主日の説教 1991,10,13

年間第二十八主日(Mk 10:17-30)

完徳の招き

すべてを手放して開ける生き方

 

今日イエズス様は、神の国をめざして旅する私たちに、常にみ言葉に心を開く準備をしなさいと勧められます。主は私たちに、あらゆる機会を使って新たに呼びかけ、愛の山の頂上へ導びこうとされます。主の招きを一緒に探っていくことにいたしましょう。

 

登場人物は青年実業家のようです。そして舞台は、イエズス様が旅に出ようとされたときだったとあります。これはマルコ福音書の場合、エルサレムへの十字架の道の途上であったという意味を含んでいます。すなわち救いの業が完成される、その途中で起こったことだということです。

それに歩調を合わせるように、青年実業家の願いも、本人が完成への途上にいることを暗示しています。「永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいでしょうか。」彼はたくさんの財産をきずき、最後の仕上げにさしかかっていたのです。ある点までは自分の努力で到達したが、ここから何をすればよいかは先生に聞く必要がある、彼はそう考えたのでした。

 

「胸突き八丁」という言葉があります。あともう一息、というところに来て、もうひと踏んばりが必要な場所です。この青年実業家も、イエズス様の目から、あともう一息というところにたどり着いていました。イエズス様は、彼のたゆみない努力、目指している高い目標をよく心得て、新しい呼びかけを与えました。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」それを聞いて、青年は落胆してしまいます。

イエズス様は無理な注文をしたのでしょうか。青年の反応はみっともないものだったのでしょうか。マルコがここで教えようとしていることに注意しなければなりません。福音記者は、信仰者がより高い目標に到達するためには、イエズス様からのある招きに答える必要があることを教えようとするのです。その招きとは、「あなたは幾らかの進歩を遂げた。さらに進歩するために、すべてを捨てて、もう一度ゼロから出発しなさい。」という招きです。

 

物語に登場する青年には、このイエズス様の招きに答えることができませんでした。それには理由があります。彼は、財産が神からの祝福であるという、従来の考え方にしがみつき、イエズス様の新しい招きに耳を貸す余地がありませんでした。財産を失ったら、どうなるだろうか。これまできずいてきた社会的地位、まわりの人の評価、尊敬を一度に失うのではないだろうか。このような心配のために、呼びかけを自分のものとすることができませんでした。

もう一つ、大きな落とし穴がありました。それは、神の力に対する絶対的な信頼です。彼は自ら心を閉ざし、イエズス様に信頼しませんでした。自分で自分に「ここまではできる。でもこれ以上はできない」と、今の努力が限界なのだと決めてしまったことです。これでは新しい招きを受け入れようがありません。

 

霊的な進歩のために、持ち物を手放すことがどれだけ必要かについて、ある師匠とその一番弟子との話があります。この弟子は師匠が厳しい方であると伝え聞き、それに惹かれて入門したのでした。

師匠は日に日に進歩するこの弟子を見て、ときおり目を細めることさえありました。あるとき師匠は、この弟子が本人みずからの境地を極めるのに、必要なすべてのものを与えたいと思って、次のようなやりとりを試みました。

「わが子よ、さらに進むために、手放しなさい。」弟子は何のことか分かりませんでしたが、すぐにそれと気付き、それまで学んできた書物を手放しました。師匠はさらに続けて、「わが子よ、手放しなさい」と続けます。またしばらく考えて、自分の一番弟子としての立場を、他の弟子に譲りました。

師匠と弟子がこのようなやりとりを何度か繰り返したあげく、ついに弟子が音をあげました。「お師匠様、もう手放すものがありません。何を手放せとおっしゃるのでしょうか。」そこで師匠はこう言いました。「お前は大切な物をまだしまっている。『お前自身』を手放しなさい。そして『無』から出発しなさい。」

(5秒数える)

私たちも、あるところで自分に妥協し、「これくらいでいいだろう」という気を起こすことがあります。イエズス様からの招きを耳にするとき、「それは無茶です」と、頭からはねつけることもまれではありません。そんなとき、もう一度心を落ちつけて、耳を済ますことをお勧めします。本当にイエズス様の招きであれば、それは必ず可能なことなのです。わたしが財産としてきずき上げたすべてのもの、そしてわたし自身を手放すなら、確かに答えることができるのです。

イエズス様は青年実業家を大勢の人々の前で辱めようとして、あのようなことを言ったのでしょうか。そうではありません、「慈しんで」言われたのです。この言葉は、マルコ福音ではここしか使われていません。他の誰を慈しまれたのでもありません。金持ちで、すべて順調に行っているこの青年を慈しまれたのです。

 

すべてを捨てて、ゼロからやり直しなさいとの招きは、必ずやってきます。転勤によって、配置転換によって、司祭であっても、移動によって、新たに出発し直さなければならないときがきます。けれどもそれを、イエズス様の招きとして精一杯応えるか、逃げるかでは大きな差が出てきます。永遠の命、神の国という、とてつもない宝のために富を蓄えるのですから、片手間ではできません。一方の手は今までの財を握りしめ、一方の手で天に宝を積むことはできないのです。

 

ペトロが、イエズス様に申し上げた言葉を、今ここで私たちのものにしましょう。「この通り、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」内心の不安までもすべて手放したとき、イエズス様はきっと百倍の実りでもって報いてくださるはずです。ぎりぎりいっぱいの信頼ではなく、無限の信頼をおくことができるよう、そのための恵みを、このミサの中で祈って参りましょう。