二日目 イエスは分かってくれる

「人間をわかっておられた」からこそ、イエスは赦してくださる

 

第三回 イエスは人間をよく分かっている

 

(本文中に引用した聖書は、すべて日本聖書協会発行の「聖書 新共同訳」です)

 

今日、赦しの秘跡のことを集中的に話したいと思うのですが、リラックスして聞いていただくために、赦しの秘跡の中身そのものではないところで、今でも覚えている微笑ましい話を紹介してから入りたいと思います。

小学生の話なんですが、教会によっては、小学生の赦しの秘跡に衝立を置かずにしているところがあります。時折よく分かっていない子供がいるときに、すぐにそれと察して教えてあげることができます。そういう点では理にかなっていると思います。

その教会も、対面式で赦しの秘跡をする教会でした。まずは型通り、十字架のしるしからです。

 

「父と子と聖霊とのみ名によって。アーメン」

「アーメン」

「神様のいつくしみに信頼して、あなたの罪を告白してください」

 

 すると子供は、何を思ったか、私の言葉をオウム返しに返します。「神様のいつくしみに信頼して、あなたの罪を告白してください」。あー、この子は分かってないなぁ。そう思って、「もう一回、もう一回するぞ。いいか?」と言って、やり直しました。

 

「神様のいつくしみに信頼して、あなたの罪を告白してください」

「神様のいつくしみに信頼して、あなたの罪を告白してください」

「おまえに告白する罪はない。罪を言いなさい」

「罪を言いなさい」

 

もう、やめてくれーと言いたいくらいでした。可愛くはあるのですが、「笑点」の漫才じゃああるまいし、ここで時間を食っている暇はありません。祈りの本を持ってこさせ、指で指示をしながらのやりとりです。

何とか、この子は無事に終わりましたが、ほかにも似たり寄ったりの子供はいるもので、スムーズに進んでいく中で、「悔い改めの祈りを唱えてください」と言ったら、この子は淀みなく、こう言いました。

 

「神よ、あなたは私に背いたことを心から悔やみ、お助けによってこののち再び罪をおかさないと、固く決心いたします」

 

 一瞬の出来事で、何が起こったか分からなかった方もいらっしゃるかと思いますので、もう一度、その子が行った通りに、ゆっくり言ってみます。

 

「神よ、あなたは私に背いたことを心から悔やみ、お助けによってこののち再び罪をおかさないと、固く決心いたします」

 

 私は腹が捩れそうだったのですが、そこのところをぐぐっと押さえて、「そがんことは悔やまんちゃよか。もう一回、唱えてみなさい」と言うのですが、結局だめでした。あの子は今も、同じように、「あなたは私に背いたことを心から悔やみ」とやっているんでしょうか。

 

 

1 「世の中に『絶対』ということはない」

 

私の母ちゃんは、私に名言を一つ教えてくれました。それは、「世の中に『絶対』と言うことはない」という言葉でした。

どんなときに、この言葉を教えてくれたのか、よく覚えていませんが、おそらく、「そんなこと絶対できっこない」とか、「絶対約束を守るけん」と私が言ったか何かで、こんなふうに言ったのだと思います。

私がこの言葉とすぐに結びつけるのは、天主の十戒の第二、「神の名をみだりに呼んではならない」です。私たちが、「神に誓って、約束する」とか、「絶対返すから。神に誓う」なんてことを言うとしても、実は神を引き合いに出すほど、約束を守れるような人間ではないのです。もし、神に誓って、誓ったことを守れなかったら、私たちはその責任をどう取ればよいのでしょうか。

「世の中に『絶対』ということはない」これが本当だとしたら、それはいまの時代だけに当てはまるのではなくて、人間が生まれてからこのかた、繰り返されてきていることになります。私たちの世の中だけでなく、祖父母の時代、もっと遡って、古い古い時代にも、それは当てはまっていたことになります。

実は福音書の中にも、このことをよく示す箇所があります。弟子たちがイエス様につまづくということをイエス様が話し始めたとき、ペトロはそれを強く打ち消したのでした。聖書の朗読をお願いします。

 

14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。

14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」l

14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。

14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

14:31皆の者も同じように言った。

 

福音を書いたマルコは、ペトロが興奮気味に答える様子を、「ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』」と紹介しています。

ペトロの言葉に偽りはなかったと思います。ですが、「世の中に『絶対』ということはない」これも本当だとすれば、ペトロが自分で宣言したことを、「絶対に」守れるという保証もないのです。

 

あの時、ペトロには、「見くびられた」という感じがあったのでしょうか。これまで三年間、苦楽をともにしてきた。どんなときでもイエス様のそばから離れなかった。それなのに、私たちが最後の最後では逃げていってしまうとイエス様は見ておられる。自分たちはそれくらいにしか見られていないのか。

ふつうなら、ここで信頼の糸が切れてもおかしくないのですが、ペトロはそれでも、「いいえ、私は覚悟が出来ております」と思っています。こんな時に、しかもいちばんつらい形で、人間の限界というか、「絶対ということはない」というあの体験をすることになるとは、何という運命なんでしょう!

 

みなさんはどう思われますか。私たちの世界で、「絶対」というものがあると思われますか、ないと思われますか。

いまここに大きめの聖書があるのですが、みなさんよくご存知、「聖書 新共同訳」です。この共同訳聖書は、約20年の歳月を賭けて、1987年9月に完成したもので、カトリック・プロテスタント両教会が全く同じ聖書を読むことが出来るようになった、画期的な書物です。

なぜここでわざわざ紹介しているかというと、実は私たちの小教区では、「聖書通読リレー」というものをやっておりまして、参加者を募って、その人たちで1日2時間、朝の10時と夜の7時に教会に集まり、聖書の朗読に耳を傾け、それを毎日リレーして、旧約聖書の1ページ目から、新約聖書の最後のページまで、完全に読みつなごうという壮大な計画です。

この聖書通読リレー、最初は巡回教会の間瀬教会で、2月の13日からスタートしておりまして、計画では聖木曜日か、聖金曜日に完全に読了しまして、実りある復活祭を迎える予定になっております。

聖書の通読と言っても、参加する人がすべて生の声で読み上げるのではありません。本来はそれが筋なのですが、今回は専門的に録音されたCDを流して、参加者はそれに合わせて聖書に目を通すという形を取っております。もし良ければ、担当の方、CDを流していただけるでしょうか。(しばらく様子を見ます)

こんなふうに流して、自分たちは聖書を手に持ち、目で追うわけです。小教区の信者全員のリレーで、目と耳から、「神のみ言葉」のすべてに、とにかく触れようではないか。私のそういう願いが込められています。

 

この計画を、本教会・巡回教会の両方の教会学校で話してみました。

 

「お父さんお母さん・おじいちゃんおばあちゃんで聖書を全部読み上げようと思っています。録音したCDを聞いていくわけだけど、この『創世記』から始まって『黙示録』の最後のページまで、全部で2364ページあるんだけれども、全部読み上げることが出来ると思う人」

 

誰も、ただの一人も手を挙げませんでした。あまり聞きたくなかったけれども、「できない」と思う人と尋ねたら、ほぼ全員が、さっと手を挙げたんです。念を押して、「絶対できっこない」と思う人、冗談ぽく尋ねたら、これにも3・4人は手を挙げました。

 

「それはあんまりやろう。『絶対』できないってや」

「うん。『絶対』できん。賭けてもよかよ」

 

さすがにこれにはがっくり来たんですが、一方では闘志が湧いてきました。「よーし、見とれよ。ぎゃふんと言わせてやるからな」。それは、夕方の子供のミサにあずかっておられた大人の人たちも同じ思いだったはずです。

ただ今のところ、2月13日の開始から、まるまる4週間が経過したところですが、ちょうど半分くらい、詩編の第100編を読み終えたところです。延べ人数590名、ページ数にして、937ページ、ずいぶん読み進んだものです。

朝10時の部はだいたい10名程度、夜の部は7、8名といったところですが、おかげさまで一日も途切れることなく、今日まで続いております。実はこうしている間も、聖書の朗読会は続いておりまして、私はその祈りに支えられて、いまこの黙想会の説教をさせていただいているようなものです。

えー、ここで何を言いたかったかというと、「世の中に『絶対』ということはないのではないか」そういうことでした。むしろ、「絶対」という言葉が当てはまるのは、神であるキリストだけという答えに、私たちはこれからたどり着きたいと思っております。

 

 

2 打ち消し 再び打ち消し 呪った

 

さてペトロの離反(裏切り)に戻りたいのですが、ペトロは三度、イエス様を知らないと言いました。「いやー、その人は知らんねぇ」その程度の「知らない」ではありません。三年間寝食を共にした方を、「打ち消し、再び打ち消し、呪った」のです。

「いやぁ、考えられない」と思うかも知れません。ですが、福音書を書いた四人とも、この事実を隠さなかったのです。多少、表現の違いはありますが、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ、四人ともペトロがイエス様を「三度、知らないと言った」と書いてあるのです。

ただし、四人のうち三人までが、鶏が鳴いた直後に、ペトロは官邸の外に出て、激しく泣いたことも付け加えています。「絶対に私はあなたを裏切らない」と断言して、惨めな思いをしましたが、同時に、激しく泣いて犯した過ちを悔やむほど、正直な人、「分かりやすい」人だったのです。

そう言いながらですね、私は意地悪な性格なので、ペトロの演出だった可能性も考えています。「ここでは、劇的な回心を演出するために、泣いておいた方がいいだろう。そのほうが、後々この出来事を書き記す人が、書くのに都合が良かろう」とか考えた「かも知れない」ということです。

いちおう可能性として言ってはみましたが、ばかばかしいですね。読者を意識して、劇的な効果をねらって、ペトロが泣いた?やっぱりばかばかしいです。そんな複雑な涙のはずがありません。単純な、分かりやすい涙だったはずです。

罪を犯した。たとえそれが、あっと驚くような、「この人がまさか」というような罪であっても、罪を悔やむなら、神は温かく迎えてくださる。これが分かりやすい回心というものです。

ペトロの離反と、回心の様子を、聖書を通して確認しましょう。お願いいたします。

 

14:66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、

14:67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」

14:68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。

14:69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。

14:70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」

14:71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。

14:72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

 

私たちの回心も、常にこうありたいものです。つまり、神と人とに対して「分かりやすい回心」をしていく。決して、「分かりづらい回心」「理解不可能な回心」であってはならないのです。

「そのうちちゃーんと教会に行くから」「いつかきっと告解して、まっとうな人間になるから」。いつかっていつですか?いつからですか?今日でもなく明日でもないのに、あなたは遠い未来のことを予言するのですか?そんなに将来のことが分かる偉い人なのですか?

そんなことはないでしょう。私たちは誰も、未来のことなど何も分からない、その日その日神様に生かされているちっぽけな人間です。ですから、「いつかきっと」なんて悠長なことを言わず、「今ここで、この黙想会を通して」「分かりやすい」回心のしるしを神様に示していただきたいものです。

 

 

3 イエスとペトロ

 

 こうして人間の弱さ、惨めさを通って、神への深い回心を体験したペトロが、最後にイエス様と固い絆を結ぶ場面があります。ヨハネ福音書の最後、ガリラヤの湖畔での出来事です。聖書の朗読をお願いいたします。

 

21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。

21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 

ここで取り上げたいのは、「イエス様は『自ら委ねる』者に『ご自分を委ねる』ということです。

イエス様はペトロに三度、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」とお尋ねになりました。ただ単に尋ねるだけなら、一度で十分です。本当に愛しているか?と尋ねるとしても、二度尋ねればそれで結構です。じゃあどうして三度尋ねたのでしょうか?

これとよく結びつけられるのが、ペトロが三度イエスを否んだ場面ですが、ペトロの否みをあがない、償わせるために、三度尋ねたと考えられたりするのですが、私はそれではちょっと弱いかなぁと思います。先の、単に尋ねるためなら一度で十分、本当かどうか確かめるとしても二度聞けば結構、その流れで考えてみたいのです。

どうして、どうして三度か?今回、私なりに黙想して考えたのは、ペトロが自分自身を、イエス様に全部委ねる、そこまでイエス様が求められたからではないかと考えています。

全部委ねる。イエス様を「知らない」と言ってしまった弱い自分、そのためにイエス様を見殺しにしてしまったこと、あなたはそんな私でも赦してくださるのですから、あなたが人を赦す神であることを信じますという信仰、これらいっさいを、さらけ出してご自分に委ねることを、イエス様は求めた。それで、三度尋ねられたのだろうと。

そうすると、最初の結論が出てきます。ペトロのように、自分を全部さらけ出して、イエス様に委ねるなら、イエス様はご自分のすべてを、私たちに委ねてくださる。ペトロには、教会をこれから導くという大役をお委ねになりました。

 

 

4 イエスは分かってくださる

 

イエス様は私たちにも同じことを期待していると思います。イエス様は、「自分を委ねる」者に「ご自身を委ねてくださる」のです。イエス様は「分かっている」のです。人間が、いかに弱く貧しく、時として罪深い者であるか。

イエス様は私たちと同じ肉体を取られたのですから、すべて「分かっていてくださる」のです。怖くなればその場からひん逃げて、「私は知らない、責任がない」と、手のひらを返したようなことを言ってしまうこと。あれこれ理由を付けては、しなければいけないこと(悔い改めや、家族、隣人との仲直りなど)を後延ばしにしてしまう卑怯な人間であることを、全部知っている、「分かっている」のです。

「分かっていない」人が一人います。イエス様がこれほど私たちのことを「分かっておられ」、自分をすっかり明け渡す人に、「赦し」「癒し」「慰め」を与えてくださる。そのことが分かっていない人が、一人いるんです。

それは「私」、それは「あなた」です。「私」一人は、今も口実をつけて、イエス様に身を委ねない。「あなた」一人だけが、頭では理解できても、実際にイエス様に自分を明け渡そうとしないのです。

 

「その通り、私はこんなに至らない人間なのです。つまらないのですが、私はあなたに身を委ねます」イエス様はこの一言を待っているのです。今、ここで、その一言を待っている。

ある人にとっては、10年たって今日がやって来たかも知れない。ある人は、もしかしたらそれ以上かも知れない。それでも、やはりその人にとっては「今日がその日」なんです。どうぞこの黙想会の中で、「赦しの秘跡」を通して、「いっさいを神に委ねる」体験をしてください。きっと、告解場を出るときには、「自らを委ねる者に、恵みを委ねる」神の愛とあわれみを味わって帰ることになるでしょう。

今日の話を理解し、実行するなら、私も福音書の中のペトロになれる。イエス様に自分を委ねるなら、イエス様は私に、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるチャンスを与えてくださる。

 

 あなたは、いつまでも「分かりづらい人」でいたいのですか?それとも、「分かりやすい人」に変わろうと心から願いますか?