主日の福音1992,09,20

年間第二十五主日(Lk 16:1-13)

神への会計報告

せめて、プラスマイナスゼロでありたい

 

今日、イエス様は不正な管理人の巧妙さを話して聞かせながら、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と勧めます。永遠の住まいに迎え入れてもらうために、管理人の振る舞いに織り込んだ「この世の富」の使い方について、今日はしばらく考えてみることにしましょう。

 

物語に登場する金持ちの主人は、自分の管理人についての告げ口を耳にしています。財産を管理している雇い人ですから、腕の立つ人物でもあったでしょう。けれども最後には主人自らの判断で、解雇しなければならなくなりました。

ここで、主人が管理人に問いただしているところに注目しましょう。一つは、主人はこの管理人に、いくらかの猶予を与えているということです。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。」主人にしてみれば、わりあい確実な証言を握っているわけですから、問答無用、即刻解雇することもできました。それを、意図的に、管理人がどう振る舞うかを見ようとされます。それは、主人から与えられた最後のチャンスでもありました。

 

次に、主人が何を命じたか、という点です。主人はここでも、管理人がどう振る舞うかを多少期待しておられるかのようです。「会計の報告を出しなさい。」

たとえば、自分の耳に届いた告げ口に従って、賠償を命じることもできたはずです。「ムダ遣いした財産を返しなさい。払えないなら、持ち物全部を売り、妻子を手放してでも返しなさい。」主人は私たちの意に反して、会計報告だけを命じます。ある意味で、操作することさえ可能な、管理人の誠実さを当てにしているような命令です。ここにも、主人の管理人に対する寛大さが現れているように思います。

 

当の管理人は、どう振る舞ったのでしょうか。彼はすぐに考えを巡らし、迅速な行動をとりました。解雇は確実でしたから、なるべく早く手を打たなければなりません。彼は管理人としての最後のチャンスを、見事に活かします。

管理人の仕事は、貸し付けた農地の収穫を一定の率に従って主人に納めることです。当時の習慣で、律法では禁じられていたけれども、それに世話賃を上乗せして小作人から収穫を受け取ることがしばしばでした。彼はその世話賃をいっさいとらないことで、小作人には大きな恩を売り、主人には「寛大な主人」との賞賛を得させるという、実に抜け目のない手を打ったのです。

これには、さすがの主人も、褒めないわけにはいかなかったのでしょう。管理人の様子では、主人に借りのある人を一人ひとり呼んで、借り手があっと驚くような寛大さで、証文の書き換えをしています。皆をいっせいに集めて話をつけるよりも、何倍も、何十倍も恩を売ることができたでしょう。

 

実は、この管理人に留まらず、私たち一人ひとりも、神様から「会計報告」を求められる立場にあります。この地上の生活を送るために、私たちのためにたくさんのものを用意して、それらをただで貸し与えてくださった神様です。私に備わった能力、過ぎた時間、これまでの様々な出会い、命そのものも、神様が私たちに与えてくださったものです。ですから、最後の最後に、それらをどのように使ってきたか、報告する務めがあるわけです。

 

すべての生き物が、神様に貸し与えられたものを使って、精いっぱい生きています。動物は本能を通して、神様に与えられた分だけのことをします。私たち人間は、与えられたものを自由に使うための知恵、自由意志を与えられていますから、与えられたものを増やし、何倍にもして返すことができるはずです。ですから本当の意味で、神様から「会計報告」を求められる生き物だといえます。

特にこの世の富については、それを天に宝を積むために使うならば、神様の前には何倍も上手な使い方をしたことになります。この世の宝を増やすために富を使うのと、天に宝を積むために富を使うのとでは、任せてくださった神様の喜び方はずいぶん違ってくるのです。一方はすでに神様にお返しするつもりで財産を使いますが、他方はどこまでも私のためです。この違いは大きいと思います。

 

はじめにも言いましたが、神様が「会計報告」を求めるときというのは、十分な時間があった後、最後の決算の形でやってきます。その時になってあわてるのではなく、それまでに二つのことを確実に行わなければなりません。天に宝を積むこと、そして友達を作っておくことです。

友人については、次のように書かれていました。「金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」もちろん、天の国に迎え入れてくださるのはキリストです。地上で友達を作って、そのことで天に迎えられるというのは、あなたが地上のとも立ちと結んだ友情を通して、イエス様ご自身があなたの友となってくださるからです。

 

私たちは、どの友達に親切にしたから、イエスの友となったのか知りません。「主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見てお着せしたでしょうか」(Mt 25:37)。その時の答えはこうです。「はっきり言っておく。私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(Mt 15:40)。

 

主が、私たちに「会計の報告をしなさい」と求められるとき、安心して心を神様に開くことができるような生活を、今この地上から始めましょう。そのための恵みを、ミサの中で祈ってまいりましょう。