一日目 分かりやすいがいちばん

「分かりにくくしている」部分には、私たちも挑戦しましょう

 

 

第一回 「解放者」キリストを学ぶ

 

(本文中に引用した聖書は、すべて日本聖書協会発行の「聖書 新共同訳」です)

 

1 今年のテーマ「分かりやすく」

 

 初めてお会いする方がほとんどかと思いますので、簡単に自己紹介をさせていただきます。私は、今現在おとなりの大島にある、「太田尾教会」で勤めております中田輝次神父です。これからの三日間、黙想会という形でみなさんと一緒に時間を過ごすことができることを感謝しております。どうぞよろしくお願いいたします。

 もともと、出身は上五島の鯛ノ浦教会というところです。鯛ノ浦小教区の中には、石造りの教会で有名な頭ヶ島教会、ほかに船隠教会、佐ノ原教会の三つの巡回教会を抱えていて、大神学生になってからは、特に巡回教会にもたびたびお手伝いに行っておりました。特別、信仰深い家庭に育ったという感じもありません。ごくふつうの人間で、ごくふつうの神父だということです。

 今年の黙想会に、こうして私がお世話になることになったきっかけは、昨年末の太田尾教会のクリスマスミサの打ち合わせの時までさかのぼると思います。クリスマスミサの打ち合わせをしているところに、こちらの中浜神父様から電話がかかってきまして、ちょうど電話がかかってきたんだからと、私の方の用件も話しました。

 中浜主任神父様は今御堂におるですか。おらん。あー、そりゃあ良かった。おらんなら、なんもかんも明け透けに話しをしましょう。

 こういう生々しい話は先輩を前にしてはなかなか言いきらんのですが、だいたいは私が黒島教会の御堂をもういっぺんじっくり見たくて、黙想会に招待してもらえるように作戦を組んだんです。

 電話は、佐世保の聖和という学校で行われる「子供の集い」についての、確認の電話でした。まぁ、そっちの話はええくろ加減に済ませまして、私が黒島の黙想会に招待してもらえるように「繁ちゃん」を、あっと、すみません。「繁喜神父様」でした。神父様を持っていくためには、どがんすれば良かろうかと、あれやこれや話しながら考えたわけです。

 電話での会話は、こんなふうに続きました。

 

「ところで神父様、神父様は、うちの黙想会に来るつもりはなかですか」

「え?俺がや?」

「うん、そうそう。実はね、もう何ヶ月も前から、神父様に今度の黙想会をお願いせんばって、思うとったとですよ」

 

 やっぱり神父様をその気にさせるためには、これくらいのことは言わんといかんですね。もちろん嘘はいかんですよ、でも、嘘は言わんけども、ちっと大げさには言うですたいね。

 

「でも何で俺に頼んできたとや?」

 

 ほーら来た。そう来るだろうと思って、ちゃーんと次何ば言うかは考えとったとですよ。

 

「ぱっとひらめいたとです。『今年は、神父様しかおらん』て」

「そうや。そんなら、うちの黙想会は、お前がしてくれんかなぁ」

 

 待ってました。それを言わせるために、あの手この手でよいしょしたとやけん。よっしゃよっしゃ、これで話はまとまった。

 

「もちろんいいですよ。喜んで引き受けます。神父様も、お願いしますね」

「それじゃあ、失礼いたします」

 

まぁ、だいたいこんな電話の内容だったと思います。「それじゃあ失礼いたします」と言うたのは、私ではなくて中浜神父様なんですが、えーと、皆さんに前もってお願いなんですが、「神父様、神父様ははめられたとぞ」とか、決して、決して言わんでくださいね。

 今話していることは、皆さんに中田神父が告解をしているわけですから、告解の秘密は、人に漏らしちゃいかんことは、皆さん知っていますよね。ですから、私が皆さんに告白したことですから、たとえ皆さんの主任神父様であっても、言うてはいかんのです。よろしくお願いします。

 いちおう、中浜神父様と私とのつき合いについても、少し話しておく必要があるかと思います。中浜神父様は私の二級先輩で、小神学校、大神学校、それから私が初めて赴任した浦上教会でも、三年間、お世話になった先輩であります。ですから、常々尊敬し奉っているわけですが、ちょっと私と違うところは、とても几帳面で、まじめでおられるということですね。そのあたりが尊敬し奉る所以なのですが、一般に、まじめな方のいいところは、「分かりやすい」と言うことではないでしょうか。あくまで、「一般的に」ということです。

 例えばですね、「良いものは良い、悪いものは悪い」これがまずはっきりしています。だから、まじめな方が「良い」と思っておられるものをまわりが早く見つけて、それを積極的に取り上げていくと、まじめな方とお友達になれるわけです。反対に、まじめな方が「こんなことは良くない」と思っていることを、本人がいくら「たまにはこんなことも良いじゃない」と言って、いくらたきつけても、まぁそれは水と油で、うまくいかんでしょうね。

 誤解しないでほしいんですが、これは一つの例でして、これから話す「分かりやすく」ということに持っていくためのきっかけとして話しただけです。

 要するに、「まじめな人」は「分かりやすい」わけで、実は、「分かりやすい」というのが、いちばん良いことなんです。

 

 今年、私が黙想会の柱に据えたのは、「分かりやすい信仰生活」ということです。実はその裏には、「分かりにくい」ということが隠されているのですが、なるべく、自分たちの生活を、神様の前にも、皆さんの前にも、分かりやすいものにしていこうというのがねらいです。

 二回目の話で詳しく取り上げたいのですが、実は私たちの生活は、神様にも周りの人にも、分かりにくい面が多々あるのではないかと思います。教会に全然行かないとか、ふだんの生活で祈りを全然しないとか、そういったことです。

日曜日、ミサに行かずに、私たちはどうやって神様に「私はあなたを信じ、礼拝しています」と言うのでしょうか。また朝晩の祈りを決して行わない人が、どうやって神と人とに、「私は日々の生活の中に、神様を迎えています」と言うことができるでしょうか。私たちはしばしば態度で、自分の信仰生活を神様にも人にも分かりづらくしていることがあるのです。

 煮え切らない人よりも、さっぱりした人が好まれるのはどこの世界でも同じです。神様も、ここら辺で、私たちに「分かりやすい人」になってほしい、「分かりやすい信仰生活」を送ってほしい、と思っておられるのではないでしょうか。

これから、世界中でいちばん分かりやすい人、神様はどんなお方であるか、「誰よりも分かりやすく」教え、社会に対して、当時の信仰生活に対して、すべてを「分かりやすく」しようとされたイエス様に目を向けたいと思います。

 これから話していく中で、「解放」という言葉を使いますが、ここでは、「解放=分かりやすい」と考えていただきたいと思います。何かにしばられている人々を、イエス様は解放します。この解放は、人々にとって分かりにくかったものを、イエス様が分かりやすく示して、自由にしてくださったという意味で考えてほしいのです。そういう意味で、イエス様は「解放者」と言って良いと思います。

 まず、聖書の箇所を一つ読んでもらいますので、お願いされている方は、読み上げてください。お願いします。

 

12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」

12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。

12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。

12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」

12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 

 律法学者が、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねているんですが、その当時旧約聖書に記されている律法を数え上げると、なんと613にも上ったのだそうです。これだけの規則に、当時のほとんどの人たちが、息が詰まりそうになっていたのだと思います。この律法学者は、そうした息苦しさを正直に表したのでした。「私たちはもう息が詰まりそうです。どうしたらよいでしょうか」。

 イエス様はこんな場面で、物事を分かりやすくして、解放してくださいます。第一の掟は神を愛すること、第二の掟は隣人を自分のように愛すること。この二つにまさる掟はほかにない。当時の人たちは、もうこういったことすら分からなくなっていたのだと思います。

 つまり、掟を守ることしか頭になくて、とにかく掟を破ってはいけない。掟が613あろうが、1000個あろうが、掟から一歩もはみ出てはいけない、そういう考えでがんじがらめになっていたのです。

 こんな、息苦しい生活をしていた当時の人々に、イエス様は「分かりやすい生き方」を示してくださいました。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)との言葉が思い出されます。イエス様は、掟にしばられていた人々を解放し、自由にしてくださったのでした。

 イエス様にとって、掟は何個でも構わない。たとえ、1000個あっても構わない。要は、「掟を守るために、掟を守る」そういう「掟の奴隷」ではなくて、「神を愛し、人を愛するために、掟を守る」ことが大事なのです。神様を愛し、人を愛するために、私たちにはそれなりの掟が与えられていると分かれば、私たちの生活はすっかり変わるわけです。「奴隷」から解放されて、「自由な人」になれるのです。

教会の教えに、「天主の十戒」というのがあります。この掟を、「ただ守るために果たす」のであれば、たかだか十の掟でも、煩わしいもの、目障りなものになることでしょう。ですが、神様を愛し、隣人を愛するためにこれを守ると考えれば、これくらいのことは当然と感じるようになります。

 ここら辺が分かっている人は、もはや十戒の奴隷ではなくて、十戒を守る自由な人間になれる。イエス様は、今も、「わたしが、『分かりやすく』してあげるから、ついて来なさい」と招いているのです。

 

 

2 イエスは人と社会を解放した

 

 次に、イエス様が「人」と「社会」を解放していくさまを見ていきましょう。まずは、聖書を読んでいただきます。

 

13:10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。

13:11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。

13:12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、

13:13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。

13:14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」

13:15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。

13:16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」

13:17 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。

 

 ここで私が取り上げたいのは、イエス様が二つの点で解放を知らせたということです。最初は、腰の曲がった女性に、次いで、会堂長を含む群衆に、解放が告げられます。

 腰の曲がった女性の解放から考えてみましょう。人々は、この女性をいくらか同情しています。十八年間も病に痛めつけられていたからです。けれども、誰も、その痛みや苦しみにじかに触れようとはしません。「あー、かわいそうに」と思うだけです。

 もちろん、何もしてやれないということもあるでしょうが、イエス様の言葉は、どうも、「何かこの女性にしてあげることができたのではないか」と考えさせます。イエス様はこう言っています。「安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。

この言葉は、イエス様がご自分に向けられた言葉でしょうか。私はどうも、会堂長をはじめとする、反対者たちに向けられた言葉のような気がしてなりません。「あなたたちはなぜ、この女性に何もしてあげなかったのか」という、責任追及の言葉のような気がします。

 群衆の中にいて、今このときも病気に悩まされている女性を、まわりの群衆は誰もイエス様に取り次ごうとしませんでした。かわいそうにと心から思っているのなら、「イエス様、どうか、この女性にあわれみをかけてください」と言って、女性を紹介することもできたはずです。そういう意味で、何もしようとしない群衆に、イエス様はイライラしているのではないでしょうか。

 「かわいそうに」。心の中の思いは、大切な出発点ですが、どうしてそれを、分かりやすく態度で表さないのでしょうか。どうして、「かわいそうに」で終わってしまうのでしょうか。イエス様にはそれが我慢ならないのです。

 イエス様はきっぱりと、「婦人よ、病気は治った」と言い切ります。言うだけではなくて、実際に治してくださいました。イエス様は、「かわいそうに」と思ったらもう一時も待たずに、手を差し延べてくださるのです。それが人の生き方でしょう、違うんですか?と、私たちに態度で問いかけているのです。

あなたが心に思ったことは、躊躇せず、実行しなさい。人の目を気にして弱腰になってはいけない。世間体や、誤解される、偏見の目で見られる、その他あらゆる雑事の奴隷から、自由になりなさい。人はもともと、神様から自由な生き物として造られたんだよ。こんな事を知らせようとして、一人の女性に解放を告げ知らせたのです。

 もうひとつの、群衆に告げられた解放に移っていきましょう。これは、社会に解放が告げられた出来事と言ってもいいのですが、社会のしきたりの奴隷になっている人の言い分はこうです。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」。

 安息日という言葉がでたので、昨年八月にイスラエル巡礼に行ったときの体験をちょっとここでお話ししておきます。イスラエルという国は、今でもユダヤ教の習慣がそのまま生きている国で、安息日も今も昔と変わりなく守られています。

 安息日は、金曜日の夕刻から、土曜日の夕刻までなのですが、金曜日の夕方、空に星が三つ見えたところで、安息日が始まるのだそうです。そしてこの安息日の守り方が中途半端じゃないんですね。

 まず、いっさいの労働をしません。私たちが「何だよそれくらい」と思うようなことも、いっさい手を触れないのです。電気のスイッチをつけたり消したりすることは立派な労働ですし、エレベーターに乗って、自分が行きたいところのボタンを押すことも、決して彼らはしません。

 もちろん敬虔なユダヤ人は、金曜の夕刻から、土曜の夕刻まで、絶対に外出しません。簡単な話、何もしないのです。これには驚きました。これ以上詳しい話は、長くなるのでしませんが、イスラエルという国が、安息日には止まってしまうのです。

 そう言ったわけで、いっさいの労働を休めと命じられた安息日を盾にとってイエスさまを攻撃しているのですが、会堂長はじめ、反対者たちは皆、自分たちが安息日の精神を「分かりにくくしている」ことに気がついていません。

 イエス様はその矛盾を、牛やろばに安息日であっても水を飲ませに行く例で反論します。「あなたたちの言っていることが、安息日を矛盾だらけの日にしていることが分からないのか」というきつーいお叱りの言葉です。

私たちも、言っていることとしていることの矛盾で、もともとすばらしいものなのに、それを台無しにしているということがないでしょうか。例えば、ミサの共同祈願なんかで、「弱い立場にある人を思いやる心を持ちましょう」なんて大声で唱えているのに、実際にやっていることは矛盾だらけということはないでしょうか。

私は、二年ほど前から、黙想会の話を前もってテープに取って、必要な方々にお分けできるようにしています。黙想会の始まる日には、「あらかじめ録音したテープがあります。家で寝たきりの人や、病院に入院、ホームに入所している人がおりましたら、このテープを聴かせてあげてください」とお知らせしております。

最初にテープを録ろうと思ったときに、こんな事を考えたんです。「私は、こうして黙想会の中で話をしているけれども、話している教会で、実際に御堂に集まって自分の耳で聞く人は、どれくらいいるのだろうか。もしかしたら、病人や、病気ではなくても、教会まで足を運べない人たちも、かなりいるのではないだろうか」。

考えているうちに、どうしてもテープを準備しようという気持ちになっていきました。「話を聞きたくても聞けない人もきっといるはずだ。そんな人に、『あなたは病気なんだから、黙想会の話は聞かなくても良い』とか、『あなたは入院しているんだから、仕方がない』で終わらせてはいけない。私はその人たちまで話を伝えてあげないと、黙想会の説教をしたことにならない」そう思うようになったんです。

実際そうだと思います。黙想会で話すことは、小教区のみんなに聞いてもらいたい話です。健康で、黙想会に自分の足で教会まで来ることのできる人だけが、話の相手ではないはずです。一人残らず、すべての人に話を伝えないと、私は務めを果たしていないと思うのです。

これは、思いを伝えたいというひとつのしるしです。それも、「分かりやすく示す」しるしのつもりです。この教会の信徒すべてに、黙想会の声を届けたい。それを、私のほうは分かりやすく示しました。あとは、皆さんがそれに答えてほしいと思います。

「弱い立場にある人を思いやりましょう」。掛け声は立派です。だったら、目の前にいる弱い立場の人に、黙想会の声を届けてあげてください。掛け声だけで、それを態度で「分かりやすく」示してくださらないと、あなたのせっかくの良い心がけも、「分かりづらく」なってしまいます。

「自分の両親は、弱っていて黙想会に来れない。かと言って、カセットテープを回すことも一人ではできない。どうしたものだろうか」。あなたが、カセットの機械を持ち込んで、指一本触れたらいいことじゃないですか。「今年の黙想会では、教会に行くことのできないあなたにも話を聞いてもらいたいんですよ」というのを、「分かりやすく」態度で見せてあげてください。

私たちはこういった具体的な態度で、鎖につながれている社会に解放をもたらすことができると思います。社会にいる弱い人たちは、周りの人たちから、知らないうちに不自由にさせられていることがあります。例えば、「参加できなくても仕方がない」「病人なんだから、知らなくていい」というようなことです。

本当に、病人は参加できなくていいんでしょうか。一工夫すれば、かなりのことに、十分に参加できるようになるのではないでしょうか。私たちが、「社会の仕組みはこんなもんだ」と、勝手に決めつけて、もう一歩踏み込んだ努力をしないので、社会の中で解放の恵みにあずかれない人が出てくるのではないでしょうか。

イエス様はこういった社会に挑戦状をたたきつけます。「私は社会のしきたりから、人を解放します。安息日は、十八年病気で苦しんでいたこの女性にも、安息日だから仕方がないと思っている群衆にも、恵みの日であることをいま示します」。

私は、小学生の頃、急に思い立って日曜日に竹馬を作ろうと竹藪に入って適当なものを鋸で切り倒したことがあります。何のことはない、ただ遊びたい一心で切り出していたんですが、いつの間に近くに来たのか、母方の爺ちゃんが私のそばに来ていまして、「日曜日やろうが」と、きつく叱られたことがあります。

最後まで様子を見れば、私が仕事のために竹を切っているのか、遊びで鋸を使っているのかくらいは分かったはずですが、それでも爺ちゃんには、「労働をしている」ように見えたのだと思います。私は、すぐにこれで竹馬を組んで、遊ぶんだ、そればっかり考えていたのですが、注意しないと、「掟を守るための掟」がいつの間にか現れて、あれはダメだ、これはダメだと言い出すのです。

ここに、一人きりの高齢者がいるとしましょう。日曜日くらい気持ちいい一日を過ごさせたいと思って、婦人会で出かけていって、掃除・洗濯・料理、もしかしたらお風呂の世話まで、日曜日に奉仕したとします。これって、告解の材料になりますか?「日曜日に洗濯をしました」「日曜日に縫い物をしました」あー気持ち良かった。あーすっきりした。解放感を味わい、喜びいっぱいで残りの時間を過ごすことができる。それでもあなたは、この人に罪を認めますか?

毎週日曜日に洗濯をせろと言ってるんじゃないんですよ。「神様、今日はスカッと爽やかになるために、洗濯しますよ」。そう言って、日曜日に洗濯をすることがあってもいいじゃないですかと言っているんです。違いますか?

聖書の安息日から、「日曜日」を例にとって話しました。イエス様は、「安息日」を「誰もが解放される喜びの日」として、腰の曲がった女性を治しながら「分かりやすく」示してくださいました。安息日なのに、日曜日なのに、ミサに来てもあんまりうれしそうな顔をしていないなら、分かりにくいんです。

あるいは、自分たちは教会に来るけれども、病人は教会に行けないから仕方がない。教会で受ける恵みの何分の一かでもあずからせたらいいのに、そのための努力もしない。そんなことでは、「あなたにも、私にも、神様は日曜日の喜びを与えてくださるんですよ」というメッセージはほとんど伝わらない。ほとんどの場合、私たちが信者ってどんな人間なのか、分かりにくくしているんじゃないでしょうか。

いろいろできると思うんですよ。ミサにあずかれない人のところに行って、その日の日曜日に朗読された聖書を読んであげて、主任神父様がお話ししてくれたことをかいつまんで話してあげることもできます。太田尾の信者さんの中には、ご丁寧に毎週の説教をテープにとって、寝たきりの妻に聞かせてあげているという旦那さんもいます。

皆で手分けして、「よきおとずれ」(教区報)を日曜日に持っていって、具合を確かめるとか、できることはいっぱいあるんじゃないでしょうか。

 

 

3 解放は、すぐには実を結ばなかった

 

さてイエス様は、神への信仰はもちろんのこと、人としての生き方や、社会生活の中にも、ご自分の態度をしみ通らせようと身をもってお示しになりました。それをひとことで言えば、「分かりづらくなってしまったものを、もう一度分かりやすいものにする」ということでした。

いろんなことが「分かりづらく」なっていました。掟は613にも膨れ上がっていたし、十八年も病気に縛られていた人に、手を差し延べてあげる人はいなかったし、病気を治しても「安息日にこんなことは許されない」と言われ、社会全体も規則にがんじがらめでした。

紹介はしていませんが、ほかにもたくさんありました。「あなたの罪は赦される」と言って、罪からの解放を宣言すれば、「あの人は神を侮辱している」と言われました。結局、イエス様がいろんなことを「分かりやすく」しようとすればするほど、イエス様を良く思わない人々から抵抗を受けたのでした。反対者たちは、「古いぶどう酒のほうがよい」すなわち、「分かりづらいままで構わない」と考えていたのです。

決してそうではありません。信仰生活は、できるだけ単純明快、分かりやすいほうが良いに決まっているのです。

すべてを「分かりやすく」しよう、そう願ってイエス様が一つひとつの業を行われているのに、なかなか実を結ばなかったのはなぜでしょうか。答えは明らかです。「分かろう」としなかったからです。イエス様に心を開いて、イエス様の「解放のみ業」に身を委ねないからです。

 

6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。

6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。

6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。

6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。

6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。

6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。

 

すべての人が物分かりが悪かったわけではありません。イエス様をすぐに信じた人たちもいました。十二人の弟子たちを始め(ヨハネ2:11)、しもべの病気を治していただいた百人隊長(マタイ8:13)、息子の病気を治してもらった王の役人(ヨハネ4:53)、生まれつき目の見えなかった人(ヨハネ9:36)など、かなりの人がイエス様の「解放のみ業」に心躍らせたのです。

どこがどう違っているのでしょうか。決定的な違いがあるとすれば、それは、「イエス様への徹底した信仰」だと思います。神様は愛深いお方で、私たちは神様に愛されている。その神様が、御子イエス様を遣わして、私たちを解放しに来られた。いろんないきさつがあって分かりづらくなっていたすべてのことを、イエス様は「分かりやすい」ものにしてくださった。この人にすべてを賭けてみよう。そう信じて、すべてを委ねていった人たちは、イエス様に救われ、「自由な人」になったのです。

私たちはどうでしょうか。心の底から、イエス様を信じて、「イエス様に自分を委ねれば、分かりづらくなっていた私の心を解放し、自由にしてくださる」と、今この時点で感じているでしょうか。

日曜日、ミサに行かない。朝晩の祈りを、決して唱えない。自分でどのようなもっともらしい説明を付けるのですか?信仰はミサだけじゃない?そりゃあそうかも知れませんが、ではあなたなりに、「分かりやすく」あなたの信仰を示してください。

祈らないあなた。きちんと筋道立てて、「だから祈らなくても私は分かりやすい信仰生活をしているのだ」と説明してみてください。できないです。そんな回りくどいことをして、自分で分かりづらい信仰生活を送っているのに、神の前にも人の前にも、「分かりやすく」自分を説明するなんて不可能です。

「分かりやすい」信仰生活に、自分の身を置いてください。簡単なことです(じつは簡単ではないんですが)。徹底的に、キリストに心を開けばよいのです。

 

 こんな祈りはどうでしょう。名付けて、「分かりづらい祈り」です。

 

「私の隣人愛は分かりづらい。同情するけれども、いろいろ理由を探して、すぐに手を差し延べない。私の使徒職は分かりづらい。あれこれ言い訳をして、役員を引き受けようとしない。私の回心は分かりづらい。罪を心から嘆くけれども、赦しの秘跡は何年でも、何十年でも放っておいたままだ。私は、とにかく分かりづらい人間なのです。どうかこんな私ですが、あなたの解放の恵みで、『分かりやすい』人間に変えてください」。