主日の説教1992,08,15

年間第二十主日(Lk 12:49-53)

真の平和

主の愛熱で打ち直された平和

 

今日、イエス様はいくぶん強い調子で弟子たちに語りかけられます。特になかほどからの言葉は、ご自分の使命と結び付けて、「あなたたちが考えているような地上的平和を、私は請け合いません」とおっしゃいます。

 

当時の弟子たち、また一般の民衆は、世に来られるはずのメシアが、「平和の君」として来られ、平和をもたらして下さると考えていました。けれどもそこで考えられていた平和とは、支配者の抑圧からの解放、民族の自由といった、ごく地上的な平和が考えられていました。

このような期待を内に秘めてイエスを眺める人々、また弟子たちに、「私はそんな平和はもたらさない、そのようなレベルで言うのであれば、私のもたらすものはむしろ『分裂』だ」と念を押すのです。イエス様がもたらすものは、人々が安易に考える平穏無事ではなく、一見平穏に見えるところに分裂をもたらし、「あれか、これか」「右か、左か」の決断を迫るのです。

 

何によって、このような分裂を起こさせるのでしょうか。イエス様はそれを「火」という言い方で表しています。熱に耐えられないものを燃やし尽くし、不純なものをより純粋なものに清める「火」が、私たちの間に分裂をもたらすのです。滅却と浄化という一連の流れの中で、分裂が人々の間に生じます。これはイエス様が投じたものゆえに、必ず燃え上がり、イエス様がそう予告されたがゆえに、必ず分裂を生じます。またイエス様の働きゆえに、必ず意味があるのです。

イエス様に投げ込まれた「火」とは、いったい何を指すのでしょうか。いろいろ考えられますが、私はこの火を「聖霊」ととらえる考え方に従いたいと思います。聖霊が各人の中に投げ込まれ、聖霊によって心を燃やされるとき、おのずと神の望みに合わないものは燃やし尽くされ、さらに高めることのできる行いはより純化されるからです。また聖霊が与えられるのはおん子イエスキリストのご受難のあとであり、「受けねばならない洗礼」という言葉がそれを暗示しています。あらゆる火の中で、聖霊だけが、神の望みを果たさせる力を備えているからです。

 

実は、おん子の受難、死と復活によって、私たちにはすでに聖霊が与えられています。そして、聖霊はもう私たちのうちで働き、ある人の行いを火で試し、神の望みに合っているか、神の望みであっても、さらに高められるところがないか、問われているのです。私たちは聖霊という火を前にして、今こそ心を決めなさいと求められているのです。

そこで、現実に起こっている分裂について考えなければなりません。福音は、この分裂が遠くにいる人との間ではなく、ごく身近にいる人との間ですら起こるということを指し示しています。「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、姑は嫁と、嫁は姑と対立して分かれる」。同じ一つの目標に向かっていても、父と子の間で、神の望みに合った方法を選ぶか、そうでないかで、分裂が起こります。たとえば子どもを育てるにあたって、神の望みにかなった教育を施すか否かで、嫁と姑は対立することになると言うのです。

お互いが、神の望みを受け入れるにいたる過程での対立は、むしろ当然の結果です。そして神が今期待している分裂とは、この、まことの一致にいたるための痛みをともなう分裂を言うのです。一人ひとりが、「無事だ」「平穏だ」と言っている地上的な平和に甘んじているところに、厳しいけれども避けてはならない「神の望みを選ぶ」という決断が、各人に求められているのです。

 

先日から今朝にかけて、ほとんど一分おきに電話がなりました。病人がでたとか、問題が生じたとか、どうしても司祭に尋ねなければならない要件ではありません。「今日のお祝い日のミサは何時でしょうか」「今日のお祝い日のミサは、与らないといけないのでしょうか」。神の家族にもちゃんと書いてありますし、前の日曜日のお知らせにも出ていたはずです。

教会に尋ねないと誰も答えてくれないのでしょうか。電話をなさる方の地区には、誰も友だちの信者さんはいないのでしょうか。そのたびに説教を練るのを中断された司祭と、お掃除やお洗濯や、料理の手を休めた方々の子とを考えたことがあるでしょうか。「ミサの時間が分かればいい」という、結果だけを求める行動は、全く神の望みではありません。些細なことかも知れませんが、このようなところにすでに、浦上小教区という一つの共同体の中の分裂があるのです。

 

分裂は避けて通れません。それは神があらかじめ予告しておられたことです。けれども私たちは、先に述べたように、分裂の痛みを共に味わいながら、それによって真の一致をかち取ることもできるわけです。それぞれがバラバラに教会につながっていても、教会は全体として育ちません。どうして一方はミサの時間を知っていて、他方は知らないのか。教会の事情を知らない人がどうして誰かを頼らないのか。誰かにお世話になってみようとか、誰かに聞いてみようとか、なぜ共に生きていこうとしないのか。これは考えるべきことではないでしょうか。

キリストが投じられた聖霊は、私たち一人ひとりの中で燃え始めています。私たちの兄弟の中で、私たち共同体の中で燃え始めています。あなたの行いは、今のままでキリストの喜びとなっているでしょうか。聖霊の火によって矯め治され、浄化されるべき部分が残っているのではないでしょうか。

各人の決断が、キリストによって心待ちにされています。キリストが投げ込まれた火を、あなたは喜んで受け入れますか。聖霊によって矯め治される機会を、喜んで受け入れますか。そのために聖霊に自分をすべて委ね、心を明け放つ用意がありますか。神の望みを行いの基準にしてこなかったこれまでの生活、素直にゆるしを願えますか。

 

すべては神に主導権があります。そのことをよくよく肝に命じて、聖霊の浄化を喜んで受け入れることができるよう、恵みを願いましょう。