主日の説教 1991,09,15

年間第二十四主日(Mk 8:27-35)

信仰告白

祖母が残してくれた証し

 

世の中には、後になって分かる出来事、時がその意味を教えてくれる、そういうものがあります。イエズス様がわたしたちに示される生き方、わたしたちが歩んでいく信仰生活のすばらしさも、やはり一朝一夕には理解し得ない事柄です。今日はこのすぐれて価値ある信仰生活について、いっしょに考えてみたいと思います。

福音で、人々がイエズス様をどのように受けとめているかを、弟子たちに尋ねる場面があります。人々のイエズス理解はどこか中心がずれていて、要領を得ません。これに対してペトロの答えは、イエズス様がだれなのか、そのものズバリ答えています。「あなたは、メシアです。」

このペトロの信仰告白を、イエズス様は引き続き固めようとされます。立派な信仰なのに、どうして固める必要があるのか。それは、ペトロの言葉は、ペトロの口から出たものでありながら、ペトロを通して聖霊が語らせた言葉だからです。ペトロのうちには、自分の言葉を十分に理解する力が備わっていないのです。このため、イエズス様によって固められる必要がありました。

信仰の恵みを受けて、自らも充実していると思われる時期には、イエズス様のためならば何だってできると思えるし、このこと、あのことはイエズス様のためになっている、そう考えます。ペトロは、信仰を固めるために啓示された受難の予告に、そんなことがあってはならない、逃れる手だてをぜひ考えてください、と進言したのでしょう。けれどもそれは、たった今ペトロが表した信仰とは不釣り合いな、人間的な発想でした。それが分かったのは、ずっと後になってのことです。

イエズス様の生き方を理解する、あるいは、わたしたちの信仰生活に正しい評価を与えるためには、しばしばペトロと同じ経験をしなければなりません。信仰の種が蒔かれ、芽を出し、花が咲き、実をつける。芽が出たからと言って、まだ完成されてはいないのです。花が咲いたのですか。でも、まだ次の世代に伝えるための実をつけていないのです。生涯のうち何度か、イエズス様に矯め直され、ときには叱られて、信仰は固められ、実を結ぶのです。

一人ひとり、思い返してみましょう、わたしは、信仰生活のどのあたりを歩んでいますか。芽が出たばかりですか。花を咲かせる時ですか。子や孫といっしょに、信仰の実りを味わう時に来ていますか。信仰の道のりは、イエズス様の照らしがなければ、一歩も先へ進みません。イエズス様の照らし、導きを、「わずらわしい」と言って拒んでいませんか。「そんな話を聞いておられるか。教会は間違っている。」このように言っているあなたは、ペトロと同じ過ちを繰り返しているのです。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

イエズス様の望みは、神様の計画がわたしを通して果たされることでした。決して、自分の望みに合うように神の計画を変えることではなかったのです。ですから担うべき十字架についても、次のように言っておられます。「わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしにしたがいなさい。」十字架を避けては信者になれませんが、他人の「軽そうに見える」十字架、あるいは「明らかに分不相応な」十字架を背負っても、キリストに従う者、信者とはなり得ないのです。やはり自分の好き嫌いを寛大に捨てて、キリストがあなたに求める十字架を担ってほしいのです。

「自分の十字架を担う」と言うと、わたしは祖父母もことを思い出します。父方の祖父母と母方の祖父母とは、ずいぶん違った生き方をされたようですが、父方のおばあちゃんの生き方には、ずいぶん考えさせられるものがありました。時が、その意味を教えてくれるひとつの例ではないかと、今でも思っています。

まだわたしが小神学生だったとき、おばあちゃんはよくお小遣いをあげると言って、家に呼び、親しく話をしてくれました。朗らかな方でしたが、早くから足が弱くなっていて、部屋を出ることもめったにありませんでした。「早く神父様になりなさいね。それがあたしの楽しみよ。これを励みに、おばあちゃんは元気でいられるとよ」そう口癖のように言っておりました。

後にわたしが反抗期に入り、しばらく足が遠のいていましたが、大神学校に入ってから、久しぶりに家を訪ねてみると、以前の面影はすっかり消えてしまっていました。叔父に聞くと、記憶が薄れているとのことです。「君のことも、どうかな」とも言われました。「まさか。」そう思って部屋に行きましたが、本当に言われた通りでした。「あんたは誰ね」「仕事は」「あたしには神学生の孫がいるとよ。」しまいには姑さんを呼んで、「知らない人がわたしを訪ねてくれた」と話す始末でした。

おばあちゃんと最後のお別れをするときまで、わたしはおばあちゃんの変わり用を受けとめることができませんでした。けれども叔父のあいさつの言葉に、「母は最後まで自分の十字架を担い通しました」と言う言葉を聞いた時、「おばあちゃんには、あの十字架は重すぎはしなかったか」という思いも、次第次第に薄らいでいきました。確かに、彼女は「自分の十字架を」担ったのだと思います。

ひとつの家庭に、おじいちゃん、おばあちゃんがいることは、とてもすばらしいことだと思います。家庭に、「自分の十字架を担ってきた」生き証人がおられるからです。「これはわたしの十字架ではない」「あの人の十字架なら、わたしにも担えるのに」こんな信者らしくない考えと勇敢に戦ってイエズス様に従ってきた、信仰の先輩がいるのです。今は分からない十字架の意味を、時を経てその意味を理解した人々なのです。

同じことが、教会という共同体についても言えると思います。この教会の歩みの生き証人は誰でしょうか。教会が揺れたとき、時の流れに解決を求めて祈ったのは誰でしょうか。この信仰の先輩方をお祝いし、喜びを分かち合えることは、どんなにすばらしいことでしょう。

今日わたしたちも、イエズス様の招きによりよく答える生き方をあらためて考え直しましょう。そしてその具体的な行いとして、信仰の先輩方の模範を、家庭で、教会で、生かすための恵みを、このミサの中で祈ってまいりましょう。