主日の福音1992,10,18

年間第二十九主日(Lk 18:1-8)

あの手この手

神はあらゆる手段で恵みを与える

 

今日の福音の箇所、「やもめと裁判官」のたとえは、新約聖書の中で私がとても好きな箇所の一つです。特に、この不正な裁判官には、なぜかしら親しみを覚えます。神様に媚び諂うくらいなら、かえって文句を言いそうな裁判官。人情のひとかけらもなさそうですし、同情するなんてことはこれっぽっちも期待できそうにない人物。想像するだけでも痛快です。

 

「まぁ!何とはしたない!」そう皆さんはお考えかも知れません。確かに今日の裁判官は、どうみても「けしからん人物」なのですが、それでも、イエス様にとってはこれ以上ないすぐれた例を与えてくれる人物です。イエス様のことですから、もっと別のたとえを持ってくることもできたでしょうが、「気を落とさずに絶えず祈ること」を教えるためには、彼が最も適した人物だったのではないでしょうか。

 

私が、とても好きな箇所、好きな人物だというくらいですから、やはり自分と共通する点、共通するものの考え方を持っているように思います。神を畏れ敬わない司祭、人を、あるいは信者さんをなんとも思わない司祭。言われてみれば、思い当たる節がないでもありません。

 

たとえば、松山競技場に走りに行こうと思っているときに、ある人が赦しの秘跡にこられたりします。ほんの一瞬ですが、「あーもう、こがん時に来て、やぐらしかね」と言いそうになることがあります。また、ミサの時間を電話で尋ねられ、受話器をおきざま、「いったいどこの信者やろうか」と心のなかで言ってみたり、数え上げればきりがありません。これだけでも十分に、「神を畏れず、人を人とも思わない司祭」が「出来上がる」わけです。

 

こんなわけですから、裁判官の心の動きは、私の心をもくすぐります。「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもなければ……。」神を畏れず、人を人とも思わない司祭は、「うんうん、そうだそうだ」と相づちを打ってしまうのです。

 

ところで、イエス様はたとえ話をするにあたって、いつも本当に言いたいことを用意しておられます。ここでも、けしからぬ裁判官や、彼に拍手を送る「けしからぬ」司祭が大切なのではありません。こんな人からでも、望めば、正しい裁判、確かな恵みをかちとることができる。この点がイエス様にとって大事なことなのです。それなら神様に夜昼祈る人なら、なおさらのことだと言いたいのです。

 

たとえ、怒られようが、自尊心を傷つけられようが、やっぱり神様は秘跡を通して信者さんに救いの恵みを与えたいと思っておられます。ですから、いつも希望を持って、教会の門をたたいてほしいと思います。門をたたき、事情を説明して、あとは神様にまかせてほしいのです。

 

不機嫌な顔をしているやも知れません。早く来ればなんともなかったことを、いよいよになって持ってきてしまって、頭ごなしに怒られるかも知れません。けれども、引き下がらず、かえって食い下がってほしいと思います。神様は今このときに、この司祭を通してあなたと出会おうとしているのですから。

 

福音に登場するもう一人の人物、裁判官の心を動かす一人のやもめを、もういちど眺めてみてください。彼女にできるただ一つのことは、正義が実現されることを繰り返し願うことだけでした。彼女は、願いがかなうかどうかには頓着していないようです。また自分にそれを願う当然の権利があると考えている様子でもありません。相手は不正な裁判官です。どう見ても不利なのです。けれども神は、こんな人を決して見過ごされないのです。

 

この女性は、やはり祈りの本当の力を知っていると思います。祈りは、神様を私の願っている方に動かす、そんな道具ではありません。むしろ、神様のみ旨が地上に行われるように願いながら、その中に私の願いを織り込んでいくものです。私の願いが見える形でかなうか、かなわないかというようなレベルではなくて、たとえば今私が置かれている立場に対して、あなたのみ旨を示してくださるよう願うこと。このような祈りこそ、神様を実際に動かす力を持っているのです。

 

今日は浦上教会をあげてのバザーが行われます。その中には、ふかし芋で店を開く司祭団も入っています。売れようが売れまいが、多分皆さんに声をかけ、何度も何度も勧めてまわるだろうと思います。「まあ、いっちょぐらい買ってやるか。さもないと、ひっきりなしにやってきて……」とお考えくだされば、それが、皆さんとふれあう場に多少なりとも役に立つのではないかと思っております。

 

「神様、教会をあげてのバザーが、たった今始まります。あなたの心の思いを示してください。参加するすべての人が、互いの親睦を深めようとしている今、バザーの成功を、あなたの手に委ねます。」今日は、こんな祈り、こんな願いで一日過ごせたらと思います。共に、ミサのなかで祈って参りましょう。