主日の福音1992,10,25

年間第三十主日(Lk 18:9-14)

深い祈り

思わず聞いてあげたくなる祈り

 

今日、イエス様は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14節)と仰しゃって、神様が喜ばれる態度について教えておられます。そこで、神様が好まれる基本的な態度について考え、私たちの生活はこれと重なり合うか、ということについて考えてみたいと思います。

 

はじめに、私たちの生活について考えてみましょう。私たちの毎日の生活は、いろんな材料が組み合わされて成り立っています。そこには三度三度のことがありますし、たまに起こる出来事もあります。滅多にないこともあれば、いついつと決まってやって来る事柄もあるでしょう。それらがうまく組み合わされてはじめて、安定した生活を送ることができます。

きょう登場するファリサイ派の人と徴税人は、「祈るために神殿に上った」(10節)とあります。とくにファリサイ派の人の祈りの言葉から想像して(12節)、安息日の土曜日に神殿に詣でたのでしょう。私たちにとっての「日曜日の務め」に当たります。二人は、この一週間、どのように過ごしてきたかを、神様の前に報告しています。それぞれ、どんな祈りをしたのでしょうか。

 

ファリサイ派の人の祈りの端々には、人を何となく不快にさせる言葉が見受けられます。「これこれの人でもなく、ましてやそこでコソコソしている徴税人のようなものでもないことを感謝いたします」。まるで、「さぁ、近くへ来てください。正しい人とは、わたしのような人のことです」と言っているかのようです。

(こんな祈りを聞かされる神様も、たまったものではありません!)

徴税人の祈りはどうでしょうか。彼はファリサイ派の人のように、一週間でなしとげたあれこれのことを言うわけでもありません。一週間もあれば、いろいろあったでしょうに、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」というのが精一杯でした。「これだけの材料があるから、神様に喜んでもらえるはず」そんな、計算めいたところはなかったのです。

 

ここで私たちは、二人の祈りに耳を傾けている、神様の側に立ってみる必要があります。神様は恵みをくださるのにやぶさかではありませんが、恵みはいつも神様がただで与えてくださるものです。たとえ、どんなにすぐれた行いがあっても、そのおかげで恵みがもたらされるわけではないのです。

人によっては、一週間それこそ数え上げることができないほどの功績をたてる人もいるでしょう。ファリサイ派のこの人の行いも、たいていの人には真似のできない、あっと驚くわざだったのですが、悲しいことに、彼はこのわざを、神様との取り引きに使おうとしたのです。わざで、恵みをとりつけようとしたのです。

これでは、本当に祈ることはできないでしょう。

 

自分で自分の行いを褒める人に、神様は必要ありません。神様がいなくても、両手を大きく広げ、たとえば神殿でなくても堂々と感謝するのです。その祈りは、自分に向かっての祈りですから、そこに神様がいてもいなくても構わないのです。まったく、自分中心で、とんでもない祈りです。祈るためにやってきたのに、隣には真に祈りの心に満ちた徴税人がいたのに、彼は祈りを学ぶことなく、自分で勝手に満足して帰って行ったのでした。

徴税人は、逆に、私たちに祈る心を教えてくれます。「あなたが今のわたしに用意しているものを、神様、与えて下さい。罪の償いでもかまいません。もし、聖心でしたら、神様、罪人のわたしを憐れんでください」。彼の場合、自分の立場が祈りに結びつきました。人から軽蔑され、罪の深い淵から逃れられないでいたことが、神に心を開く機会となったのです。

 

ときおり、長いあいだ赦しの秘跡から離れていた人がやって来ることがあります。自分の生活を正直に振り返って、これではいけない、残る日々を神様の前に誠実に暮らしたい、そう考えてやって来ます。長い人生の総決算をするために、総告白をする人もいます。

26歳のなりたての神父では、適当な言い聞かせなど言えるはずもありませんが、精一杯の気持ちで、「本当に良かったね」とだけ言い聞かせたりもします。そんなときなど、告解を聞いているほうがかえって心洗われるということもあります。彼にとって告白は祈りであり、神様と真正面から向き合う、またとない機会となっているのだと思います。

どんな償いでも、神が望んでおられるのなら喜んで果たそう、そんな開かれた心の告白者を前にして、「本当に、いい体験をしているなぁ」と、この人のことを喜んであげるのです。見失った羊を見つけた気持ちが、本当に良く分かります。

 

ある子供が、あわてて要理の準備をしてやってきたわたしに、次のように尋ねました。

 

「神父様、今日はリレーと映画、どっち?」

「どっちでもなかさ、勉強たい」。

 

わたしは内心おかしくてたまらなかったのですが、この子はわたしの心を微妙にくすぐってきました。どちらを選んでも、子供は得します。わたしはわたしで、「その方がこっちも楽は楽だな」と、ちょっぴり思案させられます。

 

「思わず聞いてあげたくなる」、そんなすなおな願い、すなおな祈りが、今日の徴税人の祈りの本質ではなかったでしょうか。私たちも、祈りに始まって、生活全体が、「思わず手を貸したくなる」「つい助けてあげたくなる」そんな神への信頼と委託に満ちた一日となるよう、行いの一つ一つをととのえてまいりましょう。そのための恵みを、今日のミサの中で祈ってまいりましょう。