第三回:そうすれば、あなたがたも赦される

(以下、聖書の引用は、日本聖書協会「新共同訳」より)

昔からそうだったのか、そういう世の中になったのか分かりませんが、女性の活躍を抜きにしては、教会活動も成り立たないと言われます。男性陣の代表であるわたしが、こんな事を言うのもなんですが、事実そうだから仕方がありません。

司祭館には、いろんな用件で信者さんが立ち寄るわけですが、チャイムを鳴らして、中田神父が「はい、どなたですか」と言うのと、シスターがインターホンを取ったのとでは、ときおり態度ががらっと変わることがあります。

「はーい、どなた」

「アウジリアシスターはいらっしゃいますか」「おらんよ」

「そうですか。どうしようかな、じゃあ、また来ます」

「用事は何ね」「いや、よかです。また昼頃来ます」

結局その人は、わたしに用件のことづけもせず、シスターがいるときにまた来たようです。あとで聞けば、ミサをお願いしに来たのだそうですが、考えてみてください。シスターがミサを預かっても、シスターはミサできないんですよ。直接わたしに預ければいいじゃないですか。わたしも顔を覚えたいし、いい機会だと思うんですがね。

似たようなことは山ほどあります。山ほどです。電話で、シスターはいらっしゃいますかと呼びつけて、さんざん探し回ってもいないもんだから、「買い物に行きました」とでたらめ言ったら、「あ、そうですか。それじゃあ、また電話します」と言うんです。こっちはたまりません。

日に一回、そういう電話があるのでしたら、わたしもそのうち忘れたりするのでしょうが、日に何回も同じことをさせられると、少々腹の虫の居所も悪くなります。しまいには言わなくていいことまで口をついて出てきたりするわけです。

「もしもし、教会です」「えーと、シスターは」「シスターはもう死んだ」「えー?」「風引いて死んどる。用件は?」「その、住所変更なんですけど」「住所変更の手続きぐらい、俺っちゃできる」「そうですけど」「いつでもよかけん、早う来なさい」「分かりました」。どういうわけでシスターなのか、あそこまで言うんだったら、シスターに主任神父になってもらえばいいかも知れません。

世の中は女性の社会になってしまったようです。世のお父さんがた、せいぜい奥さんをほめて、かわいがってください。どっちにしても、女性の方が長生きします。最後までお世話になるわけですから、大切にしてあげた方がいいですね。

定年後の、怖ーい話も聞いたことがあります。「おーい、新聞」と言ったら、「新聞はそこにあるでしょ。自分で取りなさい」とか言われて、会社に行ってた頃と待遇がまるっきり違っていたり、「お茶」と言ったら、「お茶の入れ方ぐらい、練習しなさい」なんてことがあるらしいです。滑石ではないでしょうけど。

これから結婚しようとする若いカップルも、すでに女性の社会を予感させたりします。結婚式が間近になり、リハーサルに来たあるカップルですが、「どうね、いろんな手配で忙しかろう。」と言いましたら、男性の方が、「はい、全部彼女に任せています」と言います。「ちょっと格好悪くないの?」と言ったら、「いいんです。ぼくは彼女の座布団ですから」と言ったんですね。あー、これでは先が思いやられると思いました。

結婚せんでよかったー。そう思わずにはいられません。とてもじゃないですけど、座布団になって幸せ、という悟りは、わたしはとてもたどり着けそうにありません。

けれども、司祭館でも、頭が上がらないことはいろいろあります。大見栄切って、シスターが何とかしなさいと言ったあとで、自分のミスに気付き、どうにもばつが悪いといったことがありました。クリスマス募金の時のことです。

教会学校で、子どもたちにクリスマス募金を募り、7万以上の献金を預かりました。よく頑張ったなぁと思いながら、献金の総額をノートに控えて、「めぐみ」に載せようということになったのです。

それではということで、大きいお金に換えた募金を、銀行に振り込むことになりました。その時になって、現金が見あたりません。わたしもシスターも、「おかしいなぁ」と思いながら考えていました。「たしか私、神父様に預けましたよねぇ」「預かってないよ」「そうですか?あら、おかしいわぁ」

「どっかにぽんと置いてあるんじゃないの。わたしは持ってないからね。シスター、自分で何とかしなさいよ。」さんざん人のせいにして置いて、やっぱり心配なもんだから、わたしも自分の部屋を探してみました。そしたら、あったんですね。わたしの金庫に、ちゃんと鍵かけて置いてあったんですよ。

これからが問題です。「わたしは知らん」と言っておいて、あとになって出てきたわけです。「シスター、ゴメン。あったばい。」あれだけのことを言ったあとですから、頭が上がるはずもありません。こうなるとどうしようもありません。

小さい子どもにも、わたしの思い込みで迷惑かけたことがあります。聖体拝領中、ずっとわたしの神経を逆なでするような行儀悪い子どもがいたんですが、見とれよ、と思いつつ、ミサのあと玄関に立ちました。

こいつだな、と目を付けた子どもに、「こらー、お前は。ミサ中ずっと手混ぜをして。今度あんなことしたら、承知せんぞ」と言ったんです。てっきりその子だと思って思いっきり叱ったのですが、どうも人違いしたらしく、「ぼく、いちばん前には座ってなかったよ」と、涙目で訴えています。

そばにはいかついお父さんが立っていました。「あいたー、こりゃあしもうた。」そう思ったのですが、もう後の祭りです。「そうか?それならよし」と言ったものの、子どもには何の慰めにもなっていません。きっとその子は、わたしにあまりいい印象を持たないでしょう。悪いことしたなー、と反省しています。

こうしてみると、誰であれ、「あー悪かったなぁ」ということは多かれ少なかれあるものです。今日は、このお話のあとにゆるしの秘跡になっていますから、親と子、男性と女性、いろんな集まりの中でなど、たがいに赦しあうということを少し考えてみたいと思います。

これから、二つの聖書の箇所を朗読します。そこから、たがいに赦しあうことで癒されていくということと、赦しが神の愛と深く結ばれていることに注目していきましょう。

最初は、「ヤコブとヨハネの願い」という箇所です。

 

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」というと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。いちばん上になりたい者は、皆に仕える者になり、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(Mk10:35-45)

 

ヤコブとヨハネの兄弟は、イエス様が栄光を受けたときに、自分たちがいちばんそばに座れるように願いました。それに対して、ほかの十人の弟子たちは腹を立てたとあります。「ほかの十人の者は」と書いてありますので、例外なく一斉に腹を立てたのでしょう。

腹を立て始めたと遠慮して書いてありますが、もしかしたら、「頭に来た」という言い方が当たっているのかも知れません。冗談じゃない、とんでもないという感情むき出しの怒りが、ほかの十人すべてにあったのでしょう。

お互い、気心の知れあった仲間です。何でも正直に話せる仲間です。そこで、何か抜け駆けみたいな形でいいとこ取りをしようとするとは許せない。私たちでも、それは良くない、と言いたくなる場面です。

誰であれ、人から思われたい、よく見られたいという気持ちはあるものです。そんな人間らしさが、ヤコブとヨハネに出たわけですが、イエス様は皆にそのことを諭しました。「誰でも偉くなりたいものだ。けれども、あなたたちはたがいに仕えあうことを学びなさい。」

この時には、ヤコブとヨハネの二人も、ほかの十人の弟子たちも、仲直りをしようと思ったことでしょう。二人に腹を立てたのは、自分たちにも同じ野心があるからだ、それを乗り越えなければ、本物の弟子にはなれない。そんなことを考えたかも知れません。

私は、二人の弟子を赦したことで、弟子たちすべてに「癒し」のめぐみが与えられたのではないか、と考えます。名誉心のためにお互いが傷ついた。その心の傷が、恵みによって癒されたのではないでしょうか。

 

私たち自身を振り返ってみましょう。ゆるしの秘跡を受けると、「あー良かった。ホッとした」と感じるのではないかと思います。「ほっとした」それこそが、癒しの恵みを実感している証拠です。神様は、罪を赦してくださるだけではなく、心に受けた傷もいやしてくださる。ここまでお世話してくださっているわけです。

癒しは、秘跡に近づくことで必ず味わうことができますが、私たちの日常に生かすこともできると思います。いやな思いをして、傷ついた。それをたがいに赦し会えば、手を取り合えば、たがいに癒されていきます。あんなことして、許せない。それをあえて赦すなら、あなたはもう一歩踏み込んで、イエス様の呼びかけに答えているわけです。こうした努力に、イエス様は癒しの恵みで応えてくださいます。

「あれだけのことをしたのだから、これくらいの仕打ちを受けて当然だ。」そんなことがあちこちで起こっているとしたら、その時こそわたしたちはイエスの挑戦を受けていると考えるべきです。仕打ちを受けて当然かも知れません。けれども、イエスは赦してあげることを願っていると思います。仕返しすることすら考えないで、それ以上に赦してあげる。ここに福音に生きる偉大さが発揮されます。

仕返しをしてから赦すのでは、人間のレベルに過ぎません。そこには社会のルールがあるだけで、福音の恵みはありません。もしあなたが、信者としてもう一歩踏み込んで生きようと思うなら、社会のルールに則っていては間に合いません。イエスは、先に赦しなさいと求めます。仕返ししたい自分と戦って、あるいは、そういう自分に死んで、赦してほしいと願います。そういう挑戦の中でしか、癒しの恵みは与えられないのです。

わたしたちは、ゆるしの秘跡を通して、赦しと癒しを体験しています。福音の恵みがどういうものか、秘跡の中で味わっています。なぜ、それを社会の中で実践しようとしないのでしょうか。いったん告解場を出たら、出会ったその人に、社会のルールでしか接することができないのでしょうか。たった今福音の恵み、癒しの恵みを目の前で体験したのに、一歩外に出たら、手のひらを返すようにして、「私たちを苦しめた仕打ちを受けなさい」と言うのでしょうか。

それでは筋が通りません。体験が何も活かされていません。イエスの赦しと癒しを知らない人ならまだしも、知っている人の取るべき態度ではありません。

「神父様、そう言いますけど、あの人はこんなひどいことをしたんですよ。それでも赦せと言うのですか。」イエス様の招きは、こういう場面でも例外を作りません。どんな理由であれ、赦すべきです。イエス様の癒しの恵みを信じるべきです。そこで妥協したら、いちばん癒しが必要なケースに、癒しの恵みが与えられないことになります。

「でも」と言うかも知れません。それならわたしも言いましょう。「でも」赦してください。先に赦してあげなければ、癒されるというすばらしい体験はできないのです。人間のどんな場面でも赦しがあることを私たちが信じなければ、どうして人に福音を伝えることができるでしょうか。

 

 もう一つ、聖書の箇所から学びましょう。ルカ福音書の、「幸いと不幸」に続く勧めです。

 

人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。

(Lk 6:37-38)

 

鍵となる言葉は、一つはもちろん、「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」ですが、今回わたしが取り上げたいのは、最後の箇所「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」という言葉に注目したいと思います。

考えることがあるのですが、わたしたちは、時として神様よりも厳しく人を裁くことがあるのではないか、ということです。神様は何よりもまず、完全な愛を持っておられる方ですから、「人を赦す」という場合、あの罪は赦してこの罪は赦さない、ということはあり得ません。ひとたび神が「赦す」と言えば、いっさいの罪を赦すつもりがあるのです。

それを、わたしたちはいつか、「あの人は赦されないことをした」と、裁いていくのです。神は、ゆるしを願う人を決して拒みませんが、わたしたちは神よりも厳しく裁き、神が受け入れてくださるはずの人を、拒絶し、赦さないのです。

こうしたことは、すべての人に当てはまるとは言えません。けれども、もし自分が、同じ立場に立たされたら。そういうことは考えておくべきだと思います。それは、赦しを願う側かも知れないし、赦してあげる側かも知れません。いずれにせよ、神様のあわれみを常に物差しにすべきであって、決して神様よりも厳しく裁くべきではないのです。

 

今の例は、自分と他の人の間での話でしたが、自分自身の間でも誤った考えに囚われることもあります。つまり、自分の罪は、赦されない、赦されるはずがないと思い込むことです。

取り返しのつかないことをしてしまった。もういくら償っても償いきれない。そんな過ちで悩み苦しむ人がいるかも知れません。そんなときこそ、神は赦しと癒しを用意して待っておられるのですが、わたしは、それを拒んで、赦しを願おうとしないことがあります。何年もゆるしの秘跡に与っていない方の心には、どこかに、「自分はもう赦してもらえない、赦されるはずがない」という責めの気持ちがあるのではないでしょうか。

どうして、そんなふうに自分を責めるのでしょうか。神様の力は、そんなに非力なのでしょうか。あなたの罪を、赦せない、それほどつまらない神でしょうか。自分で自分を裁いてしまって、赦しの力を信じようとしません。神様であっても、わたしの罪は赦せないと決めつけ、裁いて、赦しを願おうとしません。そこまで思い詰めては、神も手の出しようがありません。

どちらも、間違っています。あの人の罪も、自分で告白しようとしない罪も、心を開きさえすれば、いつでもお赦しになります。神の赦し、あわれみは完全なのです。人がそれをとやかく言ったり、けちを付ける権利はどこにもありません。

神様を、できないことがあるかのように思うのは、わたしたちの作り上げた幻であって、神はわたしたちのつまらない誤解をはるかに超えて完全なのです。わたしたちはもう一度、全能の神を心に描いて、信じ、より頼む必要があります。

わたしは、あの人を赦さないと言っています。わたしは、自分の罪は赦されるものではないと言って、いつまでも告白しません。結局信じていないのです。神が全能であり、赦しのあと、深い癒しで傷を治してくださることを受け入れたくないのです。委ねきることが敗北であるかのように、怯えているのです。

 

赦しの秘跡を始め、年の黙想会全体が、癒しの力に触れるまたとないチャンスです。毎年、決められたこと、行かなければいけないと思って来ていたかも知れません。けれども、その気持ちを一つ乗り越えると、日常の生活を一歩離れ、癒されていく自分に気付くすばらしい機会なのです。今日で黙想会の半分が過ぎました。癒しと、回復の恵みをいただいた人は感謝のうちに、まだ今ひとつ癒されていないと感じる人は、神のあわれみと癒しを切に求めながら、赦しの秘跡に与ることにいたしましょう。

 

今日は、お手伝いの神父様を含めて、合計五人の司祭が待機しております。わたしは、いつもの告解場に座りますので、みなさん好き好きに、どこかの告解場に行って、赦しの秘跡に与ってください。