主日の福音1993,10,03

年間第二十七主日(MT 24:33-43)

無償の恵み

恵みを恵みとして受ける知恵

今日の福音から、神からの恵みを十分に使う知恵について考えてみましょう。私たちは今まで、神様の恵みを効率よく使ってきたでしょうか。

 

神様の恵みがどのようなものかは、今日のぶどう園を持つ主人の態度から学ぶことができます。一人の人がぶどう園を作り始めました。どうも自分の趣味のためではなくて、そこから収穫を得て何かに使うつもりで拵えているようです。

 

ぶどう園に垣をめぐらします。人が勝手に出入りして、ぶどう園を荒らさないためです。搾り場は、ぶどう酒を作るためでしょう。見張りのやぐらも建てました。こうするとぶどう園は安全です。主人はこれを農夫に貸し与えます。ぶどう園としては、これ以上を望むことはできなかったでしょう。この至れり尽くせりのぶどう園を、私は神様の恵みに置き換えてみたいのです。

 

神様は溢れるほどの恵みに満ちておられます。それは決してご自分のため、自分で楽しむためだけのものではありません。この恵みは誰かに貸し与えるためのものです。それも条件を付けてではなく、無条件に貸そうとされます。やはりたとえ話のぶどう園と同じように、神様はご自分の恵みを、最高の状態にして、これ以上望めないというものに仕上げて貸し与えるわけです。

 

神様は何かを与えるときに、少しでもけちな考えを起こしたりできない方ですから、できるお世話はすべて調えて、その上で私たちに恵みを与えてくださいます。たとえば洗礼のお恵みを考えてみても、そこにはすべてのものを新しくする力が準備されています。原罪とすべての自罪が赦され、神の子となり、神の国を受け継ぐものとなります。すべてを新しくして、その姿に生き続ける恵みを与える。ここまで準備の行き届いた恵みを、神様は無償で、ただで与えてくださるのです。

 

ここで、私たちの態度が出てきます。与える神様の方は、これ以上ないという準備をして、一つ一つの恵みを与えてくださいますが、それを受ける私たちの方は、どうなのでしょうか。相応しい態度ができているでしょうか。

 

福音に登場する農夫たちは、雇い主の寛大さに反して、とても残酷な態度をとっています。マタイがこの残酷さを強調しようとしているのは明らかです。彼らが示す僕への態度は、全く逆恨みとしか言いようがありません。何も収穫を全部取り上げるとは言っていないのですから、全く理にかなっていないのです。

 

恵みが、恵みになるためには、「無償である」ということが必要です。農夫たちはこの点を取り違え、「ただで用意されたぶどう園」を、「自分の持ち物」にしようとしました。「ただで用意されたもの」「恵み」のままだったら、いつまでもその恩恵を受けて収穫にあずかることができたのに、自分のものにしようとし、結局ぶどう園の価値を引き下げてしまったのです。

 

ぶどう園の主が送った僕たちも、私は神様の恵みと考えることができると思います。それは利用するとかしないとかの恵みではなくて、生き方に関わる恵みです。生活の中で答えること、動作や振る舞い、一日の過ごし方など、目に見える形で答えを求められる恵みです。

 

収穫の篭か、革袋であれば、何も言わずにそこにぶどうを入れれば済みます。けれども収穫を僕が受け取りに来ています。「今回の収穫はこれこれです。どうぞ受け取ってください」といった、本当に人間的な関わりが必要になってきます。もしそこで、自分だけで味わいたいという気持ちが少しでも起こると、人との関わりを閉ざし、自分の殻に閉じこもるのです。

 

自分の息子、一人子を送ったとき、主人はどのような気持ちだったでしょうか。残酷な仕打ちを僕たちが受けた後に、誰よりも愛している子を送ったのです。今度こそ、恵みが「無償である」ことを思い出す最後のチャンスでした。恵みとして与えたのですから、賛美、感謝、人間にしか表せない心の動きでもって、恵みに答えてほしかったと思います。神様は恵みを与えた上に、いっしょに収穫を喜び合いたいのです。

 

私たちはどうでしょうか。私たちの心に、恵みのすばらしさを「引き下げてしまう」要素が潜んでいないでしょうか。一人ひとりに用意された恵みを、誰かと比べることで判断を狂わせたり、欲に目がくらんで、自分のものでないものまで手に入れようとたくらんだりすることがないでしょうか。こうした心の動きは恵みの価値を引き下げてしまうものです。恵みを十分に味わう妨げになるのです。

 

恵みが「無償である」「ただである」と言うことを、もう一度確かめましょう。それさえ忘れなければ、私たちはいつまででも恵みの中にいることができます。人間の欲に惑わされないように、神の恵みをいつも十分に活かす知恵を保つようにいたしましょう。そのための恵みを、ミサの中で祈ってまいりましょう。