主日の福音1992,09,06

年間第二十三主日(Lk 14:25-33)

イエスの弟子

信徒としてのより深い生き方を考える

 

「もし、誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」。イエス様がいっしょについてきた群集に語られた言葉です。救われるために、永遠の命を得るために、一切を脇に置いて、ご自分に従う覚悟が必要だとおっしゃっています。今日はこの点について黙想いたしましょう。

はじめに「憎まなければ……」と言っているこの「憎む」という言葉について考えてみましょう。イエス様は文字どおりに「憎まなければ」と言っているのではありません。ここでは、いわゆる「憎む」の意味ではなく、「より少なく愛する」という意味に取るべきです。

当時、その土地の人々は、「より少なく愛する」と言いたいときは、「愛する」という言葉と反対の言葉を使う習慣があったようです。イエス様はその土地に生まれ、その土地の言葉を使ったわけですから、イエス様が「憎まなければならない」と仰ったときには、「より少なく愛さなければならない」という気持ちで言っていることになります。

 

「より少なく」と仰っているのですから、何かと比べていることは明らかです。すなわち、「救い」という一事を前にして、他の一切は「より少なく愛すべきだ」ということです。ここで私たちの黙想の鍵が見えてきました。「何を置いてもまずは人間の救いなんだ」ということと、「これを理解した上で私の生活を見つめ直したらどうなるか」、この二つに絞られると思います。

「何よりも救いが大事」。確かにそうなんですが、それは私たちの感情を逆撫でするものではありません。つい最近、韓国であったことですが、合同結婚に行くんだと言って親元を飛び出し、さらには親を不幸に陥れ、そうしておいて「救いが大事だから」と言い逃れすることではありません。私たちの主は、私たちの身近にいる人を愛するように命じておられます(Jn 15:12)。深く愛するのですが、それによって肝心な救いが見えなくならないように、その上さらに救いを追い求めなさいと言われるのです。

 

決して、「救い」を名目にして、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」を不幸に陥れることは許されません。「自分の命」を滅ぼす権利もありません。私たちに本当に許されていることは、キリストの招きを正しく受けとめて、いま置かれている生活の場で誠実に暮らしながら、唯一、最高の価値である救いをねらっていくことなのです。イエス様はそれを、どのように教えようとされるのでしょうか。

主は次のように招かれます。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、私の弟子ではありえない」。イエス様自ら、模範を残されます。イエス様の十字架、それはエルサレムで架かるはずの十字架、ご自分の十字架です。それはまた救いの木、あがないの木、世界に喜びをもたらした木です。イエス様の旅路の終点に、くっきりと描かれ、ご生涯のすべてにわたって具体的に担っていかれた十字架、それがイエス様の十字架なのです。

 

わたしたちにも、イエス様は同じ勧めを示されます。「自分の十字架を背負って」「ついて来なさい」。どこか遠くにあって、現実味のない十字架ではなく、また、キリストが担われた十字架に少しもあやかっていない、ただ苦しいだけの十字架を担うのでもありません。「私の救い」のためにぜひとも通らなければならない、そしてそれを担うことによって、必ずキリストの死と復活に与り、救いに至る、そのような十字架を担うのでなければなりません。そのような十字架は、どこにあるのでしょうか。私たちは実際にそれを担ってきたのでしょうか。

各自が担っていく「自分の十字架」は、日々の生活の中にあります。神様が各々に用意してくださった今日というこの日に、私たちが担うべきものがあります。「できれば、この人とは会いたくない」「こんなことはまっぴら御免だ」「どうして私だけこんなことになるのか」そう言って避けようとする出来事、出会いの中に、神様が担ってほしい十字架があるのです。

 

私たちはそれぞれ置かれた環境が違います。単純には受け入れきれないような、難しい状況に置かれている人もいるでしょう。けれども、そばにキリストがいて、共に十字架を担い、すべての人に「ついてきなさい」と仰ってくださいます。本当に、長い道のりです。常に、イエス様がそばにいるとは言っても、一日一日、任せられた道を歩み通し、救いへの確かな歩みを続けるためには、私の方にも底力といいましょうか、体力と言うようなものも必要です。

今日の福音の後半は、そのことについてたとえをもって教えています。「塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか」「二万の兵を率いて進軍してくる敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか」。目的に至るまでの長い道のりを進み通せるか、そのための体力があるかどうか、一人ひとりに尋ねます。それを調べるために、「まず腰を据えて考えなさい」とも仰っています。忙しい生活にまぎれて、流される危険によく注意しながら、しっかり腰を据えて、考える。この「腰を据えて考える」ことは非常に大切です。

 

「まず座る」。その意味は、一切の仕事を中断し、さまざまな興味を脇に置いて一時に集中することです。私たちの生活の中に、そのようなひととき、一人ひとりが神様にのみ心を開くひとときがあるでしょうか。

私は、「ある」と申しましょう。ミサに与り、すべての生活の枠を横に置いて、しばしのあいだ神様に心を開いている皆さんは、この一週間、神様が用意してくださるすべての出来事を受け入れる用意があるかどうか、じっくり考えることができます。もし、せっかくミサに与っても、「じっくり腰を据え、考えずに」帰るならば、信仰をもたない人から、「あの人は何のためにミサに行っているのか」と言われることでしょう。ぜひ、じっくりと考えて帰るようにしてください。照らしと導きを、神が与えてくださるよう、ミサの中で祈りましょう。