主日の福音 1993,10,10

年間第二十八主日(Mt 22:1-14)

信仰者の基本

バランスのとれた信仰生活

 

今日の福音は私たちに、釣り合いのとれたものの考え方を持つように諭してくれます。「バランスのとれた人間になること」、この点について考えてみましょう。

 

福音の中で示された、王子のための婚宴には、特別な意味が込めてあったと思います。国を治める王の世継ぎの結婚の祝いです。それだけでも、国を挙げて喜び合うことはごく自然だったろうと思います。とくに婚宴に招かれた人にとっては、どんな用事もその日は断って、宴席に向かうべきでした。けれども、招かれた人は来ようとしませんでした。行けなくなったのではなく、行きたくなかったのです。

 

日本でも、皇太子の結婚パレードには、たくさんの人が詰めかけ、またここにおられるみなさんも、やはりテレビなどで見ていたのではないかと思います。あの日は長崎は天気に恵まれ、私は魚釣りに行ったのですが、魚も皇太子の御成婚をお祝いしに行ったのか、あの日はさっぱり釣れませんでした。広い心の持ち主であれば、誰もが喜び、誰もがおめでとうを言い合う、それが国を代表する人の結婚式だと思います。

 

ところが、福音書に登場する招かれた人たちは、王子の婚礼を嬉しく思っていないようです。一回目の招待を断り、さらに二回目には使いの者を送って、喜び合うのにふさわしい準備をしているから、ぜひおいでくださいと言わせています。それさえも招待を受けた人々は無視し、それぞれ勝手な行動に移りました。さらに追い打ちをかけるように、使いの者を死に追いやりました。これほど面と向かって刃向かわれれば、どんなに心優しい人も堪忍袋の尾が切れるというものでしょう。

 

なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか。おそらく、この招かれた人たちには、物事の価値を決めるのに、バランスが足りなかったのだと思います。どんなときでも自分のことが第一で、そのことばかりに目がくらんでしまった、それが彼らの判断を狂わせたのではないでしょうか。招待を受けた人は、今自分たちが無事に暮らせるのは、国を平和に治めている王のおかげだということを忘れて、この町、この国に住んでいることを、あたかも自分のおかげであるかのように勘違いしていたと思います。

 

すべて、起こる出来事や出会いは、自分のことばかり気を取られないなら、必ず神様に感謝する何かがあります。その時急に考えても、なかなかこの点に気付くことはできません。いつも、自分だけの考えに閉じこもらないで、感謝する何かを心の中に見つける習慣を持つ必要があります。それを得させてくれるのは、日々のちょっとしたお祈りと、実際に感謝を表す練習をすることだと思います。

 

私はこの浦上の聖堂で、一度だれもいないときにミサを捧げたことがあります。この教会にお世話になることが決まって、主任神父様に挨拶にうかがうため、司祭館に立ち寄ったときでした。その日はまだミサを捧げていませんでしたので、この聖堂でミサを立てさせてもらいました。

 

この広い広い教会で、物音一つしない中、静かにゆっくりとミサを捧げました。今でも思い出すことができるのですが、その時は何よりも、「ほんとにここでお世話になるんだなぁ」と、まだ見たこともない信者さんを思い浮かべながら、感謝のうちにミサを捧げることができました。

 

何も聞こえない、聞こえるのは自分の声だけという、そんな中でミサを捧げたことにも何か感じるところはありましたが、一番大きかったのは、本当に自然に、感謝の気持ちが湧いてきたひとときでした。

 

まぁ自分のことだけ考えれば、今朝ミサを立てていないから、今から一人で立てると、ただそれだけのことなのですが、私が今からしようとしていること、私が今招かれていることを、もっと必要としている人のことを考えて受けとめるとき、その内容、意味合いはぐっと深まってきます。自分の必要だけで頭の中がいっぱいになっているとき、私たちは物事の豊かさというものをあまり掴めないのではないでしょうか。

 

物語の中の王は、王子の婚宴のために、新たに客を招待しに行きます。そして招かれた人の多くは、自分が暮らしている国の反映に関わる大きな出来事として受けとめ、礼服を着て、喜びながら出かけたことでしょう。招かれた人は善人、悪人、いろいろいたと書かれていますが、すべての人に平等に招きを与える寛大な心もうかがえます。彼らは、バランスのとれた価値観を備えていました。王の喜びは、何よりも国民の喜びでしたし、人々はそれをよく感じていたのです。

 

自分のことだけで頭がいっぱいにならないように、日頃からバランスのとれた信仰生活を心がけましょう。私が今あるのは、私を支えてくださっている神様、私と出会う人々、わたしの知らないところで祈ってくれている人など、たくさんの支えによっています。今日の一日、私は誰かに感謝することがあったか、静かに考えてみましょう。

 

バランスを失ったとき、私たちは神様さえも敵に回してしまいます。信仰者として、バランスのとれた人となれるように、ミサの中で祈ってまいりましょう。