主日の説教 1991,08,11

年間第十九主日(Jn 6:41-51a)

み言葉を聞く

あなたも、イエスに呼ばれている

 

今日の福音は、わたしたちに「み言葉を聞く耳」があるかどうかを考えさせてくれます。「み言葉を聞く耳」は、信仰生活を正しく導くためにぜひ必要な感覚です。イエズス様のみ言葉に耳を傾け、「わたしの耳は遠くなっていないか」確かめることにしましょう。

 

はじめに登場するユダヤ人は、イエズス様の言葉を聞いてつぶやいたとあります。「つぶやく」というのは、イエズス様を信じない態度、受け入れない態度の表現です。同時に、イエズス様に心を閉ざし、自分で理解できる世界に閉じ込もる原因にもなっていきます。

イエズス様はこのような閉鎖的な態度を打ち破ろうとします。「つぶやき合うのはやめなさい」。信仰の道にはいること、神様との出会い、交わりにはいるためには、「つぶやく人の態度」と正反対の態度が求められるからです。すなわち神に心を開き、神の導きに身を委ねることです。

先週、群集という呼び方で紹介された人々は、信仰の道に入り、神と出会うためには、自分たちが何かをすればそれでこと足りると考えていましたが、今日、イエズス様によって、正しい答えが示されました。「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」。このイエズス様の招きの言葉を皮切りに、イエズス様の呼びかけは、人々と一定の距離を置いたものになります。目の前にいるはずの群集も、ユダヤ人をもさほど意識させないのです。

 

具体的に、どのように招いているのでしょうか。次のようにおっしゃいます。「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」「わたしは、天から降ってきたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」。・・・・・・普通に考えて、目の前に聴衆がいるときに、このような言い回しはしないと思います。この記事を残したヨハネのねらいは何でしょうか。

ヨハネは、この福音を読み、聞いて味わう当時の教会共同体のことを意識して、このような表現を用いたようです。すなわちイエズス様の招きは、イエズス様の時代のユダヤ人だけにとどまらず、すべての人に向けられていることを示そうとしたのでしょう。ヨハネがあてた共同体の人々が、このメッセージを他人ごととして受けとめないように、むしろ「自分たちの問題」として受けとめることを願っていたのです。

 

まったく同じ問題意識を、今日の説教者は、皆さんに持ってほしいと思っています。イエズス様のメッセージを、あなたも受けとめてほしいのです。一人ひとりが「父から聞いて学んだ者」であってほしいし、「永遠の命を得る」者、「永遠に生きる」者であってほしいのです。

例をあげましょう。ミサの時に歌う聖歌を、皆さんはどのようにとらえているでしょうか。歌にこめられた祈りの言葉、信頼や委託、賛美と感謝の言葉を、「味わった」という体験をお持ちでしょうか。わたしは一度だけ、そのような深い体験をしたことがあります。

 

三年前のことになりますが、わたしは同級生9名とともに、スータンを着ることが許されるようになりました。盛大な式の中で、スータンを着衣するわけですが、みことばの典礼に答えて歌う答唱詩編に、「神わが牧者」という歌が選ばれていました。詩編の言葉はもう忘れてしまいましたが、答唱は「神わが牧者、われに乏しきことあらじ」という文語調の詩だったと思います。

スータン着衣の式は、神学校の年中行事のようなものです。「神わが牧者」という歌も、着衣式の時には必ず歌われていました。ですから、以前は特別な感想ももたず、ただ一生懸命歌ったという記憶しかありませんでした。それが、いざ自分が着衣を受ける者となり、参列者に見守られながら歌ったとき、「聖歌を歌うって、こういうことなんだ」という感激をおぼえたのです。

「神わが牧者、われに乏しきことぞあらじ」。わたしが着衣を受けるときの心境は、これとは正反対でした。「自分は本当にこんなお恵みにあずかっていいのだろうか。なまけて準備を怠ったあのこと、このことに目をつむって、祭壇に上がっているわたしは、いったい何者なんだろうか」。第一朗読が始まっても、まだ不安と心の葛藤で気後れしていたときに、「神わが牧者」の歌が聞こえてきたのでした。

不安を振り払いたい。その思いに駆られて、祈るように、また自分に言い聞かせるつもりで歌いました。「神はわたしの牧者。わたしは乏しいことなんかない」。このときほど、歌う内容が自分に向けられた招きであり、これに応えることが期待されていると感じたことはありません。それ以来、聖歌に対する姿勢が180度かわったように思います。

 

呼びかけを真剣に受けとめる。この態度はわたしたちの信仰生活を豊かなものとします。はじめにも言いましたが、わたしたちはみ言葉を聞く耳を養わなければなりません。イエズス様のメッセージは、どこか遠くの人に向けられた者ではないのです。心を開き、導きを喜んで受け入れようとする人々のものなのです。その最も大切なものとして、ミサ中に朗読される聖書の言葉によく耳を傾けましょう。きっと、その中に、さまざまな招きがあることに気がつくでしょう。

あるいは、聖歌を歌うとき、詩編の言葉に耳を傾けましょう。わたしたちの生活の、声にならない祈りを、詩編の中に見つけることでしょう。詩編の歌は、人間の喜びと悲しみの極みを、みごとに歌い上げているからです。

最後に、典礼聖歌の「呼ばれています」という歌を思い出してください。次のような詩です。「呼ばれています、いつも。気づいていますか、いつも。はるかな遠い声だから、よい耳を、よい耳をもたなければ」。この歌、他人行儀な受け取りかたをしないようにしましょう。呼ばれているのは、あなたなのです。