主日の説教 1991,09,29
年間第二十六主日(Mk 9:38-43,45,47-48)
共同体を創る
多様性は、豊かさの証し
教会を形づくっている人には、その関わり方、結びつき方で、いろいろな段階があります。今日は、教会を造り上げるために、一人ひとりがどのように関わっていったらよいかについて、しばらく考えてみましょう。
マルコは今日の福音で、イエス様の名前で悪霊を追い出している別のグループがあったことを記録しています。最初に登場するヨハネの目には、彼らの行動が自分勝手なもので、放っておくわけにはいかない、そんなふうに映ったのかも知れません。そのことをさっそくイエズス様に報告すると、思いもかけない返事が返ってきたのでした。「やめさせてはならない。私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである。」
イエス様は、このような例を通して、ご自分に結びついている人々が、どれほどバラエティーに富んでいるかを示そうとされます。私たちは、イエスと関わりを持って生きているかということについて、この人は深く関わっている、この人はそうではないと、安易に考えがちです。ですが本当に意味のある判断は、一部の人のその人なりの見方ではなくて、イエスご自身がその人を受け入れるかどうかだけなのです。
「この人たちは私たちに従っていませんよ。」「いやいや、この人たちはわたしに従っているんですよ。」イエス様とヨハネのやりとりは、誰がイエス様の見方なのかについて、私たちの目をも開いてくれます。
スポーツ競技を例にとってみましょう。スポーツ競技は、割合味方と敵がはっきり分かれています。しばしば攻撃する側と、守る側に分かれます。その中で、いっしょになって守備に参加する、点を取るために自分の役割をきっちりこなす、そうして一人ひとりが味方としてチームに関わっていきます。チームの足を引っ張ったり、志気を挫くような態度を取るなら、その人は味方として認めてもらえないでしょう。
ゲートボールという競技をご存知でしょうか。わたしも縁あって、休み中は何度かかり出されましたが、何といってもこの競技に必要なのはチームワークです。もちろん、わたしははなから飛び入りですから、自分でよかれと思うことをするわけですが、チームのリーダーにはずいぶん迷惑がられていたようです。「もう!あっちのボールにタッチしてほしかったのに。」
「そんなこと言われても・・・・・・」と思っていたのですが、同じチームのおばあちゃんがわたしを慰めてくれました。「よかとよ、楽しくやれば。邪魔はしてないとやけん。」「そう思いますか。そうですよね」と言いたくなりました。けれども同時に、チームに貢献するのも、言うほど易しくないな、という感じがしました。
ある共同体、ある集まりに関わるという場合、一人の人が決めた通り、その通りにすべてが進めばそれでよいというわけではありません。教会に集う人々も同じく、誰もが杓子定規のような結びつきをしているとも言えません。「右にならえ」と号令をかけたとしましょう。言った通りにならなかったからといって「あの人ははずれている」と早合点することは控えるべきでしょう。イエズス様はそのような人々をも受け入れて、教会を豊かにしようとしておられるのです。
イエス様との消えない結びつき、それは疑いもなく、一人ひとりが受けた洗礼の恵みです。私たちは洗礼を受けて、イエス様と深く結ばれ、イエス様の体である教会を形づくる者です。「これとこれをしなさい。そうすれば教会は豊かになります」そんな手引きはどこにもありません。それぞれが自分のタレントを差し出した時、初めて教会は豊かにされていくのです。
イエス様も、私たちの協力を心待ちにしています。それは本当にささやかなことでもよいのです。水一杯を「キリストの体がうるおうように」と持ち寄ることから始めてよいのです。イエス様が求めているのは、「わたしも、キリストの体の一部として、誠実にイエズス様と関わって生きること」なのです。「しないと何か言われる。」どうか、こんな考えで行動するのではなくて、「イエス様は喜んでくださるだろうか」いつもこの点に注意して行動を起こしてください。
今日、私たちは一人のお子さんを教会の家族に迎えます。このお子さんが、教会の家族の中で果たす役割を少し考えましょう。私たちがしばしば忘れているほほえみを、私たちから引き出してくれます。少し大きくなると、精一杯大きな声で、聖歌を歌うようになるでしょう。イエス様に喜ばれたい、その一心ですべてを行うよい子になるでしょう。この子のすべてが、この子にしかできない形で、西新教会の家族を豊かにしていくのです。
私たちも、それぞれが受けた洗礼の恵みを思い起こしましょう。今日までの一日一日が、イエズス様と結ばれた日々であったはずです。誠実に、イエズス様に喜ばれたいという心で、イエズス様と関わってきた日々だったでしょうか。「わたしはイエス様の味方だけれども、あの人は。」その気持ちが、まわりの人を評価してしまう秤になったことはなかったでしょうか。
一日でも早くイエス様と結ばれて生きたい。そういう思いで洗礼を受けるこの子と共に、今日までイエズス様と結ばれて生きてこれたことに感謝しながら、このミサを続けてまいりましょう。