主日の福音1992,07,26

年間第十七主日(Lk 11:1-13)

主の祈り

父なる神は、子煩悩?

 

今日の福音で、イエス様は弟子たちに祈りを教えてくださいます。私たちが神様に祈り求めることを、神様がどれほど楽しみに待っておられるか、どんな心で私たちの祈りを待っておられるかを、しばらく考えてみましょう。

 

先週の水曜日から、小学生、中学生の黙想会が始まっています。私も、こんな大所帯の黙想会に参加するのは始めてで、本当に子供たちの迫力にあっとされました。

 

同じようなことを感じていたのは、今回の浦上教会の黙想に参加していた、他の小教区の子供たちです。聖堂できちんと手を合わせているので、感心な子供だなーと思ったら、何百人というお友だちの数に驚いている、他の教会の子供だった、という感じです。

 

これだけの人数がそろいますと、ミサのときの聖体拝領、赦しの秘跡のときの長蛇の列、どちらもすさまじい勢いです。

赦しの秘跡の順番待ちで、たまたま子供が一人あいだに入ってきたりすると、「ずるか!割り込んできた!」といって大騒動です。たとえ割り込んできた子供があったとしても、たかだか数分の違いなのですが、子供たちには大変な問題なのでしょう。押し合いへし合いして聖体拝領する姿も、ほほえましくすら感じました。

 

こうした子供たちの迫力を身近に体験するとき、今日の福音のみ言葉に実際に触れる思いがします。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。

 

これだけ一生懸命に秘跡に近づく子供たちを前にしては、さっきまで順番待ちで喧嘩していた子供たちであっても、いざ告白のために前にたつと、げんこつの一つでもあげたいと思っていたのが、結局は罪の赦しを与えているということになります。

 

聖体拝領の直前に、おしゃべりをするのには閉口しますが、いざ聖体拝領となると、おとなしく、あるいは子供にできる範囲でうやうやしく、聖体をいただきます。ビンタの一つでもはろうかと思うこともありますが、聖体を奉持している身です。なかなか、そういうわけにも行きません。

 

子供たちには、司祭の心を変えさせるだけの純粋さ、神様に近づこうという精一杯の気持ちがあるわけです。まさに、魚や、卵をほしがる子供に、父親が必要なものを与えてくださるように、ご聖体と、赦しの恵みに近づく子供にも、喧嘩に腹を立てたりする司祭をつかって、ご自分が与えようとするものを確実に与えていくのです。

 

小学一・二・三年生のプリントの問題に、「いつも、私のお話しを聞いてくれる人はだれ?」という問題がありました。私が受け持ったのは三年生の女子でしたが、圧倒的に多かった答えは、「お父さん、お母さん」でした。親に対しては、いろいろ聞いてもらいたいことがあるし、聞いてくれるという安心感もあるようです。人間の素直な性質として、神様はこの点をよく知っておられました。

 

イエス様は弟子たちに祈りを教えておられます。その最初の呼びかけは、なるほど、「父よ」となっています。この方に話を聞いてもらいたい、確かに、この方はいつも私の話を聞いてくれる。イエス様は「父よ」という呼びかけを神様にさせることで、私たちの心をごく自然に、神様の方に開こうと思われたのではないでしょうか。

 

祈るということは、神様を父として、親しく語りかけることだと説明されるイエス様は、この神様が、父として、私たちが体験することを体験するつもりであるとも教えてくださいます。簡単に言うと、「子供に煩わされる」ということです。父なる神様は、祈り求めるわが子に、煩わされることをむしろ喜ぶのです。

 

私は、やはり子供に煩わされるということが、どんなことか、分かっているようで、分かっていないだろうと思います。