主日の説教 1991,09,22

年間第二十五主日(Mk 9:30-37)

共同体を創る

「小さな人」を受け入れる

 

今日の福音でイエズス様は、教会共同体を形づくるわたしたちに、周りの人、特に弱い立場にある人に心を開くようにと諭しています。主が弟子たちを教え諭す後半部分に目を向け、具体的な勧めを汲み取っていくことにいたしましょう。

 

マルコは、今日の対話を描くに当たって、イエズス様と弟子たちの間に一定の距離をおいています。例を上げると、イエズス様は弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と尋ねます。また、弟子たちの議論に答えるときには、「十二人を呼び寄せて言われた」と記しています。従って弟子たちは、イエズス様と場所を同じくしていたけれども、同じ思いを抱いていなかったと言うことができます。もっとはっきり言えば、弟子たちはイエズス様の心から遠く離れていたのです。

 

弟子たちとイエズス様のこの共同体は、いちばん最初の教会共同体の姿です。主を囲み、主に結ばれて生き、主の教えに養われて成長していく。それがわたしたちの頭で想像する、理想的な教会の姿のように見えます。確かにそうなのですが、教会を造り上げるメンバーは、その創立の時から、雲の上の人々の集まりだったのではなくて、現実の生活に染まった、ある意味で人間くさい人々だったのです。イエズス様を待ち受けているせっぱ詰まった危険を耳にしても、「誰がいちばん偉いだろうか」と、あらぬ議論を交わしていた人々の集まりだったのです。

 

ときおり、友人との会話の中で、「日曜日に、どこかへ一緒に出かけませんか」という誘いがあったりします。「えーと、午前中はご一緒できません。教会へ行かなければなりませんので。」すると相手は、どのように答えるのでしょうか。次のように答えるかも知れません。「へー!まじめですなあ。どうもわたしら罪人には、教会はちょっとねぇ。」十人が十人、このように答えるとは限りませんが、わたしの知っている範囲では、そのように教会を見ている人が多いようです。

本当に、教会は罪人と縁のないところなのでしょうか。そうではありません。イエズス様の支えなしには正しく生きられない、悩み多い人々が集うところです。すると、教会は罪人の集まるところと言うことになります。そうです。教会は、自分の罪深さをよく知っている人々の集まるところなのです。

 

しかし同時に、教会は「聖」でもあります。なぜ聖でしょうか。それは一人ひとりが聖だからではなくて、教会の花婿キリストが聖であり、キリストから、教会の命が流れ出ているからです。そしてこのキリストに結ばれている限り、教会は聖なる教会と言えるのです。

もし、一人ひとりが聖なる者であったら、誰も教会には立ち寄れません。それこそ、罪人には縁のない場所です。私は、「聖」でしょうか。いいえ、誰も、一人では聖となり得ないのです。ですから、全ての人に教会が開かれているのです。

イエズス様は、ご自分を茅の外に追い出して、むなしい議論をしている弟子たちを呼び寄せ、次のように諭されます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」むしろ互いに熱心に議論し、実践すべきことは、世の小さな人々を受け入れることだと諭すのです。

 

ここで、「小さな人々」を受け入れることのできなかった私の失敗談を紹介します。それも、一度ならず二度までも失敗した実例です。私は休暇中にいくつかの教会で子供の黙想会のお手伝いをしました。最終日には決まって、決心カードを書かせます。「私の福音宣教」というテーマでしたら、自分にできることを書かせますし、「イエズス様をよく知ろう」というテーマであれば、こんなことを知ったので、お友だちに、おうちの人に知らせたいという形でまとめます。

決心カードは、感謝のミサで奉納してもらうことになっていましたが、一人の子は、ミサの奉納までに間に合わなくて、出すことができませんでした。「桜ちゃん」という小学校二年生の女の子です。感謝のミサの後に、桜ちゃんが私のところにこう言ってきました。「あのね、あのね、あたし、まだカードを出してないの」わたしはミサも終わったことだし、お迎えも来ているしで、「そう。じゃあ、もういいよ」と口をすべらせてしまいました。桜ちゃんはそれが相当ショックだったのか、しばし黙っていたのが、その場でしくしく泣き出しました。

「えらいことになったなー」そんな気持ちで、何とか落ち着かせようと懸命です。「ごめんね。桜ちゃん。今から、いっしょに書こうね。」それから悪戦苦闘、20分ほどかかって、次のように書きました。「イエズス様はお祈りが好きだとわかったので、おうちに帰ったら、お母さんにお祈りをしようねと言います。」自分の母親に福音宣教をしなければならない桜ちゃんに、わたしは涙が出ました。

もう一つは、地元の教会です。やはり、二年生の女の子です。ミサの五分前まで、じっとカードを見つめていました。「どうね。書けそうね」その子は共同祈願の祈りは、すばらしい内容のものを出していました。決心カードも、どうやら書き直した跡があります。ミサでは助祭の仕事もあるし、ついにしびれを切らして、「それ、あとにしようか」と言ったところで、また泣かれてしまいました。

 

子供に限ったことではありませんが、わたしたちは弱い立場の人々を、寛大に受け入れる訓練が必要のようです。お勧めしたいことは、相手の人を見て、「手のかかる人だ、世話の焼ける人だ」と思う前に、自分自身が弱い、はかない者だと自覚することです。イエズス様の側から、自分がどれだけ世話のかかる、手の焼ける者であるかをよく知ってほしいのです。そうすれば、弱い立場の人を受け入れる際に、「あわれみ」からではなくて、「共に分かち合う」立場で受け入れることができるのではないでしょうか。

もう一度、福音書に登場する子供を思い出してください。イエズス様は、最愛の弟子たちより、さらに近いところに、子供を抱き寄せたのです。わたしたちも、自らの貧しさを知り、最も弱い立場にへりくだられたイエズス様を受け入れる心で、弱い立場の人を受け入れることができるよう、ミサの中で祈りましょう。