主日の福音 1993,07,25
年間第十七主日(MT 13:44-52)
神の国の宝
宝は、必ずある
今日の福音は、三週間にわたって続いた「天の国のたとえ」のまとめになっています。神様が私たちに用意しておられる、大きな宝を、私たちも手に入れるようにいたしましょう。
過ぎた日曜日と、その前の日曜日に、種を蒔く人のたとえが語られました。はじめはあちこちに種が蒔かれました。道端に蒔かれたり、土の薄いところに蒔かれたり、茨の生えたところに蒔かれたりしたという話がありました。それはつまり、神様の言葉を受け入れるか、受け入れないかにかかわりなく、神様はすべての人にご自分のことを知ってもらうチャンスを与えてくださるということです。
その次のたとえでは、良い畑に種が蒔かれ、途中で敵がやってきて、毒麦を蒔いていったという話でした。これもその意味を汲むと、神様の蒔いたみ言葉は、実生活で直面する悪や、不正のまっただ中にとどまって、それでも立派に実をつけていくということです。
この両方のたとえから、今の私たちの姿を描くとき、こんなことが言えると思います。私たちは紛れもなく、神様の言葉をいただいて、それを受け入れる決意をしました。このいただいた恵みを実らせるために、今の置かれた場所、置かれた環境を精一杯使うことが期待されているということです。
誰それがわたしの足を引っ張るからとか、あの人がいるからわたしは教会に行きたくないし、手伝いたくないとか、そんなもったいぶった理由ばかりを探すことではなくて、敵がいることは十分承知の上で、今の置かれた立場で、いっしょうけんめい自分を磨く努力をすることが、信仰者に求められているふさわしい態度です。
これらの用意ができているときに、今日の福音は一人一人の心をとらえる力を持って響いてくると思います。なぜなら、私たちのこのような「信仰を守り、育てていく努力」は、神様が用意してくださった「宝」を探すことであり、すべてに越えて尊いものだからです。
今日の福音で、イエス様が宝について語るときに、さりげなく言っていますが、大切な点があると思います。それは、「宝は必ずある」ということです。
「畑に宝が隠されている。見つけた人は、……持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。たしかに宝は隠されています。問題なのはそれを見つけるかどうかです。見つけた人は、それがどれだけ尊いかを知っていますので、なんとしても手に入れようとします。物語に出てくる人は、今自分が持っているものを全部手放して、宝を手に入れたとあります。
この態度を、私たちも自分のものとしましょう。神様が用意してくださる命、神様に私たちの心と体を向けさせる信仰、この生涯を神様の望みに従ってととのえる価値観など、これらを得るためには、惜しまずに協力しなければなりません。神様が用意した宝を得るために、出し惜しみをする何かがあると、結局宝を手に入れることができないわけです。
毎日の生活に神様がとどまって、神様に守られて暮らすこと。考えただけでもすばらしいと思いますが、そんな生活をちゃんと手に入れる方法があるのに、わたしが何かを出し惜しみすると、この宝を見失ってしまいます。たとえば朝と晩に、祈りをすることが、今の宝を得るために必要かも知れません。時間と、都合を、自分中心の考えからすっかり離れて、神様に合わせなければ、朝晩の祈りはできないと思います。持ち物をすっかり売るか、出し惜しみするか、ここにその境があります。
たまにはこんなことを言う人もいます。「よき臨終を迎えることができるように、神父様お祈りしてください」。お祈りはしますけど、わたしはよき臨終を与えることはできません。今から、すべてを売り払って、その得たいと思うもののために生活をととのえなければなりません。
教会に近づいてなかったなら、神様とみんなに赦しを願わなければなりません。生活が、わたしの望みを先にして、神様の望みを後回しにする毎日であったなら、一日も早くその生活から抜け出て、神様の望みを先にする知恵を身につけなければなりません。地区集会に与ったら、それが得られるかも知れません。
どうせ教会は受け入れてくれんとか、言ってもわかってもらえないとか、そう考える人がいるかも知れません。けれどもそれは、自分の方に明け渡したくない部屋が心のどこかにあって、その部屋にイエス様を迎えるのを渋っている証拠だと思います。イエス様はすべてを明け渡す人には、それ以上にすべてを与えてくださる方です。赦すと言ったときには、あの罪は赦して、この罪は赦さないといったけちな方ではなく、全部、あっと驚く罪でも赦してくださるのです。
わたしは、持ち物をすっかり売り払って、宝を手に入れる用意ができているでしょうか。いつも、寛大な態度を忘れないようにいたしましょう。神様が期待していることに、「今日はせんでもよかさ、明日明日」という事柄はありません。今日、神様に自分の持ち物をすっかりゆだねましょう。この態度の積み重ねが、神様の宝を失わないコツなのです。