主日の福音1992,10,04

年間第二十七主日(Lk 17:5-10)

一粒でもいい

受けた信仰を清く保とう

 

今日は、イエス様の教えから、「受けた信仰を清く保つこと」について考えてみたいと思います。そこで私たちも、弟子たちと同じように「私どもの信仰を増してください」と祈りながら、福音に耳を傾けることにいたしましょう。

 

弟子たちは、何の気なしに「私どもの信仰を増してください」と言ったのかも知れません。今日の福音の直前では、信仰が強く求められるような勧めを弟子たちは受けていたからです。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(Lk 17:4)。そこで自然な成り行きとして、「私どもの信仰を……」ということになったのでしょう。

 

ところで、イエス様はどうお答えになったのでしょうか。イエス様は信仰を増やすどころか、信仰は芥子種一粒ほどあれば十分だといわれます。イエス様の言葉からすると、本物の信仰は、多い少ない、浅い深いの問題ではなく、それが本物であれば、確かに偉大な業をなす、人をあっと驚かせることができるということなのでしょう。本物の信仰、純粋な信仰とは、どのようなものなのでしょうか。

 

福音の後半に登場する僕が、信仰のあるべき姿について教えています。イエス様はこの僕の態度をまとめて、次のような勧めをしておられます。「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」。

 

この僕の態度は、マタイ福音書でイエス様が言われた「あなたたちは『はい』は『はい』『いいえ』は『いいえ』とだけ答えなさい」(MT 5:37参照)という態度に通じるように思います。しもべは、自分の努力や功績をあれこれと並べる必要はありません。主人はそれを知っているからです。僕の答えには、そんな確信、主人に対する深い信頼がうかがえます。

 

ところで、信頼しきっている人の行動は、ときとして見ている側が恐れをなすことさえあります。彼は、恐れるものが何もありませんから、任せられた仕事を大胆に、けれども忠実に行うことができます。それが自分の好きな仕事であれ、嫌いな仕事であれ、主人に対して忠実であったかどうか、それだけに注意を払っているからです。何も付け加えず、かといって自分を軽んじない。「私はあなたに忠実でした」それだけの報告。主人がこれに気付かないことがあるでしょうか。

 

「祈りは神の弱みであり、人間の力である」。聖ヴィアンネはこのように言ったと言われています。心から祈る人に、神は弱いということでしょうか。私たちも体験として、疑うことを知らない子どもの願いには、ついつい聞いてしまうということがあります。かわいいお孫さんが何かを頼めば、やはり聞いてあげたくなるわけです。それは、信頼しきった人の力、願えば必ず聞いてもらえるという確信が、人を動かしているのです。

 

神に絶対の信頼をおいて生きる人には、神も弱らないではいられないようです。あるとき、聖ヴィアンネが、労働から帰ってきた農夫が聖堂でしばし祈って帰るのを見て、「何を祈っておられるのですか」と尋ねたことがありました。農夫は次のように答えたそうです。「取り立てて何を祈っているわけでもないのです。ただ神様の前に私が、私の前には神様が、向かい合っているだけなのです」。聖人はこの答えに驚き入ったということです。

 

ときとして私たちは、祈りながらも、「こんな祈りでいいのかしら」と考えたりします。どうぞ、神様だけが、祈りを聞き入れてくださる方であることを、今一度思い起こしましょう。私たちの祈りが、本当に神への信頼に土台をおいているなら、説明じみた言葉はずっと少なくなり、口で唱えている以上に、心が神様の方に向くようになるでしょう。

 

もっと言えば、祈っているときの単純な信頼の眼差しだけで、神の心を打つことができるのではないでしょうか。そして神はこのように純粋な心で祈る人に、煩わされることを心待ちにしているのではないでしょうか。

 

人はそれぞれ、神様から任せられた務めがあります。神様は私たちに今の生活を用意してくださると同時に、その中で果たしていってほしい何がしかの務めを任せておられます。人によって、それぞれ違うでしょう。ある人には自分の子どもや孫を立派に育てること、ある人には自分自身のすべてを神様に捧げて生きること、あるいは隣人への奉仕に招かれている人もあるでしょう。

 

各人が、神様の前に立って、何かを言わなければならないときがきます。そのとき、神に絶対の信頼をおいて生きてきた人は幸いです。何を言えばよいのか、迷うことはありません。今日の福音にならって、「私はしなければならないことをしただけです」。そう単純に答えることができます。この答えは、考えようによっては桑の木を海に移すことよりも大きな業をすることになります。なぜなら、神の心を動かす、神様の心を引き寄せることになるからです。

 

けっきょく、そのような純粋な信仰は、「手にいれた」と思ったその端から、逃げていく性質のものなのです。「私にもちっとばかしは信仰がありますから」と言うのでしたら、きっぱりその信仰はなげうって、かわりに神様の芥子種をいただきましょう。「神様、実は私には信仰がありませんから、あなたが与えてくださるものをください」と願ってみてはいかがでしょうか。