主日の説教 1991,08,25

年間第二十一主日(Jn 6:60-69)

イエスに従う

全面的で、絶対の従順

 

私たちは、「イエズス様に従う」ということのために、個人的なすべての判断を寛大に放棄しなければならないことがあります。今日の福音でイエズス様は、選り抜きの十二人の弟子たちに、ご自分を信じること、そして信じたら、それを言葉と行いによって表すことを求めておられます。それは同時に、今み言葉を聞いたわたしたちに、イエズス様の差し迫った招きに、弟子としてどのように答えるべきかについて教えます。

 

弟子たちの中には、自分たちの理解をはるかに越える真理を明らかにされるイエズス様に、早くも見切りをつけようとするグループがいました。弟子として紹介されている人々を前にして、イエズス様は以前よりも、すなわち群集や、ユダヤ人に対してよりもさらに信仰を必要とする真理を示し、信じることを求められました。けれども、信仰に基づいて出来事を受けとめ、理解しようとしない多くの弟子たちは、これ以上、イエズス様の教説、理論についていけなかったのです。

もちろん、イエズス様が示される神秘は、人間の知恵では受けとめることのできないものです。けれども、だからといって人間には無用な者ではありません。信仰に基づいてイエズスの教えを受けとめ、神に教えられてその真理を思いめぐらすならば、必ずその人の中で力の泉となり、その人を神の子として生かすのです。そしてこのような態度でイエズスに近づく者に、イエズス様はさらに深い、さらにすぐれた神秘を、徐々に明らかにしてくださるのです。

 

最初に登場する弟子たちは、残念ながら、イエズス様の期待に応えられなかったようです。次のようにおっしゃっています。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといたところに上るのを見るならば・・・・・・」。わたしたちにも、ある部分では、同じような傾きがあるのではないでしょうか。話の入り口でつまずいて、これから面白くなるというところまで見届けるようとしないというようなことです。残念なことだと思います。

 

この弟子たちには、イエズス理解に、どこかピントはずれなところがあるようです。彼らは、イエズス様の話しを聞くには聞きましたが、それを一つの理論、教説の一つのように考えていたようです。それで自分たちの頭に収めきれなくて、「実にひどい話しだ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とつぶやいたのでしょう。

ここで一つの疑問にぶつかります。「イエズス様に従うとは、はたして理論や教説に共鳴するからなのだろうか?」もちろんそうではありません。「信じて、従う」ということの中には、あいだに何もはさまない、膝をつきあわせた関係があるのです。イエズス様を信じ、イエズス様に従うその根底には、「わたし」「あなた」という、一対一の個人的関係があるのです。

 

一対一の個人的関係と言うと、助祭叙階式の時のことを思い出します。わたしがこうして説教台に立つことができるようになった、三月の助祭叙階の式中、深く心に焼きついたことが一つありました。司教様司式の叙階式ミサの中、助祭に叙せられるため、司教様といくつかの声のやりとりをします。その中で特に、次のようなやりとにが深く印象に残りました。

司教様は次のように招きます。「私とわたしの後継者に、尊敬と従順を約束しますか?」それに対して、受ける人が次のように答えます。「約束いたします」。前日にリハーサルもしていましたし、心にやましいこともありませんから、ごく普通に答えました。「約束いたします」。すると司教様はおもむろに、本人にだけ聞こえる声で、こうおっしゃいました。「そうか!約束してくれるか」。

 

わたし自身、思いもかけないことでした。そして叙階式を終えてから、あのときのやりとりを繰り返しながら、次のように考えました。「司教様に従順を約束したとき、自分は司教様の招きに、素直に答えた。あの一言を言うために、教説や、理論がすばらしいからとか、人柄がどうだとか、まったく必要がなかった。司教様の反応は、予定外のことだったけれども、それは、いろんな計算を捨てて、司教様に心を開いたことに、神様が答えてくださったのではないだろうか」。

従順の約束は、本当に、一対一の個人的関係であり、両者を仕切るものは何もありません。「わたし」と「あなた」という関係があるだけです。おかしな話ですが、司教様が「そうか」と喜んでくださった、それだけで、助祭に叙階されるまでのすべての努力が報われた思いがしたのでした。

 

今日のペトロの信仰告白も、やはりイエズス様そのものに向けられています。「あなたがたも離れていきたいか」という、イエズス様からのぎりぎりの選択を迫られたとき、ペトロは毅然として答えました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」。

ペトロのことを考えてみましょう。このすばらしい信仰告白をしたペトロは、例外的に、不動の、確固とした信仰をイエズス様に対して持っていたと言うのでしょうか。彼だけが、イエズス様のみ心を十分に理解していたのでしょうか。彼にしても、わからないことだらけで、多少の不安は拭いきれなかったのではないでしょうか。

 

まもなく私たちも、ペトロに倣ってご聖体のイエズス様に信仰告白をします。教もきのうもおんなじというような、儀礼的な信仰告白に終わらせず、むしろ、日々をイエズス様と運命を共にするのだという覚悟を持って信仰告白ができるよう、共に祈ってまいりましょう。信仰生活上の招きに、一つずつ答えていこうとする人に、イエズス様はさらにすばらしい生き方、すばらしい証しの道を示してくださるのです。