主日の福音1992,11,15

年間第三十三主日(Lk 21:5-19)

終  末

「滅び」ではなく「完成」で終末は来る

 

教会の暦も、今日を含めて残すところふたつの日曜日だけとなり、一年をとおして眺めてきた救いの歴史も、いよいよ最後のときを準備する「場」へと移ってきました。今日は終末についての教えを福音からもういちど思い起こし、各自の備えについて見つめ直すことにいたしましょう。

 

イエス様は、見事な神殿に見とれている人々に注意を呼び起こしながら、世の終わりについて語り始めます。人々はこのすばらしい神殿にすっかり心を奪われているのですが、イエス様はこの建物ですら、壊れるときがくることをはっきり教えられました。人々にとってそんなひどいことが起きるのは、世の終わりのときに違いないと考えたことでしょう。ルカが描くイエス様は、世の終わりについて語るために、神殿についての歴史的出来事を切り出しにしています。

 

ここから、イエス様は終末をどのように迎えるべきか、具体的な態度を教えていかれます。「惑わされないように」「おびえないように」「人々の前に連れ出されても、慌てないように」などのことです。「世の終わりはすぐには来ない」と仰っていますので、今、すぐにということではありませんが、わたしたちの心を惑わし、おびえさせ、慌てさせることがらは次々に起こるので、それを正しく見抜く目をもつようにと諭しています。どこを見ていればよいのでしょうか。

 

今日の福音では、「わたしの名」という言い回しが、三回用いられています。「わたしの名を名乗る」が一回、「わたしの名のために」が二回です。この点は、世の終わりを正しく描くために、一つの見方を教えてくれます。すなわち、「わたしの名」を名乗る者が大勢現れても、まだ世の終わりではない。「わたしの名のために」迫害が起こっても、両親、兄弟のあいだで分裂が起こっても、まだその時ではない、ということです。むしろ反対のことをわたしたちに考えさせようとしているのではないでしょうか。

 

「わたしの名」「イエス様の名」が、分裂をもたらすものでなく、むしろ一致と調和をもたらすものとなったとき……。その時が実は、世の終わりを知らせるしるしだと思います。イエス様によってすべてに調和が保たれ、もはやイエス様のうちにあって分裂のない世界。これが、イエス様が示そうとする世の終わりの姿だといえます。世の終わりをこのように描くなら、福音の勧めは、わたしたちに前進する力を与えるものとなってきます。

 

ときとして、社会の不安を示すような出来事、ニュースを見聞きするとき、この世界は、いったいどうなるのだろうと考えると思います。わたしたちは生きながらえるのだろうか、明日はやってくるのだろうか。多かれ少なかれ、そのようなことを考えさせる事件が世界中で起こっています。こんな社会にあって、前に進むことは危険なこと、深く関わることは愚かなことと思えるかも知れません。

 

こんなときこそ、わたしたちは、出来事を正しく見る目を持っていたいと思います。キリストの名に照らして、それは分裂をもたらす出来事だろうか、あるいは一致、調和をもたらすことがらだろうか。このような見方に立つとき、わたしたちは出来事に対して必要な態度を取ることができると思います。

 

分裂がもたらされているのであれば、一致に向かうためにわたしにできることをする。活動できる人は活動を、祈ることのできる人は祈ることで、一致へ向かうように社会に働きかけます。それは、わたしたち一人ひとりのつとめ、わたしたち一人ひとりが世の終わりに関わっていくことのできる確かなしるしです。世の終わり、世界の完成は、わたしたちの側からも、キリストにおける一致のためにあらゆる動きをおこすとき、少しずつ進んでいくのです。

 

こんなことを話してくれた方がいました。「神父様、近ごろは世の中が乱れて、信仰か薄くなっております。神様は悲しんでおられるような気がします。世の終わりが近いのではないでしょうか」。

 

本当に、この方の気持ちは良く分かります。わたしは、こんな言葉をかけることにしました。「あのね、社会が不安になれば、それだけ神様の導きが必要になってくるわけですから、多くの方々に心の平和が与えられるように、お祈りしないといけないと思いますよ。『世の中が平和になりますように』というあなたのお祈りが役に立っている間は、まだ終わらないのではないでしょうか?」

 

一致のために、わたしたちの祈りが必要とされる社会は、今もなお続いています。わたしたちは、「神の国の完成を願いながら」主の祈りを唱えたりします。それは、言い換えれば、世の終わり、この世界の完成を求めていく祈りです。こうした日々の祈り、働き、犠牲が、終末につながるおこない、イエス様による完成に協力するおこないであることを思い起こし、地道に続けていきたいものです。

 

一致に向かうおこないは、いのちを脅かされるような迫害にあっても、必ず実を結んでいき、人がそれを妨げることはできません。忍耐強く、わたしたちを含めたすべての人がキリストのいのちに与れるように、努力してまいりましょう。そうして、福音の最後の言葉を、わたしたちのうちに実現することにいたしましょう。

 

「忍耐によって、あなたがたはいのちをかち取りなさい」。