主日の福音1992,07,12
年間第十五主日(Lk 10:25-37)
善いサマリア人
あなたは、「よき隣人」になっていますか

 

 今日、イエス様は、律法の専門家とのやりとりを通して、人が救いを得るために、具体的にどのような態度を期待されているかを教えてくださいます。イエス様の声をよく聞くことができるように、心を開いてみ言葉を黙想いたしましょう。
 初めに、律法の専門家の質問から考えてみましょう。彼はおそらく、七十二人の弟子たちを派遣するときの勧めを、いっしょに聞いていたと思われます。イエス様は具体的な指示を与えるけれども、先祖たちが大切にしてきた律法について、これといった指示を与えません。彼にはそれが面白くなくて、自分の質問に律法の箇所を使って答えてくれなければ、「この人は律法をなおざりにしている」と言いがかりをつけるつもりだったのかも知れません。
 彼は律法の専門家ですから、内心得意になって質問したことでしょう。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができますか」。イエス様は、質問にしかけられている罠を見事に利用して、逆に律法の専門家が返事に困るようにもっていきます。「律法には何と書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか」。
 もちろんイエス様は、この律法の専門家をいじめるつもりはありません。むしろ、「あなたが気に病んでいたその律法は大切なものだ。問題はそれをどう読んでいるかだ」と教えたかったのです。「あなたはそれをどう読んでいるか」。
 律法の専門家はイエス様の問いかけによってだんだん追いつめられていきます。イエス様が何か別の答えをするだろうと思えば、答えは律法の中にあると言います。そこで、「神を全身全霊をあげて愛することと、隣人を自分のように愛することです」と答えると、「その通りだから、それを実行しなさい」と答えます。言いがかりをつけるどころか、ますます自分の首を絞める結果になっていきます。
 ついに苦しくなって、次のように質問します。「私の隣人とはだれですか」。これは、「私は、律法をどう読むのか、知らないのです」と言っているのと同じことなのです。彼は、いちばん言いたくなかったことを言わされたのです。
 以上の点を押さえておくと、このあとの「善いサマリア人」のたとえが生きてきます。だれであれ、人はイエスに聞き従う用意ができてはじめて、み言葉に生かされることができます。もっとはっきり言うと、「私だけは大丈夫」という心のおごりを砕かれてはじめて、キリストの教えがその人を変えていくのです。
 そこでイエス様は、律法をどう読むべきか、すなわち、神の掟をどう受けとめ、それに対してどのような態度をとるべきかを示されます。結論から言いますと、律法の専門家が問うべきだったのは、「私の隣人とは誰か」ということではなく、むしろ、「どうしたら私は、人様の隣人になることができるか」ということだったのです。隣人を愛するために、「この人は隣人、あの人は違う」といった枠は役に立たないのです。
 私たちも問い直してみましょう。私の隣人とはだれですか。それは、今、私にできるお世話を必要としている人です。強盗に襲われた旅人を前にして、祭司やレビ人にも、それぞれ自分にできることがあっただろうと思います。けれども適当な理由をつけて−たとえば死者に触れることは宗教上けがれることになるといった理由で−世話することを断りました。「私の隣人」がだれなのかを知っているだけでは、愛の奉仕をするために不十分なのです。
 旅をしていたサマリア人はどうでしょうか。彼は、「この人の隣人となるために、どうしたらよいか」を知っていました。単純に、「見て、憐れに思い、近寄った」のです。彼にも、避けて通る理由はあったでしょう。ましてユダヤ人から軽蔑され、のけ者にされていたサマリア人ですから、傷の手当を受けた人から、逆に「サマリア人に助けてもらう筋合いはない」と罵られる可能性さえあったのです。ですが彼は、「この人の隣人となる」そのことだけを心掛けたのです。
 「どうしたらこの人の隣人となれるか」。それを試される機会はしばしばやってきます。つい何日か前のことですが、昼過ぎに松山競技場で走ってきて、ぐったり疲れて教会の丘を上っていたときのことです。小さい子供が二人、同じようにして丘を上っています。私とこの子供たちとで、こんなやりとりがありました。
「教会に行きよっとね」「うん」
「神父様は、なんばしよったと?」「走りよったとさ」
「ふーん」
「ねぇ、神父様、お菓子ばやろうか?」 
 このとき私は、「よかよ、いらんよ」と言おうとしていましたが、とっさに考えを変えました。「この子にとって私がしてやれることは何だろうか。『今は、いらんよ』と言うのは、これは大人の論理ではないだろうか」。そう思ったわけです。それで素直に、「うん、頂戴」と答えました。
 「神父様、おいしかろ。これ、下の店で買うたとよ。三個入って、三十円」。子供の嬉しそうな顔を見たとき、たぶん、頂戴と言ったのは間違ってなかった、そういう気がしました。そのお菓子は梅の味のするお菓子でしたが、今ばやりの言い方をすれば、「ほろ苦い」味がしました。
 福音のたとえに登場するサマリア人は、イエス様ご自身であるとも言われています。助けを必要としている人間を見て、憐れに思い、ご自身人となって近づいて来られます。人間を救うために、必要なすべての世話を尽くします。その上、「費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言うのです。この費用とは、人間に対する神の計り知れない愛なのではないでしょうか。
 私たちも、「どのようにしたら、人様の隣人になれるか」を問いましょう。その答えを見つけた私たちを、イエス様は喜んで派遣なさいます。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。