主日の説教1992,08,23

年間第二十一主日

実りある人生

神に受け入れられる人生を送ろう

 

今日の福音は私たちに、神様の前に価値のある人生を送るように強く勧めます。人生という道のりが神に祝福されたものとなるために、どのような態度が求められているのか、しばらく考えてみることにいたしましょう。

 

私たちはそれぞれの人生を、ある一定の計画に沿って、良きにつけ悪しきにつけ送ってきています。振り返るほど長く生きてきた人もいるでしょうし、後ろを振り向かずに突っ走ってきた人もいるでしょう。各人がそれぞれ「良かった、悔いが残る」などの評価をすることと思います。加えて、忘れてならないのは、「この私の人生の歩みは、救いにいたるものであったか」ということです。

たしかに、キリスト者は、各人の生活を、救いという大きな枠の中で見つめ直す必要があります。ときおり訪れる大きな困難、出会うすべての人に話さずにはいられないような喜ばしい出来事、生活の中に織り込まれているあらゆる出来事を、単に良かったつらかったではなくて、「それが私の救いにどのように関わったのか」という面からとらえる必要があるのです。

 

結婚を考えてみましょう。誰にとっても結婚は、人生の大きな転機、生きることの意味を深く考えるすばらしい機会です。もしそこで信仰を抜きにして考えるならば、「この人と出会えて良かった」ということがいちばん大きな意味合いになってきます。ところが、信仰者にとって結婚から引き出される深い意味は、「この人と巡り会わせて下さった神様は、何とすばらしいことだろう」ということになってくるわけです。

これは非常に大切なことです。というのは、もし結婚生活から神の招き、神の呼びかけということを取り除いてしまったら、ちょっとした不和、仲違いで、「私たちの結婚は、いったい何だったんだろう」という不安に悩まされることになるからです。結婚が神からの呼びかけである、夫婦が互いに協力して生活し、その結果夫婦という姿で神の救いに与ることができる。これが信仰者にとっての結婚の深い意味合いなのではないでしょうか。

 

このように、私たちは与えられた人生を、神の前に価値あるものに変えていかなければなりません。それは、何も飾りたてるとか、無理して信心ぶるということではなく、「私の生き方の基本、私の信念で生き続けて、神様の前にもうし開きができる」そんなしっかりした土台を持って生きるということです。

平たく言ってしまえば、私の生涯の出来事を神様の前に広げてみて、神様に「それがどうした?」と言われるようであってはいけないということです。教会でおもだった仕事をした、聖書を隅から隅までくまなく読んだ、暇さえあればロザリオをくった。そうして救いが得られると思ってきた。それなのに、結局神様から、「それがどうした」と言われては、もともこもないということです。

 

福音は、主人から閉め出された人々の苦しい弁解を正直に伝えています。「ご主人様、開けて下さい。ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、私たちの広場でお教えを受けたのです」(26節参照)。けれども主人の態度は、彼らにとってとりつくしまもありません。「お前たちがどこのものか知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(27節)。

まさに主人の態度は「それがどうした」という態度なのです。見かけだけ、見せかけだけのかかわりは、物語に登場する主人には必要ではありません。主人が必要としていたのは、本当に主人の気持ちに敏感な客、主人の本当の気持ちをくむことのできる客だったのです。

 

人生の幕は、いつの日か神様によって閉められ、決算を求められます。その日、その時は誰にも分かりません。けれども、私たちが日々、身の回りに起こる出来事を神様とのかかわりにおいて考え、行動するとき、その積み重ねが力を発揮することになります。

喜びの日々を与えられたとき、素直に神に感謝する。困難や、病いの日々を送るときには、「神様は私に何を教えようとしているのだろうか」と、いま神様が以前よりもずっと近くおられることをよく思い出すこと。このような受けとめ方、出来事への対処の仕方が生活のあちこちでとられるとき、私たちは最後の日々を顔を上げて迎えることができるだろうと思います。

 

福音に登場する人々は、たしかに主人と食事をしたでしょう。教えをいっしょに受けたことがあったでしょう。けれどもその時に感じるべきだった、「これらのことに与れたのは、何にもまして主人のおかげだ」という態度がかけていました。またいつでもそんな機会がやってくるとたかをくくって、一度しか巡ってこない大宴会の時間に間に合わなかったのです。

私たちも、救い主との間でこんなことにならないように、よく注意しましょう。今日のこの一日は、もう二度と帰ってこない、このような気持ちで、目の前に起こる出来事を、できるだけ神様とのかかわりの中で捉えるように努力いたしましょう。そうして、毎日、「このこと、あのことの中で神様は何をお望みだろうか」と考えを及ぼす私たちを、神様はご自分の国での宴会の席に喜んで招いて下さることでしょう。

 

今こそ、私たちはイエス様に問いかけた人に、イエス様に代わって答えることができるでしょう。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」「それは、あなた方の態度次第で決まります」と。