主日の福音1992,08,09
年間第十九主日(Lk 12:35-40)
主の食卓
目を覚ましているしもべの報い

 今日の福音朗読のために、私は短い方を読みました。この短い方の朗読には、大切な教えをはっきり知らせるために、サンドイッチみたいな形で書かれています。いちばん両端の文は「……しなさい」と命令します。そのひとつ内側の分は、「これこれのことを守る僕は幸いである」と僕に必要な態度を紹介しています。
 そしていちばんまん中、サンドイッチの中身は、イエス様がルカを通じていちばん言いたいことです。「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。イエス様から幸いと言われた僕たちは、将来神の国の宴会の時には、今までとは正反対に、神様から給仕をしてもらって、おいしい食事をいただくことになるのです。
 神様から食事の世話をしていただいて、ゆっくり食事をするなんて、とってもぜいたくな食事ですね。いちばんすばらしい方に、いちばんすばらしい料理を出してもらって、「ゆっくり食べてくださいね」と声をかけられながらの食事です。ここには書いていませんが、神の国にはいることのできた僕たちは、その日から毎日、こんな豪勢な食事をするのではないでしょうか。
 こんな幸せに与ることのできる人に、私たちもなりたいですね。そのためには、ここで説明されている勧めを、まずはよく理解して守っていなければなりません。二つ書かれています。一つは「いつでも主人を喜んでお迎えすること」、もう一つは、「主人がいつ来てもいいように、普段からよく準備していること」です。
 最初の勧めは、主人に仕える人の心構えについて尋ねています。「あなたはいつも、主人である神様を喜んで迎えるつもりですか?」この質問に「はい、もちろん」と答えるためには、よい心掛けが必要です。たとえば、「私は神様に養われているから、今とても幸せです。神様にいつも見守られていることはすばらしいこと」というふうに、神様に養われていることを心から感謝している必要があります。神様に、「どうしてこんな忙しいときにやってきたんですか。もっとひまなときに来ればいいのに」という人の心には、感謝の心、神様をいつも喜んで迎える心はありません。
 次に、「主人である神様がいつ来てもいいように、普段からよく準備していること」についてです。これは、はじめの「神様を喜んで迎える心」とつながっています。神様は私たちが考えていなかったときによくやってきます。そのときに「どうぞ、どうぞ」と迎えるためには、普段の準備が大切なのです。
 神様は考えもしなかったときに「こんにちわ」と言ってやって来ます。それは、公園で遊んでいるときかも知れません。みんなで話し合っているとき−たとえば平和について−かも知れません。もしかしたら反対に、ラジオ体操をふざけていて、シスターに怒られているときかも知れません。ミサに与っていて、おしゃべりをしているときかも知れない。
 そんなときに神様と出会ったら、「イエス様、どうしてこんな時にやってきたの?」と思うことでしょう。いつやって来るか、私たちには分かりません。神様が決めたとき、決めた場所に、私たちのところにやってきます。「弱ったなぁ」ということがないように、神様が喜ぶように私のおこないを整えなければなりません。
 「ぼくがこんなことをしているときに神様が来たら、神様喜んでくれるかなー」「私たちがこんなことを話題にしているときに神様がやってきたら、喜んでくれるかなー」こういう気持ちで、一つ一つの出来事を、神様に喜んでもらえるように準備していったら、いつ神様と出会っても困ることはありません。反対に、びっくりするけれども、その驚きはすぐに最高の喜びに変わることでしょう。
 今日は八月九日、四十七年前の同じ日に、たくさんの人の命を奪った原始爆弾が落とされた日です。本当に、たくさんの人が、無理矢理に命を奪われました。神様のもとに、この日一日で何千人という人が召されたのです。今日の七時半のミサでは、原爆で亡くなった方のために、心を込めてミサが捧げられました。
 私たちは、今、無理矢理に命を奪われる心配はありません。それは本当に幸せなことです。けれどもこの幸せは、すべての人が守られなければならないことです。原爆で亡くなった人だって、本当は誰からも命を奪われてはならなかったのです。でも実際に、四十七年前には、一つの爆弾で何千人もの人の命が奪われました。私たちは、与えられている私の命を、本当に感謝しているでしょうか。
 本当に、与えられた命を大切に思うなら、すばらしい命だと思うなら、感謝の心を態度で表しましょう。神様が与えてくださった私の命を使って、神様の喜ぶ行いをしてみましょう。皆さんはミサに与っていますから、心から聖歌を歌い、祈りを大きな声で言って、神様を賛美・礼拝しましょう。また、私たちのためだけでなく、命を無理に取り上げられた人の分も、私たちが代わって賛美することにもなります。
 私たちがそのようにして神様からいただいたものを感謝するときに、神様はついに、私たちが神の国に召されるときに、神様にお世話してもらって、食事の席に着くことになるでしょう。神様が私たちに、腕をふるって食事を用意してくださいます。私たちは、その神様の真心に、お腹がいっぱいになるのではないでしょうか。