主日の福音1992,09,27
年間第二十六主日(Lk 16:19-31)
神の正義
正義の物差しは、神の側にある
今日の福音から、神様の正義について黙想しましょう。また、神様の正義に照らし合わせて、私たちの生活についても反省いたしましょう。
今日のたとえ話がだれに向けて語られたかについて、聖書と典礼の中ではっきりと記されています。福音のページのいちばん下の段に、「このたとえは、『金に執着するファリサイ派』(14節)に向けて語られた」とあります。律法に忠実に生きると言いながら、実は金に執着し、貧しい人を顧みないファリサイ派の人々に、特に聞いてほしかったのです。
ファリサイ派の人々に限らず、法は守っていると言いながら、金銭に執着し、助けを必要としている人を顧みない、そんな生活に浸かっている人であれば、イエス様のたとえ話は他人事では済まされないと感じるでしょう。また、問題を身近に感じるために、必ずしもお金持ちである必要はありません。私の生活が並の生活であり、私の知っている人の中に、本当に助けを必要としている人がいれば、その時に「私の問題」になってくるのです。そこで、たとえ話を見つめ直す鍵を捜してみましょう。
金持ちと貧しいラザロとは、本当に目と鼻の先の距離にいたことが分かります。金持ちは家の中、貧しいラザロは家の門前にいました。すなわち、「知らなかった」と言い逃れはできないということです。また、二人の生活を見ると、金持ちは毎日毎日、ぜいたくに遊び暮らしていたとあり、ラザロは、今日生きられるか、明日は生き延びるか、本当にきびしい状況だったのです。ラザロが心の中で漏らしているように、金持ちの慈悲にすがりたいと思っていたのですが、金持ちは決して、彼に応じようとはしませんでした。ラザロに気付いていただけでなく、態度でも彼を無視したのです。
このようにしてみると、金持ちの態度を許せないいと思う人は多いでしょう。「知らなかった」で済まされないことでした。自分のためだけにしか気を配りませんでした。助けが必要なのは明らかでした。それでも、全く心を砕こうとしなかったのです。
けれども、ここで冷静に考えてほしいのです。私たちの生活に、このような態度が巣くっていないと断言できるでしょうか。「知らなかった」で済まされない事柄に、目をつむっていないでしょうか。教会の維持のために、納めるべきものがあります。月に一度、地区の集会のために大切な大切な時間を割くようになっていると思います。もちろん、皆さんのお金、皆さんの時間です。けれども、「知らなかった」と言うのであれば、後でそれは問われるのです。
金持ちは苦しみもがきながら、神に選ばれたユダヤ人であることを拠り所に、声を大にしてアブラハムに願います。「父アブラハムよ、私を憐れんでください」。けれども、出生が救いをすべて決めるものでないことは明らかです。選ばれた民であっても、裁きは地上での生活の決算以外のなにものでもないのです。
神の正義を代弁するアブラハムの答えは、金持ちにとっては痛烈です。「子よ、思い出してみるがよい」。確かに金持ちはユダヤ人で、救いを当てにできた民族です。ですが、「子」という身分であっても、「思い出してみなさい」という言葉には、何も答えるすべがなかったのです。
私たちも同じことです。洗礼を受けています。救いを当てにしてもいるでしょう。けれども、最後には私たちもキリストから、「子よ、思い出してみなさい」と言われるのです。一切合切(いっさいがっさい)、「知らなかった」と言い逃れするのでしょうか、思い出すことすべてが、自分のために費やした金銭、時間、労力であったとすれば、いったい何を申し開きできるでしょうか。
金持ちはアブラハムのきっぱりとした答えに、ついに観念し、地上に残る兄弟たちについて心を配りました。五人の兄弟の名前は分かりません。「太郎」という名前かも知れません。「花子」というかも知れません。すなわち、私たち一人ひとりである可能性もあるのです。
アブラハムの言葉が、私たちの取るべき態度に触れています。「彼らにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」。「モーセと預言者」とは、当時の聖書を意味します。神の言葉に耳を傾けて、今神様からもらっているものをよく使いなさいということです。私たちにも耳を傾けるべき言葉があります。それはキリストの言葉、「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」という言葉です。
神様の正義にかなう生活を心がけましょう。「自分のものだから、自分がしたいようにする」、これは地上の正義です。迷惑はかけないかも知れません。けれども神様がいちばん喜ぶ形ではないのです。私たちは、ほんの少しの心がけで、神様がいちばん喜ぶ形でこの世のものを使うことができます。お返しのできない人にお世話すること、時間を使うこと、報いを当てにしないで持っているもの、自分の時間を差し出すこと。これだけで、神様が喜ぶわざに協力できるのです。
「子よ、思い出してみなさい」。神様の前に立つときに、思い出して神様といっしょに喜ぶことが一つでも二つでもあったら、幸いだと思います。その時は、きっとふところに抱き抱えられて、私にできた小さなお世話を、神様と喜び合うことになるでしょう。いつから始めたらよいのでしょうか?み言葉が、あなたの心に響いたその時が、行動に移るときではないでしょうか。