主日の福音1992,11,08

年間第三十二主日(Lk 20:27-38)

復  活

よりよく生きる姿は、復活の先取り

 

今日、イエス様は、復活についての正しい教えを示してくださいました。私たちもイエス様の言葉に耳を傾けながら、復活についての教えをもう一度思い起こし、希望をあらたにすることにいたしましょう。

 

今日の福音で、イエス様が置かれていた立場は、復活はないと言い張る人々と、復活を信じてはいるけれども、十分に理解していなかった人々が集まった場所でした。サドカイ派の人々は、モーセの教えとして集められたモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は信じていましたが、そのあとの旧約の書物から知られるようになった死者の復活は信じていませんでした。ファリサイ派の人々はというと、復活した後の姿を、今の生活から推し量って考え、どこまでもこの地上の生活の延長線上に置いてしか理解していませんでした。

この二つのグループは、これまでも多くの議論を交わし、互いが互いを牽制しあっていました。けれどもそのどちらも、互いに攻撃しあうのをやめるだけの十分な説明を持っていませんでした。そこで復活についての正しい教えを持っておられる、唯一のお方、イエス様に、彼らはその答えを求めたのでした。

 

イエス様はどのように答えてくださったのでしょうか。イエス様は、サドカイ派とファリサイ派、どちらにもその過ちをただす答えを示されました。復活は確かにあるということ、そして、復活にあずかった人々は、地上の生活から解き放たれるというのが、大きな点です。さらに加えて、人は神によって生きている、生きつづけるものだということも、この論争の中で示そうとしておられる点です。それぞれについて、しばらく考えてみましょう。

この地上の生活で、結婚して子孫をを残すことは、人が生き続けるためにぜひ必要なことです。子孫がなければ、家系は途絶え、財産も手元から離れていくからです。旧約の掟は、そのために家系を保護する掟がありました。夫が子供を残さずになくなった場合、夫の兄弟がその妻と結婚して、前の夫のために子孫を残してあげるという規定(レピラト婚)が、その例です。こうして家名を残し、財産が人の手にわたるのを防ごうとしていました。人が生き続けるための、地上的な方法だと言うことができます。

 

イエス様はこのような人間的な方法が、復活にあずかった人々の間では当てはまらないことをはっきり示しました(35節)。復活にあずかった人々は、死ぬことがありませんから(36節)、子孫を残すことに縛られないのです。人が生きつづけるために、もう結婚によることなく、神様から新しい方法で生かしてもらえるのです。神様はどのように、人を生かしてくださるのでしょうか。

今日の最後の箇所で、イエス様は、「ああでもない、こうでもない」とだけ言わずに、復活の恵みにじかに触れています。「すべての人は、神によって生きているからである」(38節)。サドカイ派やファリサイ派の人々に負けず劣らず、主のみことばに、今日の福音のまとめを求めてみましょう。

 

イエス様は、人が生きているのは、それぞれの力によって生きているのではなく、神の恵みに支えられて生きていることを思い起こさせようとします。復活は、その命の担い手、命そのものである神をはっきりと理解する恵みだということです。なぜなら、人が死んで、なお生きるということがあるのは、ひとえに神様のおかげだからです。神様にすべてを負って、その支え、照らし、導きによってのみ、死者も生きているといえるからです。

このように復活が、神様に全面的に頼って生きることだとすれば、この地上の生活でも、いち早く復活の恵みを感じて生きることもできるはずです。身近な体験を、復活への信仰に結びつけて受けとめ、理解していくときに、そのようなことが身についていくのではないでしょうか。

 

一つの例を申します。母方の祖母がなくなったときのことです。静かに、眠っているようにしている祖母を間近に見て、まず思ったことは、「あー、ばあちゃんとはもう話もされんなぁ」ということでした。息一つせず、まわりの雰囲気も知らないかのように、じっと眠っています。「ばあちゃん、どこか痛か所はなかね、さすってやろうか」。前にはそう言ったこともあったのですが、もう何も聞いてもらえない。寂しいなあと思いました。

あとで考えたことですが、あのときの直観みたいなものは、何かを言い当てていたと思います。つまり、「そうだよ。君のおばあちゃんはね、神様がすべてお世話することになったから、もうお話しできないんだよ」ということです。神様によって生きるということを、今こそ肌で感じているので、わたしたちの声が届かないのかも知れない。振り返ってそう考えるのです。

 

今でも、亡くなられた方の静かな顔を眺める癖があります。それは興味本位ではなくて、本当に、声をかけても答えない、その姿に、神様と向き合っているさまを見ることができるからです。こんなに安らかに眠っている。やっぱり神様は、この人を呼んで、ご自分のもとで生かそうとしておられるんだなぁと、つくづく思うのです。

わたしたちも、さまざまな立場におかれて生きています。息苦しいと感じているかも知れません。「世の中住みにくい」と言うかも知れません。けれども、生きているということは残ります。たとえ、ゆとりや、安定した生活や、まわりからの世話が取り上げられても、わたしが今生きているという事実は残ります。それこそ、神様が生かしてくださっている何よりの証拠です。それを忘れて、「神なしでも生きられる」と自分を欺くより、どれだけ幸いなことでしょうか。

 

今日も無事に、一日が終わります。生きているというすばらしさを、復活の信仰に照らして、もう一度見直すことができるよう、ミサの中で祈りましょう。