主日の福音1993,10,24
年間第三十主日(MT 22:34-40)
神を愛するために
私たちには神の愛が刻まれている
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な掟である」(MT 22:37-38)。律法の専門家への、イエスの確信に満ちた答えです。このイエス様の答え、私たちへの呼びかけを繰り返し唱えながら、御父を捜し求めることにいたしましょう。
今日の説教を準備しながら、今週ほどいろんな場面で神様に材料を準備してもらったことはないのではないか、と思いました。洗礼の準備をしている人の勉強の中で、神様は愛にあふれておられて、その愛のあふれから、人間をお造りになったということを考えましたし、土曜日の晩には、中学二年生の要理の中で、ちょうどイエス様が残された掟「愛しなさい」という掟を勉強しました。どちらも、神様が先に、私たちを深く愛してくださった事実があります。その愛の深さは、誰にも言い表すことができません。
イエス様が「神を愛しなさい」というときの言い方は、「もうこれ以上自分にはできない」という、私にできるすべてを求めているものだと思います。正直に言うと、私たちは普段はほとんど、「もうこれ以上できない」というようなところまで自分を持っていくことはしないものです。「これくらいにしよう」とか、「これだけやればいいさ」という程度です。何も残すものがないという体験は、ほとんどの人にとって一生に一度あるか、ないかではないでしょうか。それを、神様はご自分への愛し方に当てはめようとします。神様を愛するために、私たちはすべてを傾けないといけないのです。
けれども、この点をもう少し考えると、私たちがそれだけ深く愛されていることにも気付きます。神様はご自分の愛を受けてくれる相手を捜し、捜し求めて人間をお造りになりました。神の無限の愛、汲み尽くせない深い愛を受ける相手として、私たちは神様に選ばれたのです。もちろん、完全な愛を受け取ることができるのはイエス様お一人ですが、このイエス様が命をかけた唯一の生き物は人間だったのです。ご自分の愛をすべて人間に注ごうとした。ここに神様の深い愛があると思います。
人間それ自体は、決して神様の愛を受け取れるだけの生き物ではありません。けれどもそれを知った上で、神様はすべてを投げ出して愛してくださいました。私たちがその愛に答えようとするなら、それは今日のイエス様の言葉のようにしか言いようがないわけです。
神様が人を造ったときに、深い愛を注いだということを、一つの実例で考えてみましょう。私たちの手のひらには、どうして指が五本ついているのでしょうか。みなさんはかけ算の九九をよく知っていると思います。もしも、かけ算を「五」の段までしか知らなかったとしたら、どうでしょうか。生活はとても困ると思います。ところが神様は私たちの手のひらに、「五」の段までのかけ算で、その上の段「六」の段以上の数を数えることができるような細工をしてくださいました。私はそれが、指を五本与えられている理由の一つだと思います。
ちょっと、かけ算の練習をしてみましょう。みなさん、顔を上げて、私の指を見てください。まずは「六」掛ける「九」をやってみます。「六」を、指一本のばした形で表すとします。すると「九」は、指を四本伸ばした形です。そこで、伸ばした指どうしを足して、閉じた指どうしを掛け合わせてみましょう。「六」掛ける「九」の答えは、伸ばした指どうしが「五」すなわち「五十」、閉じている指どうしかけあわせて「四」、あわせて五十四であることがわかります。
同じように「七」掛ける「七」は、伸ばした指を足すと「四」、すなわち「四十」で、閉じた指どうしを掛けると「九」だから、あわせて四十九になるのです。「八」掛ける「七」も、「八」掛ける「八」も、まったく同じように計算できます。かけ算を「五」の段までしか知らなくても、神様がこの指の本数を、五本と決めてくださったおかげで、九九を計算できるのです。
これほどすばらしく造られたことを考えるだけでも、人間がどれほど愛を込めて造られたかがわかります。これほど愛されてできあがっている私たちなのですが、生活の中では神様の期待に反して、愛を狭めてしまうことが多いのです。力の限り愛するように求めているのに、出し惜しみしたり、けちったりして、私たちは自分たちに秘められた可能性を、ちっぽけな枠でくくってしまうのです。
人に対する愛も、同じような形で限度をつける傾きがあります。仲の良い友達には、自分の大切にしているものを喜んで貸してあげることができるのですが、仲の良くない人、自分と気の合わない人には、たとえ貸してあげられるものでも、心の仲ではいやいやながら貸したりします。自分のことについては、たとえどんな失敗でも、自分自身で許してしまい、平気な顔をしていますが、人の失敗はなかなか許すことができません。ついこの前も、私はちょっとしたことで子供を叱ったのですが、もっと適切な言い方がなかったかなと、反省しているわけです。
「現実から出発して福音の芽生えを見いだす」。これはたった今開かれているナイスUの基本的な考えです。たとえば私だったら、今の現実と言うのは、この程度のものです。神様は行いで愛を示すよう、期待しておられます。それぞれ、「神を愛しなさい」「人を愛しなさい」という掟が、私たちを動かして、限度をつけずに愛する方へと導いてくださるように、心から祈ることにいたしましょう。同時に、ナイスUの為にも、続けて祈りましょう。