主日の福音 1993,07,18

年間十六第主日(MT 13:24-43、または24-30)

神の国の成長の鍵

欠点に目くじらをたてないで育てること

 

 今日の福音は、先週に引き続き、神の国の成長について、違った見方で私たちの準備をうながしています。今日は特に、たとえに登場する僕たちの言葉に耳を傾けながら、私たちの態度をもう一度見直すことにいたしましょう。

 

 僕たちは、主人が持っている畑を、実際にお世話する人々だと思われます。畑の持ち主が最初に号令をかけて、それにもとづいてたくさんの人が手伝い、収穫を分け合います。ですからこの僕たちは、畑にしばしば出向き、畑の様子を詳しく知っていたわけです。

 

 僕が目敏く、毒麦が現れたことに気づきました。この毒麦に関して、主人と僕の考え方がずいぶんと食い違っています。僕たちは、毒麦は今すぐに、根こそぎにしなければならないと考えています。ところが主人の方は、今すぐに行動を起こすべきではないと、僕たちを思い止めようとしています。

 

 「では、行って抜き集めておきましょうか」。この僕の答えは、主人が当然自分たちの考えと行動に賛成してくれて、それを許してくれるものと期待している、そんな雰囲気が込められています。僕たちは、あるいは、主人自ら、「わたしが行って抜き集めよう」と言うかもしれない。それには及びません、私たちがそのつとめを引き受けましょう、そんな気持ちで「抜き集めておきましょうか」と答えたのではないでしょうか。

 

 このような態度は、私たちのふだんの生活を考えさせる一つのきっかけになると思います。生活の中に悪が忍び込み、本来の姿を見失ってしまうことがあります。親と子の間、夫と妻の間に、隠し事が生じたり、疑いの気持ちが湧いてきたり、それが原因で気まずい雰囲気になったりすることがあります。

 

 では、それを指摘して、あなたが悪いからあなたの態度を改めなさい、と言ったとします。根こそぎ悪の原因を取り除こうとするのですから、これ以上手っ取り早い行動はないかも知れません。ところが実際は、それで問題が解決するのは、ごく稀なのです。

 

 たとえ話に登場する主人は、どのような指示を与えたのでしょうか。彼は僕たちの行動が間違っているとは言いませんでした。ただ、今はその時期ではない、ということを教えられたのです。すなわち神の国の完成のときには、善悪が明らかに裁かれるけれども、神の国が成長している今は、少しでも多くの収穫が得られるように、間違って良いものもダメにしてしまわないことが大事だと諭されました。

 

 何かを育てるというのは、非常に難しいものです。たいていのものは、育つには育つのですが、立派に育つかどうかはまた別の問題でしょう。よく学生時代に活躍したスポーツ選手が、プロになってどれくらい活躍するだろうかと楽しみに待っているけれども、待てど暮らせど名前が出てこないということはよくあることです。

 

 わたしは、高校時代に、夏の甲子園で優勝したある投手が、あまりぱっとしないプロ野球球団に行ったとき、ここだったらすぐに出てくるだろうと楽しみに待った経験があります。ところが三年経ち、四年経ちしますが、いつまでたっても一軍に上がってはきませんでした。つい二年ほど前に、やっとの思いで上がってきたと思ったら、迎えるバッターをちぎっては投げちぎっては投げ、きりきり舞いさせて、その日に初勝利を手にしました。彼は目に涙を浮かべて、こんなことを言っていました。

 

 「ぼくは、投手として優れたところもあるけれども、そうでないところもあるふつうの選手です。けれども育ててくれた人は、ぼくの悪いところではなくて、良いところを十分にのばすよう、お世話してくれました。小さくまとまらずに、荒っぽいけれど、力強い選手にして送ってくれたコーチに、感謝しています」。

 

 欠点がないと言うのをよしとするか、欠点は重々認めているけれども、この人のキラリと輝くものを伸ばしてくれるかは、育てる人の腕一つにかかっていると思います。そのためには、今は欠点を抱えているけれども、輝くものをもっているから、それに賭ける、そんな寛大さが求められると思います。たとえ話の中の主人も、収穫のときまで育つままにしたとしても、良いものから受ける喜びは、悪いものをぎりぎりのところで取り除くつらさを乗り越えてあまりあることを確信しています。

 

 私たちも、生きているものを任せられています。それは家庭であり、子どもであり、地区のみんなであり、小教区です。この生きたものを育て上げ、収穫を喜び合うために、良い種を蒔いて世話を任せられた神様の思いに倣うことにしましょう。互いの欠点については、神様よりも目敏く見つけるかも知れません。けれども、それを乗り越える良いものを、一人一人与えられています。それは忍耐、赦し、和解などです。大きな収穫が、私たちの欠点を乗り越えるほどに実りますように、ミサの中で祈ってまいりましょう。