主日の福音 1993,08,22
年間第二十一主日(MT 16:13-20)
信仰告白
キリスト信者の生きる力
今日は、イエス様が弟子たちに向けてなされた問いかけについて、考えてみたいと思います。イエス様は、弟子たちが一瞬はっとするような問いかけをなさいました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(16:15)。
この問いかけは、イエス様の側からすると、ごく自然な成り行きで出てくると思います。イエス様は、「人々は人の子のことを何者だと言っているか」(16:13)と前置きしたうえで、弟子たちが今持っている精一杯の信仰を引き出そうという考えだったと思います。ですから人々の反応、おそらくイエス様にも聞こえていたであろう人々の反応は、この場ではあまり問題ではなかったのではないでしょうか。
次に、弟子たちの側からイエス様の問いを考えるとき、はたと困ってしまうようなこともあったと思われます。「じゃあおまえたちは、わたしのことをどう思っているのか」。あれほど人々の反応を聞いた上で、さらに問い詰めているわけですから、下手な答えができるはずがありません。人間の知恵に頼って答えようとすれば、おそらく言葉に詰まったことでしょう。
そんな中で、ペトロが毅然として答えます。上手に答えなければならないともがいて、口をつぐんでいる弟子たちの中で、単純で、素直な心を持ったペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(15:16)と答えるのです。誰も答えられなかった中で、もしかすると誰よりも田舎者だったペトロが、聖霊に支えられてすばらしい信仰を表しました。
ここに、私たちの信仰を見直すヒントが隠されています。いったい私たちは、イエス様を誰だと思っているのでしょうか。
絶えず流れていく日常生活の中で、「イエス様は誰なのか」という問いを立てることも少ないかも知れません。けれどもこれは大切なことだと思います。立ち止まって考えること、そして立ち止まったときに、実際は人間のどんな知恵によっても、正しく言い当てることはできないと悟ること、それがわたしの信仰を純粋にしてくれるのではないでしょうか。
お祈りをしても祈りになっていない気がしたり、ミサに与っては放心し、熱心に与った気がしなかったりする。そんな体験を持つ多くの方に、わたしは尋ねたいのですが、たとえば一回も気を散らさずにお祈りをしたとして、いったい誰が喜んでくれるのでしょうか。一回もよそ見をせずにごミサに与ったとして、誰がそれを褒めてくれるのでしょうか。神様は、そんなことを期待しているのでしょうか。
ペトロが信仰告白をしたとき、イエス様はペトロに向かって、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」(15:15)と仰いました。ペトロの中にあった良いものを、神様が言葉にしてくださったのです。ペトロが温めていたイエスに対する信仰を見て、「幸い」と仰ったのです。それはたとえば、「あなたはわたしのすべてです」というような思いではなかったでしょうか。
私たちも、自分で考えたイエス像にしがみつかないようにしたいものです。気を散らさずにお祈りしないと、お祈りとして聞いてくれないイエス様とか、ミサ中に居眠りしてしまったら、もう恵みを与えてくれないイエス様とか、勝手に思い描かないようにしましょう。もしそんなイエス様だったら、侍者に気を取られることのあるわたしも、まじめにミサを捧げなかったということになってしまいます(そうなるとお手上げです)。
私事になりますが、幼い頃、祖母の家に泊まったとき、祖母は寝る前にロザリオをしていましたが、よく居眠りをしていました。不思議なことですが、目を覚ましてロザリオを続けるときは、ちゃんと居眠りする前の続きから始めていたものです。そのあたりから考えると、居眠りしたことを後悔するよりも、居眠りしながらでも、ロザリオを唱えさせてもらっていることに感謝する方が、神様の眼鏡に適うのではないでしょうか。
あまりにも、きれいにしようとか上手にしようということが先立ってしまうと、足下をすくわれることにもなりかねません。むしろ、もっと単純に、「自分はこんな姿でしか祈れないけれども、それでもお祈りできるのは、神様、あなたのおかげなのです」と答えることにしましょう。
「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」。しばし立ち止まって、この言葉に耳を傾けましょう。人間の言葉に頼らずに、聖霊の導きに従ったペトロの信仰告白を、イエス様は喜ばれました。大切なのは、私たちの信仰の行いの出来不出来ではなく、どこまでも神様のおかげで今のわたしがあることを、心を開いて受け入れることです。その証拠に、ペトロの純粋な信仰は、今の教会を支える一枚岩となっているのです。