主日の説教 1991,07,28

年間第十七主日(Jn 6:1-15)

しるし

その本当の意味を探る道具

 

今日朗読された福音には、ヨハネ福音書のパンの奇跡の出来事が取られています。今年は、周期としてはB年に当たり、本来ならマルコ福音書が取られるはずですが、あえてヨハネ福音書から、パンの奇跡の出来事を紹介しています。そこでわたしたちも、ヨハネ福音書の書き方に従った読み方で、パンの奇跡の教えを汲み取ることにしましょう。

 

ヨハネは、奇跡を通して教えようとすることが、ほかの三人の聖書記者とずいぶん異なっています。ここで十分な比較をすることはできませんが、ヨハネに関して言えば、かれは、奇跡を「イエズス様がだれなのか、人々に強烈に焼き付けるためのしるし」として用いています。

一般に、「しるし」と言うと、物事の本当の意味をよく表す何かのことを指しています。たとえば十字架のしるしも「しるし」と言われますが、これも、その行いが本当に表そうとしている意味を、よく示しているので、「しるし」と言われます。その意味で奇跡は「しるし」であって、間違っても人々を有頂天にさせたり、その人の権力を誇示したりするものではないのです。

 

わたしたちも、ヨハネの描く奇跡を読む場合、奇跡そのものに目を奪われてしまうと、本当に伝えたいことを見落としてしまいます。むしろ、「こんな奇跡をなさるイエズス様は、いったいだれなのか」、この点に注意して読む必要があります。では、わずかのパンを増やして、五千人をゆうに越える人々のお腹を満たされるイエズス様とは、いったいだれなのでしょうか。

 

結論から先に言うと、イエズス様はいのちの与え主、しかもただ一人のいのちの与え主であります。イエズス様は自然のパンを人々に十分与えることによって、永遠のいのちを養うご自分に注意を向けるよう促しておられるのです。

 

さて、ヨハネは、このようにして示されたイエズス様の姿が、どれほど人間にとって重大な意味をもつかを、いくつかのヒントを与えて考えさせています。

 

はじめに、今日の奇跡が行われた場所です。「イエスは山に登り、弟子たちといっしょに座られた」とあります。山はイエズス様が弟子を教育される場所であり、人々に重大な教えを説く場所でもあります。たとえば、イエズス様のからだが輝いたという変容の出来事は、山で行われたとあります。「心の貧しい人は幸いである」という教えで始まる「山上の垂訓」も、やはり山で示されました。パンの奇跡でも、やはり山が選ばれました。

次に、時間的な記述も、教えの重大さを考えさせます。「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」とあります。「過越祭」と言っただけで「ははーん」と思われた方もいるでしょう。イエズス様はこの時期を、ご自分の栄光を最高に現すときとお定めになり、死と復活を通してわたしたちを救われたのです。

 

ときと、場所。この二つの設定が、教えの重大さを際立たせています。イエズス様は、栄光を表すあの過越のときを念頭に置いて、大切な教えを説く時には登られた山に登ったのちに、「ご自分がだれであるか」を教えようとされるのです。

 

さてこれほど慎重に時間を選び、場所を設定して教えようとしても、肝心の教えを聞く側がそれに敏感に反応しなければ、徒労に終わってしまいます。当時の群衆は、イエズス様の期待もむなしく、あらぬ方向でイエズス様を受けとめ、地上の王にしようとさえしたようです。わたしたちも、注意しないと、「信じようとしない人々」の代表である「群衆」の側にまわることになります。あくまでも出来事を導くイエズス様、あるいは記事をまとめたヨハネの立場に立って意味を考えるべきです。そうしないと真実が見えないからです。

 

例をあげましょう。最近よくテレビで、「猿芝居」を見ることがあります。「反省」をするあの猿です。この猿、実によく訓練されていて、一つひとつの仕草が、わたしたちの心をくすぐることがあります。師匠が「みなさんにあいさつしなさい」と言えば、わざと寝そべってみたり、叱る動作をすれば、あたかも泣いているような動作をしたりします。たかだか「猿」の演技なのに、どうしてそこから泣き笑いを読み取ることができるのでしょうか。

それは、まぎれもなく、わたしたちが師匠の立場で猿を見る訓練ができているからです。猿がものを考え、反省するでしょうか。すねてみたり、傲慢さをからだで表現したりするでしょうか。それらはすべて、師匠の話の進め方にわたしたちが共鳴していることによるのです。猿はただ、訓練によって動作を仕込まれているに過ぎないのです。もし、猿の立場でそれを見ても、何の共感もわかないのではないでしょうか。

 

悲しいことですが、わたしたちは猿芝居が表そうとすることは敏感に読み取ることができるのに、福音書、特にイエズス様がわたしたちに示そうとする教え、メッセージには、しばしば鈍感なのです。そして今日たまたま鈍感であるだけでなく、鈍った感覚に慣れっこになることさえあるのです。「今日はわかるかも知れない」と言わずに「今日もわからん、だから明日もわからん」と言うのです。

 

イエズス様が示そうとされる本当の教えに、よく注意しましょう。あのとき、消えてなくなる食べ物を五千人の人に与えた方は、今日この日に、十億人はいるであろう信者にご自身が食べ物となっていのちを与えるのです。この恵みにわたしも招かれています。感謝のうちに拝領し、わたしたちの生活の中に、本当の王としてイエズス様をお迎えいたしましょう。