主日の説教 1991,09,08
年間第二十三主日(Mk 7:31-37)
信仰告白
あなたをおいて、だれのところに行きましょう
「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の聞けない人を話せるようにしてくださる。」ガリラヤの人々のすばらしい信仰告白です。今日は、人々の切実な願いに十二分に応えてくださるイエズス様について、しばらく考えてみることにいたしましょう。
イエズス様が訪れたガリラヤは、一般に異邦人の地として知られていました。ですからイエズス様は、ガリラヤの人々に神の国を知らせるにあたって、彼らの信仰を試すようなことは特になさらず、むしろ不思議なしるしを通して五感に訴え、目の前におられるイエズス様がだれなのかを教えようとされました。
このようなわけで、ガリラヤの人々が表したイエズス様への信仰告白は、「不思議な業をわたしたちのためになさったすばらしい方」という形に落ち着いています。そしてこれが、契約の神を知らない異邦人にとって、精一杯の信仰告白なのでした。
さてわたしたちは、イエズス様にどのような信仰告白をするのでしょうか。そしてどのような信仰に養われて毎日を生活しているのでしょうか。
ある人は次のように答えるでしょう。「イエズス様はすばらしい人です。目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにしてくださったのですから。」それはよく分かります。けれども、わたしたち、はっきり言うと、秘跡の恵みに生かされているキリスト信者にとって、このような信仰は十分とは言えません。まだ表面的なのです。そして奇跡を宣伝するのであれば、だれにも話さなくていいとさえ言っています。
次のように答える人もいるでしょう。「イエズス様はわたしの救い主です。イエズス様のおかげで、今のわたしがあるのですから。」そうです。その通りです。喜びにつけ悲しみにつけ、イエズス様に教えられ、導かれて生きてきたわたしたちです。ところが残念なことに、人間は、何かすばらしいことを言っても、その舌が乾くか乾かないかのうちに、それとは正反対のことをやってのけることもできるのです。あまりにも生活の困難がわたしを悩ませるとき、人を恨み、神を恨む「わたし」なのではないでしょうか。
そこで一つの勧めとして、ミサ中のペトロの信仰告白を、日々思いめぐらしてみてはいかがでしょうか。ペトロは次のような信仰告白をしています。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
「あなたをおいてだれのところに行きましょうか。どこにも行くあてはありません。」担いきれないような困難にぶつかるときに、このような信仰告白のできる人は、どんなに幸せでしょうか。そしてこのような信仰に養われて生きることを、イエズス様は一人ひとりに、呼びかけておられるのです。
同じことを、今日のガリラヤの人々の信仰告白から汲み取ることもできます。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」ガリラヤの人々は口々に言いました。神様のなさることはすべて、すばらしい。皆さんは、心からそのように考えているでしょうか。わたしの口からは、ときおり、不平、不満の言葉が漏れていないでしょうか。「あの人はつまらん、この神父はつまらん。」神様が計画し、準備されることを、信仰の目でとらえる心構えができているでしょうか。また日常生活で体験するあのことこのことを、「神様からのすばらしい贈り物」として、本当に受けとめているでしょうか。
祈りも、神様とお話するためのすばらしい道具です。