主日の説教1992,09,13

年間第二十四主日(Lk 15:1-32、または1-10)

神の深い愛

神に身を委ねて生きることは幸せ

 

今日の福音は、私たちに神の愛の深さ、神の恵みに身を委ねて生きることの幸せについて、見事なたとえでもって語りかけてきます。イエス様自身が語られるたとえに耳を傾けながら、私たち自身の心を、神の愛に向けて開くことにいたしましょう。

 

見失った羊のたとえと、なくした銀貨のたとえ、どちらも共通していることは、持ち主はなくしたものを一生懸命捜し、見つけたら、大いに喜ぶということです。羊が迷子になったいきさつも記されていませんし、ましてや硬貨が何のはずみでなくなったのかも問題になっていません。持ち主が一方的に「見失った」「なくした」のであり、そのことに全責任を負って捜し始めたことになっています。

私たちは、ものをなくしたりすると、なくしたものが心配で捜すといったことは、あまりないようです。できるだけのことをして見つからないなら、それはもう仕方がないと考えて、代わりのものを買い求めるかも知れません。あるいは、なくなったものに責任を負わせて、「何でこの忙しい時になくなったりするのか」と、ものに八つ当たりをしたりします。そこからすると、迷子になって泣いている子どもを見つけて、「ダメじゃないの、いっしょにいなきゃ」と、子どもを叱っている光景は、あまり見栄えのするものではありません。

 

ところで、イエス様がたとえに登場させる持ち主は、いなくなった羊、なくした銀貨を、わがことのように心配しています。何としても捜し出さねばならないという、ある種の使命感すら感じます。「見つけ出すまで捜す」「見つけるまで念を入れて捜す」。本当に、その気持ちの入れ方は並大抵のものではありません。

恐らく、持ち主の本心は、迷子になった当の羊が、自分が見つけなければだれも捜してくれない、どうかすると狼に食べられてしまうということを良く知っていたのではないか思います。またなくした銀貨も、自分が見つけなければ、永久に見つからず仕舞になることを知っていたと言えないでしょうか。さんざん歩き疲れてその場に座り込み、狼が来る前に、主人が見つけてくれることをただひたすら待っている羊、この羊の気持ちを知っているので、主人は必死になっているのではないでしょうか。

 

ある意味で、この羊は私たち一人ひとりだと言うことができます。福音の言葉を借りれば、「悔い改める一人の罪人」として見ることができます。その特徴は、「これまで自分の足で歩いてきたと思っていたのに、気がついたら神のもとから遠く離れていた、神の示される生き方を歩むために、自分の足があまりにもひ弱であることにようやく気付き、ひたすら、神の憐れみ、神の照らしをこい求めている人物」です。

イエス様はこのような人、神にのみ心を向けている人をお見捨てになりません。自分の足で戻れない、他の人に拾われれば、食い物にされるかも知れない、そんな小さな人を、神様は「見つけ出すまで」捜し回ります。「もうあなたしか頼るものはいない」はっきりと自覚している迷い子なので、必死になります。

迷子になった原因を、あれこれ考えているかも知れない。これまでのあの行い、この行いを反省しているかも知れない。けれどもイエス様にとって、そんなことは何も必要ではありません。迷った原因は、何も問いません。ただ、ご自分が責任を負い、「見失ったから」捜すのです。従って見つけたときの喜び、これもまたひとしおなのです。彼の言い分は何も要りません。主人の言葉だけが響いています。「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」。

 

神に見つけてもらう。これはとても意味深い言い回しです。私が夏休み帰省中に体験した、一つの例を紹介いたしましょう。

ある病人を訪問したときのことです。その方は病を得る以前からよく祈りをされる方でしたが、病気の間の無力さを次のように話してくれました。「神父様、私は今、ロザリオをしたくても、手に力が入らんのです。十字架の印をしたいけれども、腕を上げる力がなかとです。こんなにはがゆいことはありません。」

 

私は、この方のつらさ、悲しさに同情しながらも、もう一歩、霊的進歩をとげてほしい気持ちから、次のような言い聞かせをしました。

「神様は、あなたの心を神様に委ねきってほしいので、しばらくのあいだ、信心するためのロザリオと、十字架のしるしをする力を取り上げたのだと思います。なによりもまず、心を神様に捧げきってください。そうでなければ、『信心があるから、私は神様につながっている』と考える誘惑に負けるかもしれません。

『私の信心』でこの道を歩んでいるうちは、どんな苦しみ、病気の体験も、十分な恵みの場にはなりません。これほどの大きな病気、これほどの恵みの場をいただいたのですから、信心ができないと嘆かずに、あなたの意志を、神様に捧げてください。その信仰を見て、きっと神様はあなたを捜し出してくださいます。」

 

この方が、今後、病とどのような闘いを続けておられるのか、私には分かりません。けれども私は、この方の信仰にかけてみたいと思いました。この人から信心が奪われても、心を神に捧げきる信仰は奪われることがない、そんな思いがしたからです。神様が用意してくださった霊的な飢えだから、人間の信心によって癒されるはずはない。きっと神ご自身がこの人の信仰を見て癒してくださる。今日の福音を黙想しながら、つくづくそう感じたのです。

 

この病人の生き方を、私たちも倣いたいものです。実際の生活は、弱さのために罪に陥り、神様を悲しませる毎日かもしれません。けれども、最後のよりどころ、判断の基準を、神におき、私の信心にだけ頼ることなく、神に与えられた信仰に生きるよう、心がけましょう。毎日が神に向き直る回心の場となり、主に見つけていただく喜びを体験いたしましょう。そのための恵みを祈りましょう。