主日の説教 1991,07,21

年間第十六主日(Mk 6:30-34)

休息

イエスの言われた休みとは

 

イエズス様は弟子たちに向かって、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休みなさい」と仰せになります。今日のイエズス様のみ言葉は、小学生、中学生、高校生にとって、自分たちの本分について考えさせてくれるのではないでしょうか。

福音書を、これまでよりも親しみを持って読むために、「み言葉が、自分にも向けられている」と考えて読むことは、しばしばためになります。今日は小学生にはちょっと難しいけど、中学生、高校生といっしょに、イエズス様が勧めておられる「休み」の本当のねらいを考えてみましょう。

 

イエズス様は、やみくもに「休みなさい」と言っておられるのではありません。イエズス様が弟子たちに声をかける前に、弟子たちの方から何かをしています。何だったでしょうか。それは、これまでの活動の報告です。神様を知らせるためにどんなことを行いましたか。神の豊かな恵みを知ってもらうために、何を教えましたか。そんなことを残らずイエズス様に報告しています。この報告を聞いてから、イエズス様は弟子たちに「休みなさい」とおっしゃいました。

ひと休みするために、弟子たちは人里離れた所に行きました。そこで弟子たちはどんなことを体験したでしょうか。それは、弟子たちを休ませてくれないほどの多くの群衆との出会いでした。弟子たちは群衆を見て何に気づいたのでしょうか。それは弟子たちに任せられている仕事はまだまだたくさんあって、神様の教えを聞きたい人、神様の恵みにあずかりたいたくさんの人が今もいるということです。このような流れの中で、「休み」の意味を考える必要があるでしょう。

 

以上のことを考えると、イエズス様が弟子たちに「休みなさい」と言われた理由がはっきりしてきます。弟子たちはイエズス様の期待によく答えて、福音宣教のために奉仕しました。次にイエズス様に遣わされるとき、またイエズス様の期待に応え、その実りを神様にお返しするために、休むことが必要だったのです。

もし弟子たちが、休まないで宣教活動を行っていたら、どうなったでしょうか。きっと弟子たちは神様のために働く喜びを失って、機械のような働きしかできなかったでしょう。あるいは、神様の助けで自分たちの活動が実を結んだことを忘れて、自己満足に陥ったかも知れません。これらの危険を避けるためにも、イエズス様は慎重に場所を選び、十分に休むことを求めました。

 

みなさんは、どうでしょうか。一学期中、イエズス様の期待によく応えたでしょうか。学期中の実りが神様の助け、支えのおかげだと気づいているでしょうか。もしかしたら、まったく正反対のことを考えていないでしょうか。

「自分たちには休む権利があるし、学期中はこれだけの結果を出した。休むのは当然なことだ」。もっともな答えですが、12人の弟子たちは、まず、イエズス様の期待によく応えました。さらに弟子たちは、宣教活動の実りを自分のものだと言わず、イエズス様に残らず報告しました。わたしたちは本当に、自分の才能だけで今学期を乗り切ったのでしょうか。神様の助け、支えはどこにもなかったのでしょうか。

 

何をするにも、神様の助けはとてもだいじなものです。そのことをよく教えてくれるむかしの人のたとえ話があります。

あるところに、一頭の牛を飼っている牛飼いがいました。ここの近くにも牛がいるそうですが、これは全然別の話です。この牛飼いは、「ほしい人がいたら、いつでも牛を譲ってやりましょう」と大見栄をはっていました。牛飼いはいつも、牛を譲ってくれと言う人に、あることを試していました。

あるとき、一人の人が牛をくれと言ってやってきました。そこで彼はいつものように言いました。「わたしの言うことができたら、いつでもこの牛をあなたにあげましょう。『めでたし』の祈りを、気を散らさずに三回唱えてみなさい。できたら、牛を連れていってよろしい」。その人は「なあんだ、簡単じゃないか」といってお祈りをし始めました。

「めでたし聖寵満ちみてるマリア、うーん、家にはまだ牛小屋がなかったなあ。帰ったらすぐに小屋を建てないといけないなあ・・・・・・。主御身と共にまします。そうだ、牛に食べさせる草はどこからもってこようか。あれはあいつが使っていた場所をそのまま借りればいいな、よっしゃ、これで準備は万端と・・・・・・」。

そうして「めでたし」の祈りを三度唱えてから、「約束の牛をもらおうか」と詰めよりました。結果はもちろん、お目当ての牛はもらえませんでした。

 

神様はわたしたちの努力を見過ごすことはありませんが、何でも自分の力でできると思い上がっている人を助けようとは思いません。そんな人は次の機会にも、自分の力だけに頼って、神様に努力の成果をお返しすることはないでしょう。神様の恵みに信頼して行動すれば、期待通りの成果が得られるのに、それをことわったために、いつまでも神様が期待している成果が表れないとすれば、その人の努力は、何と無駄なことでしょうか。

神様がわたしたちに期待している実りが、まだわたしたちのまわりにたくさんあります。わたしたちが神様の助けに頼らないなら、それはいつまでもつぼみのままでとどまるでしょう。イエズス様は、休みをとろうとする弟子たちに群がる群衆を、かわいそうに思っていろいろ教えられたと書かれています。彼らも、生きるために神様のアドバイスが必要だったのです。わたしたちも、今休むことで、神様の助けがどんなにすばらしいものかを、体験できるのではないでしょうか。

 

この忙しい現代社会にあって、日曜日を神様といっしょに休むことはたいせつなことです。ミサに与って一週間のお恵みを感謝し、これからまた、神様の期待している実りを結ぶことができるように、心を合わせて祈りましょう。なぜなら、わたしたちが神様にお返ししていく実りが、まだまだたくさんあるからです。