主日の福音1992,07,19

年間第十六主日(Lk 10:38-42)

マルタとマリア

ひとりひとりに固有の呼びかけがある

 

今日の福音は有名なマルタとマリアの姉妹のお話です。そこで今回は、女性がイエス様によってどのような生き方に召されているか、女性の召命の問題について考えてみたいと思います。

 

鍵となる言葉は、最後のイエス様のみ言葉、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」です。日本語ではこのような表現になっていますが、ギリシア語の原文を見ると、「マリアは良い方を選んだ、それは取り上げられることがないだろう」となっています。

「なーに、たいした違いじゃないさ」と思われるかも知れません。ところがよく考えると、「それを取り上げてはならない」とすると、イエス様ははっきりマルタにこのことを指摘しているように受け取られます。そうではないと思います。もしそうだとすると、イエス様は「どちらの女性がよりすぐれているか」比較をしていることになるからです。

 

もしかすると、私たちもそのような読み方をしてきたのかも知れません。「マルタとマリア、どちらが偉いのか」。あるいは、「マルタに代表される活動生活と、マリアで表された観想生活と、どちらがどうなのか」そういった比較です。

残念ながら、そのようなピントはずれな興味は、イエス様にはないようです。むしろイエス様がおっしゃろうとしているのは、「女性にはイエス様からの根本的な召し出しがあって、それを選びとった女性は、よいものを選んだゆえに、取り上げられることがない」ということなのです。それを正確に反映させるためには、もともとの表現「取り上げられることがないだろう」とする方がよいのです。

 

そこで、イエス様が女性に呼びかけておられる根本的な召命について、考えてみなければなりません。イエス様は女性のどのような面を、神の国の発展のため、社会の福音化のために使おうとしておられるのでしょうか。

イエス様の二人への呼びかけを何度も読むときに、それが明らかになります。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」(vv.41-42)。何度も言いますが、ここでイエス様はマリアが偉いと言っているのではなく、「思い悩み、心を乱している」マルタも、「良いほう」を選ぶことができる、選んで、だれからも取り上げられない尊い生き方とすることができると言いたいのです。

 

具体的に、妹マリアは何を選んだのでしょうか。彼女は、「聞くこと、心を尽くして愛すること、神のみ言葉を心に保つこと」を選びました。イエス様が望めば、マリアも姉の手伝いをしたかも知れません。けれども彼女はイエス様を愛するために、おそばに留まるという方法を選んだのです。

先週、律法の専門家が、次のように言いました。「何をしたら、永遠の生命を受け継ぐことができるでしょうか」。それに対する答えは、神を愛すること、隣人を自分のように愛することでした。マルタとマリアにも、同じ機会を与えられましたが、マリアがイエス様の望みを察して行動したのに対し、マルタは「これがイエス様には必要なはず」と、自分の判断で行動したのです。

 

マリアの態度は、イエス様の御母聖マリアに通じるものです。「母はこれらのことをすべて心に納めて思い巡らしていた」(2:19,51参照)。女性はイエス様の望みを良く果たすために、み言葉を聞き、それを心に保つことで、神を愛するように召されているのです。

一つの例を紹介いたします。女性の召命を強く印象づけた三名の女性の話です。この三名は同じ教会に所属していて、それぞれの才能を生かして、教会学校のお世話をしていました。始めて三人を見たときは、感心だなーと、それだけ考えたのですが、この三人が抱いていた夢は、わたしの想像をはるかに越えていました。

 

彼女たちに会って一年くらいしてからでしょうか。三人のうち一人が、修道女になる決意をしました。高校生や中学生ではありません。すでにそれぞれの生活の場をもっていた方々です。わたしはびっくりして、「嘘でしょう?」と言いました。彼女はほほえむだけでしたが、心は平安に満たされているようでした。

「不思議なもんだなー」と思いつつ、しばらく時が過ぎました。すると、風の頼りで、あのときの三名のうち、また一人、修道会に入ったという噂を聞きました。「まさか」と、今度は思ったのですが、どうも嘘ではないらしい。神様のなさることはさっぱり分からない、そういう感じさえしました。

それからまたしばらくあって、わたしは−率直な感想を述べますが−できればあってほしくないと思っていたことを聞かされました。三番目の女性も、修道会に入ったというのです。「まさか」とか「信じられない」とか、そんな言葉では言い表せない驚きでした。むしろ神様に不平を言いたいくらいでした。「そんなことをするから、世の男性は信者でない女性を選ぶのですよ。分かってるんですか?」と。

「マリアは良い方を選んだ。それは取り上げられることがないだろう」。今お話しした三名の女性は、み言葉を最も良い環境で聞き、保つために、修道生活を選びました。なかには親に反対されて、逃げるようにしてでかけた方もいたと聞いています。皆さんはどうでしょうか。女性に求められている根本的な召命を、それぞれの置かれた立場で、忠実に果たしているでしょうか。イエス様に耳を傾けず、反対に心を散らしてしまうような態度をとっていないでしょうか。忙しさの中にあって、自己満足していることはないでしょうか。

 

幸い、今年の子供たちの黙想会のテーマは、「召命」です。女性になりつつある女の子たちが、今日のみ言葉を味わい、聖霊に照らされて一人ひとりの具体的な召命に想いを馳せることができるよう、共に祈って参りましょう。