主日の説教 1991,10,06
年間第二十七主日(Mk 10:2-16, または2-12)
最高の夫婦
キリストを絆にして結ばれた夫婦
今日イエズス様は、結婚の貴さ、その神聖さについて教えられます。家族、夫婦の結びつきが危うくなっている現代にあって、お互いの絆について確かめ合い、理解し合うことは大切なことです。
わたしは説教を準備しながら、自分自身が貞潔の誓願を立てた者であることをふと思い起こしました。そしてイエズス様に向かっていたずらっぽく、「お互いに独身ですね。」と話しかけました。
さわがしいテレビドラマの中から、次のようなため息が聞こえてきます。「俺はどうしてあんな嫁をもらったんだろうか」「わたしはどうしてあの人を好きになったのかしら・・・・・・」台所で包丁を握る手に、力が入るようなところまでは行かないでしょうが、夫婦が一生を添い遂げるのは、まさに神業としか言いようがありません。本当に、神はこれらの夫婦を通して、神業を披露しているのです。
夫婦の結びつきが、なぜ貴いものであり、聖なるものであるかを、イエズス様はファリサイ派の人々の挑発を退けて答えています。
ファリサイ派の人々は、イエズス様に近寄る際に、初めから試みるつもりであったと書かれています。論争を好み、論争に勝つことを目的としてイエズス様に近づいた彼らには、結婚の貴さよりも、律法の書に書いてあるという離縁の問題(申命記24:1-4)の方が大事だったのでしょう。まったく、本末転倒した議論としか言いようがありません。
神が期待していることに思いを馳せないで、自分たちの考えにしがみついたファリサイ派の人々は、結婚問題について大きな過ちを犯しました。イエズス様がはっきりおっしゃっているように、離縁は創造主である神のお望みではありません。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」のです。それだけではなく、人は神が結び合わせたものを、切り離すことができないのです。
このようにしてイエズス様は、夫婦の結びつきを、創造主の本来の計画に沿うように立て直されました。すなわち、結婚は本来永遠の結びつきであり、神が始められたこの契約を、人が切り離すことはできないのです。従って結婚生活のすばらしさ、貴さは、神がこれを始められたこと、神が保ち続けてくださることにあるのです。
本当に、夫婦の始まりは神様にあるのでしょうか。お互いに好きで一緒になったのではないでしょうか。
夫婦、また家族の模範は、何と言っても聖家族です。けれどもよく考えると、ヨゼフ様とマリア様の間にも、人間的には困難があったようです。ヨゼフは、すでにマリア様がみごもっていることを知って、天使の知らせを聞くまでは、その誠実さから、ひそかに別れようとしていたと記しています(マタイ1:18-19)。その危機も、最終的には人と成られた神のおかげで乗り越えることができました。聖家族の絆は、その初めから、神によって始められたものだったのです。
大神学校には、祭壇に大きな十字架が掛けられています。わたしが入った頃は、ここと同じような丸い電球で聖堂全体が照らされていました。中でもわたしがひどく気に入っていたのは、電球に照らされた十字架の後ろに、十字架の影が二本できて、カルワリオの丘を連想させてくれたことです。イエズス様と一緒に磔になった盗賊は、イエズス様を通して出会ったのでした。
今は照明が取り替えられて、感傷にもひたれませんが、以前は、この不思議な光景にいろんなイメージを重ねて考えることができました。神に向き直る盗賊と、最後まで神から遠ざかろうとする盗賊、人間の両面がキリストの影として現れます。また、神をあいだにはさんで、両者が激しくぶつかりあう、真剣に生きようとする共同体の姿を見たりします。いずれにしてもそこにはキリストがとどまり、キリストを通して初めて出会った両者を見たのでした。夫婦の絆も、やはりキリストがあいだを取り持つのでなければ、意味をなさないのではないでしょうか。
夫婦はお互いに手を取り合って生きるわけですが、その手を離れられないものとして固めてくださっているのは、ほかでもない、キリストなのです。キリストの手のひらが開いたままで釘打たれているのは、夫婦にとって、キリストにしっかり握られていることのしるしと考えられないでしょうか。夫婦の絆が人によって解くことができないのも、このような理由があるのです。
このようなしっかりした動機づけを持つようになれば、家族がお互いに助け合うことはずっと易しくなります。キリストによってすべてが結び合わされていることを知れば、嵐が襲ってきても恐れる必要がありません。どのように舵を取ればよいか、一緒に考えることができます。黙って泣き寝入りをするのではなく、キリストに進むべき道を尋ねて、一緒に祈ることができます。キリストを通して結ばれていなければ、これらのことは不可能です。旦那さんは救い主ではないのです。きれいな、と言っておきますが、奥さんも、家庭の危機を救えないのです。
夫婦、それは現代にあっても聖なるものであり、神がそこにおられ、神によって結び合わされているゆえに、貴いものです。この機会に、どのような歩みを共にしてきたのか、ゆっくり分かち合ってみてはいかがでしょうか。相手を心から尊敬し、信頼する。私たちは、相手が偉いから尊敬し、信頼をおくのでしょうか。むしろ、お互いにキリストを通して結ばれ、生活を共にしていることが尊敬・信頼に値するのではないでしょうか。
「わたしはどうしてあの人を好きになったのだろうか。」どうぞ、夫婦で祈り、その答えをキリストに求めてください。きっと、ふたりが結ばれた曰く言い難いわけを、解きあかしてくださるはずです。