主日の福音1993,09,12

年間第二十四主日(MT 18:21-35)

心から赦す

生活の中で神の無限の愛を体験する道

 

「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(MT 18:35)。イエス様がたとえ話の結論として残された言葉です。「七の七十倍までも赦しなさい」(MT 18:22)という言い方でもわかるように、神様は私たちに、限度をつけずに赦してやりなさいと命じておられます。人が人を心から赦すとき、どんなことが起こるのか、しばらく考えてみましょう。

 

はじめに、ペトロが考えていた「赦し」の内容と、イエス様が示す「赦し」について見てみましょう。ペトロはイエス様に「何回まで赦すべきでしょうか」と尋ねます。何か損害が生じて、当然償ってもらうべきだから、我慢して目をつぶる。これがペトロにとっての赦しだったようです。この場合、赦すほうは、多少の損を覚悟しなければなりません。それで、「何回くらい赦したらいいんでしょうか」と尋ねたのだと思います。

 

ところが、イエス様はたとえの中で、神様の赦しはそのようなものではない、と諭されます。神様にとって赦しとは、罪を犯して神との交わりから離れた人を、もう一度取り戻す行いです。ですから赦すとき、そこには何の損失もありません。新たに交わりに加わるわけですから、かえって大きな得をするわけです。それでペトロにも、「神の赦しの姿を知り、それに倣いなさい」と答えられたのです。

 

神の赦しに倣うとき、もう一度兄弟を得るだけにとどまりません。人を赦すとき、実は神の愛に触れているのです。赦しは神の愛を知る効果的な方法なのです。

 

たとえ話の中で、主君は家来を「隣れに思った」と書かれています。ヘブライ語で「ラハミーム」という言葉ですが、日本語にしにくい言葉です。もともとは「腸を動かされるような感じ」を表します。誰かのことを思って、やむにやまれぬ思いになる、そんな気持ちではないでしょうか。

 

特に神様は、罪を犯した人に、この「憐れみ」を感じておられます。あの人、この人が罪を犯しているのではありません。私こそが、神の「憐れみ」を受け、しばしば赦されている者です。ですからこの「憐れみ」、「腸を動かされる思い」を体験したいなら、自分に罪を犯した人を心から赦す必要があります。こうして私たちが、人間的には赦し難い人を、「腸を動かされる思いから」赦すとき、確かに神の愛に触れるわけです。

 

神様のやむにやまれぬ思い、「ラハミーム」をよく表している童話を紹介いたします。シェル・シルヴァスタインが書いた「大きな木(原題:与える木)」という物語です。リンゴの木と、木を友だちにして遊ぶ子どもだけで物語ができています。

 

一本のリンゴの木があって、かわいいちびっこと仲良しでした。毎日ちびっこはやって来て、木の葉で冠をこしらえ、森の王様の気分を楽しみます。ある時は木によじ登り、リンゴの実を食べ、木陰で休み、そうして一日を過ごしました。木と子どもはとても仲良しでした。だから、木も、とてもうれしかったのです。

 

ちびっこは大人になり、友だちも増え、リンゴの木はひとりぼっちになることが多くなりました。ある日その子がひょっこり来たので、木は「幹に上り、枝にぶら下がり、リンゴをお食べ」と言いました。するとその子は「自分はもっと欲しいものがあって、お金がいるんだ。お小遣いをくれるかい?」と言いました。リンゴの木は少し考えて、「わたしのリンゴを売って、それで好きなものを買ったらいい」と答えました。子どもはリンゴをみんな取って売り、それで得たお金で買い物をしました。木はそれでもうれしかったのです。

 

その後しばらくはリンゴの木もひとりぼっちでしたが、ある時大人になった少年がやって来ました。木はとてもうれしくて、また木に登って遊んで行きなさいと言いました。大人になったその人は、「もう登ってもおもしろくない。ぼくは家が欲しい。家をくれ」と言いました。木は困った顔をしましたが、「それじゃあ私を切って、それで家をつくっておくれ。きっと役に立つから」と答えました。リンゴの木はとうとう、切り株を残すだけとなりましたが、それでもうれしかったのです。

 

長い年月が過ぎ去って、少年は年老いて現れました。切り株になったリンゴの木は、「もう、君にあげるものもなくなったね」と、寂しく言いました。老人は「私は何もいらない。疲れ果てた。休みたい」と言いました。リンゴの切り株は、「それなら私にもできる。さあ、腰掛けてゆっくりお休み」といい、老人はそれに従いました。

 

リンゴの木は、最後までうれしかった、と言うのが、話の筋です。リンゴの木は、犠牲を強いられたのではなく、遊んでくれた子どものために、何かの形で自分を生かす道を選び続けました。損か、得かではなく、やむにやまれぬからという、愛の深みを教えてくれます。赦しなさいという今日のイエス様の命令も、私たちが肌で知ることのできる、神の愛の姿だと思います。

赦しましょう。実生活で神の愛に触れるためにも、心から兄弟の過ちを赦しましょう。そのための恵みを、ミサの中で祈って参りましょう。