主日の福音1992,10,11

年間第二十八主日(Lk 17:11-19)

救い

真の救いは、神から来る

 

今日、イエス様は、救いの力が徹底して神様の側にあることを分かりやすく教えておられます。私たちも、「救いは神から来る」との信仰を学びとることにいたしましょう。

 

イエス様に癒しをこい求めた十人の病人は、ただ病をえて苦しんでいるだけではなくて、この病気のために、ごく普通の生活を奪われている人々でした。彼らは、まわりの人々から離れたところ、家族や親戚からも遠ざけられて暮らさなければなりませんでした。ですから、イエス様に憐れみをこい求める態度も、当然真剣になってきます。

 

病人の切なる願いに、イエス様は答えてくださいました。イエス様の言葉に信頼し、祭司のところに出かけて行った(レビ記13章)彼らの信仰は、病が癒されるに値する信仰でした。けれども、今日の福音で考えるべきことは、そのあとのことだと思います。神様の憐れみを受けたその後に、なにをもって答えるかということです。

 

一人のサマリア人のとった態度と、残る九人のユダヤ人の態度との間は、大きな差が見られます。サマリア人は感謝しに来ました。残るユダヤ人は、感謝の気持ちが起こらなかったのです。ここにはいろんな理由があるようです。

 

ユダヤ人にとって、神様の憐れみを受けることは、ある意味でごく当然なことと思われていました。神様から選ばれ、神様に愛されているはずの民ですから、たとえば今日のような病にかかったとき、神は当然助けの手を伸べてくださると考えていたのです。ですがサマリア人は、選ばれた民ではなく、外国人です。神様の憐れみを当然だと考える理由はどこにもありませんでした。

 

また、病が癒され、清い者と宣言されると、その人のもとの生活が保証されますが、健康を取り戻しても、ユダヤ人とサマリア人の違いはそのまま残ります。ユダヤ人が健康を取り戻せば、やはり選ばれた民の中に戻りますが、サマリア人はまたも外国人、神の救いから遠ざけられている人の一人になってしまうのです。

 

このような気持ちが、それぞれに働くとき、癒しのあとの態度が分かれたというのも、ある程度うなずけます。九人のユダヤ人は、癒しを体験したのですが、あいかわらずユダヤ人という出生に胡座をかくこととなりました。サマリア人は、癒しの中に、サマリア人の私に救いの手がさしのべられたことを同時に理解して、イエス様のもとに飛んで帰るのです。大勢のユダヤ人の中に飛び込み、サマリア人にも救いの手をさしのべてくださったイエス様にひれ伏すのです。イエス様も、生まれはユダヤでした。

 

「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」。

 

イエス様の言葉は、たった一人のサマリア人を前にして言われた言葉とはとうてい思えません。イエス様は、今ここに、救いが神から来る、それも、ほかならぬイエス様を通して来ることを証明している一人のサマリア人を取り上げながら、実はまわりにいるすべてのユダヤ人に注意を呼びかけているのです。信仰をもっているからと言って、それで安心してはいけないと。

 

先週の福音で、芥子種一粒ほどの信仰というたとえが読まれました。主任神父様のお説教だったと思いますが、「この人は立派なのになぁ」という神学生がやめてしまう。その中でも、いちばん真面目だった人が時としてグレてしまうと言ったお話がありました。あとで、「グレるというのは、神学生時代の反動でそうなるんですかね」と言いましたら、「グレた神学生の信仰は、結局『しいら』やったということさ」と仰いました。

 

「『しいら』って、何ですか?」と尋ねますと、「ありゃ!『しいら』も知らんとばいね」と言われました。詳しく聞くと、たとえば稲穂なんかで、外側の殻だけついていて、なかが空っぽになっている様子を、「しいら」と言うのだそうです。今日の九人のユダヤ人の信仰も、実は「しいら」だったのではないでしょうか。そしてサマリア人の信仰こそが、芥子種ほどの小さい信仰、けれども生きた信仰で、神様の心を動かすものだったということなのでしょう。

 

私たちの場合は、どうでしょうか。「これこれのことをしているから、大丈夫」と、どこかでやっぱり自分に信頼していないでしょうか。信仰の実りは、神様が与えてくださるものです。私に幾らかでも頼っているとき、その分だけ実が少なくなってしまいます。救いの力が、徹底して神様の側にあることをよくよく悟るとき、神様に感謝する心と、ますます神様のもとに留まりたいとの気持ちがわいてくるわけです。

 

サマリア人は、憐れみを受けたことを当然とは見なしませんでした。はじめから終わりまで、神様の御計らいだと考える信仰でした。この謙虚な態度が、奇跡に溺れず、救いに目を開かせ、感謝する心を呼び起こしたのだと思います。

 

私たちも、機会ある度に新しい気持ちを呼び起こすようにいたしましょう。受けた恵みを感謝でもってお返しすることができる。そのような信仰を育てていくとき、イエス様の声が私に向けられたものとして聞こえてくるのではないでしょうか。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。