしたこともあります。一時間待っても二時間たっても帰ってこないので、心配しながら床に就いたという、思い出すと歯がゆい思い出もあります。彼らも、残念ながら一人としてなりませんでした。司祭の道も、分からないものです。

中学三年生になると、高校受験の話で沸き立ちます。わたしたちは選択の余地もなく、南山高校を受験するわけですが、ある同級生は、すでに世間に戻ることを心密かに決めた子もいまして、「ぼくは神学校を辞めて、何々になる」という話もちらほら出てきます。

滑石から入った同級生がいます。かれとわたしは、実は中学で神学校を辞めると誓った仲なのですが、かれはほんとうにそれを実行して、現在歯医者さんをしています。わたしがいよいよ司祭になるとき、かれに案内状のハガキを出したら、返事のハガキに、「たしかキミは、中学の時いっしょに辞めると言ったよなぁ」と書き添えてありまして、苦笑いをした経験があります。そうした人生の岐路は、高校受験、大学受験と、節目節目に皆が通ってきております。

 

わたしは高校三年生の時に、生まれて初めて、本気で辞めようと思ったことがあります。高校三年生といえば、大学受験や就職試験やらで、だれもが目標目指して必死になっている時です。南山の一般の学生も同じでした。そんななかで神学生は、どちらかというとのほほんとしていて、「大神学校ぐらい、たぶん受かるだろう」くらいの考えで毎日過ごしていました。教室には受験情報や、就職情報をまとめた本があって、それぞれ「ここに入れたらいいなあ」とか、「おれの頭じゃ、ここぐらいしか入れないかなあ」と言いながら、にぎやかにページをめくっていたようです。

学校の模擬試験などで、いつも志望校の欄を書くときに、でたらめに志望校を書きながらも、どこかで気になっていたように思います。一般の生徒のひたむきな姿勢を見ながら、すごいなぁと感じていました。それに比べたら、自分たちは生ぬるいなぁと思っていました。

神学校生活では、最上級生としていろんな役を受け持ちながらも、どこかでもの足りなさを感じていました。好きな勉強ではなくて、それ以外の勉強をたくさんさせられている今の自分は、本当は無駄な時間を過ごしているのではないかと考えることがありました。こうした雰囲気にさらに追い打ちをかけるように、十二人いた同級生のうち七人が、夏休みのうちに辞めてしまっていて、帰ってみたら五人しか残っていませんでした。

自分は、こんなところにいていいのだろうか。本気で神父様になるつもりがあるのだろうか。そんなことを考えているうちに、いっそのことを辞めてしまいたいと考えるようになり、校長神父様に言いに行こうと決めました。

校長神父様のところに行くと、自分がいかにも悩みごとを持ってきたという顔をしていたのでしょう。「何か、相談のあっとね」と、こっちが話す前から、「お前の気持ちはお見通しだよ」というような質問をされました。

「神父様、僕が神学校やめると言ったら、どうしますか」「どうするも何も、どうして辞めるとかというやろうね」そこでわたしは、今まで心に積もっていた考えを全部描き出して、校長神父様に訴えました。「自分はこれまで一生懸命やってきましたが、もう続けるつもりはありません。辞めたいと思います。」

「どうしてもと言うのなら、いちおう家に帰って、相談してみなさい」「相談しても変わりません。99パーセント帰って来るつもりはありませんから。」

99パーセントね。そんなら、残りの1パーセントに賭けるたい。」

「残りの1パーセントに賭ける。」校長室を出るとき、自分でうろたえているのがわかりました。神父さまの言葉が頭の隅にひっかかっていたのです。無理もありません。考えてみれば、高校生とベテランの神父さまがまともにやりあって、勝てるわけがありません。自分たちを口説き落とす殺し文句の一つや二つは持ち合わせているわけです。わたしはそれも考えずに正面から突っ込んでいって、まんまと校長神父様の殺し文句にひっかかったわけです。

神学生、志願者を抱えているご両親に、一つ知恵をお貸しします。辞めたいなんて気を起こさない方がいいと言っておいてください。いつの間にか言いくるめられて、「やめます」と言いに言ったつもりが、帰る時には「もう少しがんばってみます」に変わってしまうからです。学生担当の神父様やシスターを説得できる自信がなければ、言いに行かないほうがいいと念を押しておいてください。

わたしは、両親と話し合いをするために、五島に帰りました。もちろんその時は、「絶対親を説得してやる!」と意気込んで家に帰りました。

そうしたらおやじはカンカンに怒っていまして、今にも茶碗を投げ付けるんじゃないか、殴り殺されるんじゃないかという剣幕でした。「殴られるかなぁ」という覚悟はあったのですが、父はそれを必死にこらえていたのでしょう。

当時、鯛ノ浦教会には助任神父様がおられて、助任神父様が間に立って、私と両親――といってもここではほとんど父でしたが――で話し合いが持たれました。話し合いなんて行儀のいいものじゃなかったですね、あれはもう親子喧嘩でした。

「何と言おうが、俺は辞める」「辞めるな」

「辞めると言ったらやめる」「絶対許さん」

いつ終わるかわからない水掛け論が、二日間続いたと思います。

やっぱりこの頑固おやじは、言ってもダメか。そう思いました。それで、神学校にいるときから、最後の切り札として準備していた台詞を使うことにしました。最後になったらこれを言おう。これを言ったら、さすがの親でも納得してくれるだろう、そう思っていた言葉です。

「おやじ、俺はな、親の言いなりになるロボットじゃないぞ。俺はこれから自分の好きなことをする。親の言いなりには絶対ならないからな。」これで自分が勝った、絶対やめさせてくれる。そう思いました。

そう言ったとき、全く予想できなかったことが起こりました。父が泣き始めたんです。人前で絶対弱いところを見せたことのないあの父が、男泣きに泣いているんです。これにはびっくりしました。

初めて父のそうした姿を見ていて、さすがのわたしも考えました。「あー、自分がしていることは、よっぽど悪いことに違いない。もうこれ以上父を悲しませてはいけない。」それで、絶対やめてやると思っていたのに、神学校に戻る羽目になりました。

神学校では、「中田先輩は辞める」という話で持ちきりでしたから、戻ってきたわたしが荷物をなかなかまとめないものですから、不思議に思っていたようです。ヤジ馬のような後輩たちから「先輩、辞めるんじゃなかったんですか?」と、しばらくはからかい半分に言われて、自分も恥ずかしかったし、かえって辞めていたほうがスッキリしたのにと、父を逆恨みしたりもしました。

数日して、ようやく気持ちの整理がついたころに、母から一通の手紙が届きました。なんだろうと思っていたら、励ましの手紙でした。それもただの励ましじゃなくて、自分が知らなかったことを書きつづった手紙でした。もうその手紙はなくしてしまいましたが、大まかな内容を紹介したいと思います。

「わたしは、あなたが神学校に戻ってくれたことを、何よりもうれしく思っています。というのは、わたしはあなたが神学校に行きたいと言うようになるずっと以前から、あなたを神様のために使いたい、神様のお役に立てたらと、心の中ですでに献げていたからです。

あなたに今まで知らせていなかったことですが、あなたは生まれた時に、息をしていませんでした。泣き声ひとつあげず、仮死状態で生まれてきたのです。時々、そういうことはあるのだそうですが、何せ初めての子供だったので、わたしはとても心配して、もうだめなんだろうかと考えたものです。

神様、どうか生かしてください。この子を生きさせてください。もしこの子が生き返るなら、喜んで神様にお献げします。わたしはそう言って、あなたが生き返るのを祈り続けました。幸いあなたは、産婆さんの介抱が実って、息を吹き返し、初めて泣き声をあげたのです。

その時から、わたしはあなたが神様の喜ぶような生き方をしてほしいといつも願っていました。そして神学校に行くようになり、また今度のことを乗り越えて一歩前進し、ひと回り成長してくれました。本当にうれしく思っています。

どうか、この道を最後まで歩き続けてください。自分でこのすばらしい生き方を終わらせるようなことだけはしないでください。母より」。

この手紙が来たとき、「こんなことを、今頃になって。遅い!」と思ったこともありましたが、母は自分の心が落ち着くのを待って、あんな手紙を書いたのかなぁと、今では考えています。

司祭になった今、母には「タイミングを計ってあんな手紙を書いたりして、さすがは一枚上手だね」と言ってみたい気がします。きっと母は、「書きそびれて遅れたのよ」と言い訳をすることでしょう。父にも、「おやじ、あのとき本気で泣いたとか?泣き真似じゃなかったとか?」と尋ねてみたいものです。そうすると、照れながらも、「バカ言え。本気さ」とうそぶくのかもしれません。

小神学校の間、一度きりでしたが、大きな壁にぶつかり、司祭職について考えることができました。この出来事を通して、司祭召命というものが、どんなに多くの人の協力があって成り立つのかということをつくづく感じさせられました。それと、大きな困難を覚え乗り越えることができたのは、両親の心からの思いと、それ以上に、神様が共にいて、この大きな困難を一緒に耐えてくれた、一緒に解決までの時間を過ごしてくれたおかげだとわかりました。

表面上は、あまり信心ぶった様子はありませんが、それなりに心配してくれていました。何よりも、神様が私の友人として、この一番つらい時期を、ともにいてくださったからこそ、乗り越えることができたんだと思います。

このような体験は、多かれ少なくあれ、誰にでもやってくるものだと思います。続けるか、やめるか。乗るか、そるかという大きな別れ道に立たされるとき、その時に考えてほしいのは、イエスさまも一緒に、その分かれ道に立ってあなたの足を支え、照らしておられるということです。

イエスさまは止めもしないし、選んだ道を咎めもしません。けれども、召命の恵みを判断するのは、きっと人間一人のちっぽけな頭に頼るよりも、神様の照らしに信頼する方が確実だということです。それは司祭やシスターに限らず、結婚生活に呼ばれた人も、「おれは何でこいつと結婚したんだろうか」と思うときに、自分一人の頭がすべてを解決できるわけではないことをよく肝に命じて神様に照らしを願う方が、より確実な判断ができるということです。

わたしたちは、あまりにも自分だけで悩み、苦しむことがあります。神様がどういう方かを考える心のゆとりがなくて、一人で難しい問題を背負ってしまうのです。神様は私たちの親友です。誰よりもあなたの相談を聞きたいし、一緒になって苦労を担いたいし、問題解決に取り組みたいと思っていらっしゃいます。

問題はわたしたちがそれに気付くこと、神が共にいてくださることに信頼を置くことではないでしょうか。その心のゆとりを見つけることができたときに、どんなに大きな問題にも、冷静に取り組、解決の糸口を見つけることができるようになると思います。

何か、手前味噌みたいな話になってしまいましたが、一つの生き方を選ぶということでは、結婚している人にも何かのヒントになったのではないでしょうか。うまくいっている時はいいのですが、困難を感じているときに、ひとりで悩んでいると勘違いしないことを、神様がすぐそばで一緒に苦労を分けあってくださることを忘れてほしくないと思います。

とうとう、大神学校時代のことは話せずに時間が来てしまいました。大神学校時代の話はまた、いつか次の機会に譲りましょう。たかだか3040分で話すのは、どだい無理な話ですが、こんな人でも、神様の引き合いがあれば司祭になれるという、一つの例として受け取ってくだされば幸いです。

イエス様は、神のために働く召し出しについて話したあとに、次のような言葉を付け加えました。「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(Mt19:12参照)。召命の道は不思議な道ですが、今日の話を聞いて、これなら、うちの子もできるんじゃないか。そう思われた方も多いと思います。ぜひ、参考にされて、この教会から一人でも多くの司祭が誕生するように、働きかけていきましょう。