主日の説教 1991,08,04

年間第十八主日(Jn 6:24-35)

イエスと出会う

的外れな出会いとならないために

 

今日の福音では、イエズス様を捜し求め、ようやく見つけた群衆が、イエズス様と対話する場面が描かれています。群衆からイエズス様にいくつかの質問が向けられますが、群衆の質問は、どれも的外れなものばかりだったようです。

イエズス様はこれに対して、二度も「はっきり言っておく」と前置きをして、群衆の的外れな要求に釘を刺しておられます。イエズス様を捜し求める人、イエズス様を追い求める人のあり方は、もっと別な所にあると言いたいのでしょう。

わたしたちも、今の社会にあって、イエズス様に教えを求め、イエズス様を慕って集まる神の民であります。信者として生きるためにイエズス様にすべてをいただかなければなりませんが、もしかすると、当時の群衆のように、イエズス様に的外れな要求をして、あいも変わらず「そうではない、こうなのだ」と釘を刺されているのかも知れません。

当時の群衆と、今のわたしたちに、同じような傾向があるとすれば、福音を子細に読み返し、謙虚に本来のあるべき姿を見つめることは意味があります。イエズス様から「それはいい質問だ」と言われるような、神様の望みに自分を合わせる姿勢を探ってみることにしましょう。

 

はじめに、イエズス様の言葉によって考えてみましょう。群衆はイエズス様を捜し求めました。それは「イエズス様によって」養われるためです。ところが、同じ「イエズス様によって」であっても、イエズス様は超自然のいのちを生かすことをねらい、群衆は自然のいのちを生かしてもらうことを求めて集まっています。両者には真の出会いがなく、すれ違いに終わります。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」。したがって、勝手な思惑を抱いてイエズス様を捜しに行っても、手厳しい答えが返ってくるばかりです。むしろ苦労してイエズス様のもとに集まるのであれば、「いつまでもなくならないで、永遠のいのちに至る食べ物のために」活動すべきです。「イエズス様によって」養われるべきなのは、神の子としてのいのちなのです。

 

加えて、群衆は「イエズス様によって養われる」ことの意味をはっきりとつかむことができません。彼らにとって、イエズスさまは、かつてのモーセのような預言者、「神に仕える者」と映ったようです。「イエズス様によって」養われると言っても、また不思議なしるしをして、パンを食べさせるという程度の理解しかありませんでした。ご自身を食べ物として与え、おんみずから民を養うとは、夢にも思っていなかったのです。

これに対しても、イエズス様はきっぱりと答えます。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降ってきて、世にいのちを与えるものである」。

イエズス様によって腹を満たしてもらうのですか。そうではありません。イエズス様によって別にパンを準備してもらうのですか。そうでもありません。わたしたちはイエズス様によって神の子のいのちを養われ、イエズス様ご自身がパンとなってくださるのです。これらのことがわかっていないと、イエズス様を捜しに出かけても、目の当たりにしても、出会うことなくすれ違ってしまうのです。

 

まちがった前提のもとに推理をした場合、どのような結論が導き出されるか、おおよその見当はつくでしょう。どんなに綿密な推理を立てても、前提となることがらが不確かであれば、正しい結論を得ることはできません。イエズス様と向かい合う群衆は、ことごとくあやまった前提から出発して、イエズス様とは誰か、推理しようとしています。これから、群衆の言葉に注目してみましょう。

 

今日の福音で、「そこで彼らは」という書き出しで始まる部分は、群衆があやまった前提をもとに推理していることをよく表しています。いずれも、自分の行い、自分の業によって救いに到達しようというものです。「神の業を行うためには、何をしたらよいですか」「わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。

イエズス様は群集が導き出した結論にひとつひとつお答えになります。すなわち人間の努力がどれほどあっても、それだけでは、神と出会うこと、救いに至ることはできないことを繰り返します。大切なことは、わたしたちが心を開いて、神を受け入れること、神がお遣わしになった者を信じることなのです。

 

群集の態度は、イエズス様の指導によって、少しは良くなったのでしょうか。どうもまったく効果がなかったようです。群集は平然と「主よ、そのパンをいつもわたしにください」と要求します。イエズス様は多少忍耐を切らして答えられたのではないでしょうか。「わたしがいのちのパンである」。

群集は最後の最後に、イエズス様の招く場所と、正反対の場所へと向かっていったのです。まるで、かけっこのとき「よーい、ドン」と言うが早いか、まったく反対方向に行ってしまった子供のようなものです。群衆が神と出会うための接点は、もうないのです。

 

このような結末は、あってはならないものですが、決してわたしたちに起こらないとも言い切れません。「家で寝とってミサに与れんかなぁ」このような画期的な結論に達した方がいらっしゃれば、その人はまさに、スタートの合図と同時に、イエズス様の招きと正反対に走りはじめた人なのです。

今日、幸いに、こうしてイエズス様に養われるために足を運び、イエズス様によって変えられようとしています。自分勝手な救いを描くのではなく、常にイエズス中心に信仰生活を考える、まともなキリスト信者になるよう、恵みを・・・・・・。