主日の福音 1993,08,29

年間第二十二主日(MT 16:21-27)

弟子

イエズスにどこまでもついていく者

 

 今日は、朗読された福音から、「イエス様について行く」ということを学んでみましょう。イエス様の呼びかけを聞いて、私たちは本当に、「ついて行きたい」という気持ちになっているでしょうか。

 

 はじめに、イエス様が今日まで弟子たちに言わないでおいた、ご自分の近い将来のことを考えてみましょう。イエス様は先週のペトロの立派な信仰を見て、初めて弟子たちに大切な秘密を知らせる決心をしました。

 

 「そのときイエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(16:21)。

 

 こんなにすばらしい方が、こんなつらい目に遭うなんて、私たちではとても考えられないことです。イエス様もそれをよく知っていたので、普通の人に打ち明けずに、一緒に生活し、苦労や喜びを共にし、最後には立派な信仰を表した弟子たちだけに、こっそりお話しされたのです。弟子たちだったら、しっかり受けとめてくれるかも知れない、と思っていたのです。

 

 けれども、弟子たちにも、イエス様が苦しみを通って復活することは理解できませんでした。誰よりもイエス様と親しかった弟子たちでしたが、イエス様の予告は、弟子たちにとってもショックだったのです。「イエス様が自分で言うのだから、本当かも知れない。でも、絶対あってほしくない」そんな気持ちだったと思います。

 

 ペトロはとても正直な人だったので、すぐにイエス様に自分の気持ちを伝えました。私たちの中にも、怒ったりすると、すぐに顔に出る人がいます。心の中にあるものを隠せない人がいます。ペトロも、そんな人だったのでしょう。「あなたほどのすばらしい人に、そんな悲しい出来事があるなんて、とても信じられない」。弟子たちはみんな同じ気持ちだったのですが、ペトロは思ったときにすぐに声に出して言っていたのです。

 

 ペトロの言葉を聞いて、イエス様は厳しい調子で注意しました。それは、最初はつらく感じますが、あとでは良かったと思えることでした。「ペトロ、あなたはこれからも、わたしについて行かなければならない。だったら、人間の考えだけで決めずに、わたしが言うことを大事にしなさい」と注意したのです。自分で、「これはすばらしい考えだ」と思っても、まずはイエス様の勧めを一番のお手本にしてほしいと願っているのです。

 

 イエス様の勧めを一番のお手本にする。そんなに難しくないように感じますが、実は難しいときがあります。イエス様はいろんな人を通して勧めをしますが、素直に「はい」と言えないときがあります。

 

 たとえば、準備のできていないとき。「明日から、あなたの名前は、『平本』ではなくて『坂下』になります」。もし急にこんなことを言われたら、「わかりました」とすぐには言えないと思います。自分としては、まだ準備ができてないと思うときにも、イエス様はときどきお願いをします。それにも、すぐに答えを出さないといけません。答えは、「はい」か「いいえ」か、二つに一つです。

 

 あるいは、自分にはできないと思う仕事。「班長になってください」「キャプテンになってください」先生とか、卒業する先輩に言われたとき、「いやだ」というのは簡単ですが、引き受けるのは大変なことです。班長や、キャプテンを決める人は、よく考えて決めたと思います。けれどもお願いされた人が、「自分には絶対できない」と考えていることもあります。イエス様も同じようなお願いをします。「ぼくには向いてない」「わたしにはできっこない」そう思っているところに、「引き受けてくれませんか」「続けてくれませんか」と勧めるのです。

 

 私たちがここで求められているのは、「参りました」という体験だと思います。自分では絶対こっちがいいと思っているけれども、イエス様は違う道を示している。イエス様が望んでいる道を歩くと、いろいろつらいことがやってくる。もうダメだ、もう続けられない、何度もやめようと思ったけれども、最後には降参して、「参りました」あなたについて行きます。ということです。

 

 イエス様の方からは、「あなたを生き生きとさせたい」「あなたの持っているものを全部引き出したい」その生き方が、イエス様の示す道だということ。二つをあわせて考えて、今日の呼びかけに答えていきましょう。