主日の説教 1991,10,27
年間第三十主日(Mk 10:46-52)
視力の回復
主よ、私たちを見えるようにしてください
今日の福音は、目の見えない人の癒しを通して、私たちを真のイエズス様の姿に出会わせようとしています。このバルティマイという盲人の癒しの場面を再現することで、私たちも、イエズス様から「見えるように」していただきましょう。
マルコは、盲人バルティマイにいくつかの役割をもたせようとしています。たとえば、彼は盲人であると同時に、人々のあわれみにすがって生きる物乞いでもあります。また彼は、エリコの人、すなわち神によって救われるはずのイスラエル人の住む町の人です。そしていちばん大事なことは、彼はイエズス様の真の姿を信仰によって捉えている数少ない人の一人なのです。
おそらく、これだけの説明では、なるほどとうなずかれる方はいないと思います。もう少し噛み砕いて言いましょう。マルコがここに描き出したバルティマイとは、あわれみを必要としている人であり、なかでも神によるあわれみを必要としている人であり、それを受けるに十分な信仰を持っている人なのです。
私たちは、イエズス様によってまもなく癒されるこの盲人と、自分自身を重ね合わせる必要があります。説教の初めに、「見えるようにしていただきましょう」と呼びかけたのを、他人事のように聞いていた人は、耳の掃除をしてよく聞いてください。そうです。私たちの目は見えないのであり、イエズス様によって見えるようにしてもらう必要があるのです。
「いや、自分の目は見える。その証拠にイエズス様に従っている。」そう思っている人は、残念ながら、今日の福音で登場する弟子たちや群集と同じ人々なのです。すなわち「誰がいちばん偉いだろうか」と互いに議論し、「イエズス様が王になられたときは、ぜひその右と左に座りたいものだ」などと名誉心をむき出しにしている人々の一味なのです。
こんな人にとって盲人の叫びはうるさいだけであり、迷惑でしかありません。イエズス様の手を煩わせるくらいなら、自分たちでこの盲人を黙らせてやりたいのです。ところが、イエズス様の態度は群集の予想をくつがえすものでした。
「あの男を呼んで来なさい。」当然、そこにいたすべての人の注目を浴びながら、イエズス様のところまで近寄ったことでしょう。こうして彼は、すべての人が願い出るべき神からのあわれみを、真っ先にイエズス様に求めたのです。
イエズス様は盲人に尋ねます。「何をしてほしいのか。」もちろんイエズス様は、盲人が夢にまで見た願いを、知らないわけではありません。そうではなくて、ご自分にすべての希望を託しているこの盲人の声を、まわりにいるすべての人々に聞かせたかったのです。キリストに救いを求めるこの盲人が、実は私たち一人ひとりであることに気付いてほしかったのです。
盲人の願いはただ一つ、目が見えるようになることです。マルコはおそらく、実際の視力の回復を言おうとしていると思われます。けれどもその際、人々の注目を集めるしかたで癒していただいています。したがってマルコは、バルティマイに起こったことは、そのまま、そこにいたすべての人が同時に体験した癒しでもあると言いたいのです。
今日は、是が非でも福音の出来事を体験してほしいと思って、あれこれ考えたあげく、実際の現場を再現してみることにしました。今からわたしがバルティマイに成り代わって、大声であわれみを乞いますので、みなさんなら、この声にどう反応するか、自分なりの答えを出してみてください。
「ダビデの子イエスよ、
わたしを憐れんでください!」
「ダビデの子よ、
わたしを憐れんでください!」
「先生、目が見えるようにしていただき たいのです。」
盲人バルティマイに、あなたはどんな思いを抱いたのでしょうか。やっぱりうるさいから、叱りつけて黙らせようとしましたか。それとも、心からあわれに思って、いたわってあげたい、慈しみの手をさしのべてあげたいと思ったのでしょうか。もしあとのほうの態度であれば、あなたは盲人と同じ体験をしたのです。
キリストは、この盲人の信仰の叫びを受けとめられました。
私たちの主は、エルサレムへの旅を、なおも続けられます。福音記者は、イエズスが、栄光へと至るエルサレムへの道のりを、孤独のうちに歩んでおられることを暗示しています。人々は群がっていますが、そこには誰も、イエズスの思いを知ってついていく人はいないのです。ただバルティマイだけが、信仰のうちにイエズスと道を同じくしています。イエズス様に見えるようにしていただいた彼だけが、イエズス様に従って行ったのです。
幸いに今日私たちは、教会こぞっての大きな行事を行おうとしています。たとえば、一致とお互いの交わりという、共通の目標を実現するバザーであってほしいと思います。わたし個人の目的を達成するためではなく、いくつかのすぐれた目標を達成できるように、目標を見据える目を開けていただけるように、そのための恵みを、今日のこのミサの中で祈って参りましょう。