主日の説教 1991,07,14

年間第十五主日(Mk 6:7-13)

弟子の派遣

イエスは今も「弟子」を遣わす

 

今日、イエズス様は12人の弟子たちを近くの村に遣わします。福音を思い起こしながら、イエズス様の招きを、わたしたちはどのように受けとめ、そして受けとめたら、それをどのように生活に生かすのか、この二つの点について考えてみたいと思います。

はじめに、イエズス様がだれをお遣わしになったかを思い出しましょう。あたりまえのことですが、イエズス様はご自分の弟子たちをお遣わしになりました。それも、12人全員が遣わされました。では、現代の教会にあって、イエズス様はだれをお遣わしになろうとしておられるのでしょうか。

 

すぐに答えのでる人と、そうでない人がおられると思います。すぐに答えがわかった人は、おそらく「イエズス様は今も、ご自分の弟子すべてを遣わそうとしておられる」とお考えになったのではないでしょうか。すぐに答えがでなかった人は、真っ先に自分を「弟子」の枠から取り外し、それから「だれが当てはまるのだろうか」と考えたために、答えがでなかったのだろうと思います。これまたあたりまえのことですが、あなたをはじめとして、洗礼・堅信を受けたすべての人が、「イエズス様の弟子」であり、イエズス様によって今まさに遣わされようとしているのです。

「人の振り見てわが振り直せ」という言葉があります。この言葉、子どもの頃、おじいちゃんおばあちゃんによく聞かされまして、今もときどき思い返すことがあります。実社会では今でも生きつづけているようですが、残念ながら信仰生活ではほとんどかえりみられていないようです。たとえば、出血症の女に言われた「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を聞いても、「では信仰を土台にすえて生活してみよう」と心底考え直す人はあまりいません。多くの人が「それは聖書の中の話で、現代人のわたしたちには関係ない」と考えてしまうようです。

ほんとうに、聖書の出来事は、わたしたちと無関係なのでしょうか。もし無関係であれば、説教する人は何のために説教しているのでしょうか。

 

みなさんの中には、囲碁とか将棋とかの趣味をもっておられる方も多いと思います。これはだれでも楽しめるものですが、ある程度うまくなるためには、いくらかの定石を知っておく必要があります。私も小神学校にいた頃、教えてもらおうとしたことがありましたが、何も知らない私が、ちょっと動かすたびに、「それはいかん、そうじゃなかっていいよるやろうが」といわれ、いいかげん頭にきてやめてしまったという苦い体験があります。教えようとした先輩は、きっと定石をふまえた上で、そのときそのときの局面に合わせて「そうじゃない」と言っておられたのでしょう。けれども当の本人にはそれがまったく伝わりません。あのときもう少し辛抱していれば、とつくづく後悔しています。

ところでイエズス様は、弟子たちを遣わすにあたって、世間で言う定石を教えられたのでしょうか。あまりそのような形跡はみられないようです。ただ自分のもちものに頼らないように、出かけるときには手ぶらで行きなさいと命じられます。その本当の意味は、イエズス様に絶対の信頼をおいて宣教活動をしなさいという意味です。イエズス様に絶対の信頼をおいて宣教すれば、毎日のこまごましたことも、三度三度の食事も、出かけたところで世話して下さるというわけです。

日本に来た宣教師は、まさにこの精神でやってきたと言えます。こうすれば宣教はうまくいくのだ、こうすれば日本人は信者になるのだ、そんなイロハがあるわけもなく、ただイエズス様の言葉に信頼して、日本にやって来たのでした。彼らは、「杖一本のほかは何も持たず、パンも、袋も、帯の中に金も持ってはならない」という命令を、自分たちのために言われたこととして受けとめ、自分たちの才能を生かして、それぞれの実りを神様にお返ししました。

 

わたしたちはどうでしょうか。今日のイエズス様の呼びかけが、一人一人に向けられているということは、何となくわかってきました。それでもまだ、動き始めることを渋っています。何が私にとって「足かせ」となっているのでしょうか。わたしたちが心の扉を閉ざしている原因は何でしょうか。

やはりそれは、イエズス様の招きがだれのためなのか、確信がないからだと思います。多くの方が「ほんとうに自分も呼ばれて遣わされようとしているのだろうか」「いや、自分だけは違うんじゃないか」という気持ちがあるために、腰を上げようとしないのです。ハッキリと申し上げますが、イエズス様はあなたを、今日遣わそうとしておられるのです。

現代社会には、家庭が信仰以外のもろい絆で結ばれている例が山ほどあります。彼らはいつその絆が壊れるかわからないといった、不安な生活をしているのです。わたしたちはそこに遣わされています。もしかしたら、目に見える何かをすることができないかも知れません。けれども信仰の絆に結ばれて生きている家庭は、必ずまわりの家庭に影響を与えることができるのではないでしょうか。

また生きる望みを、この世にしかおいていない人がたくさんいます。自分の幸せだけを考えて生活し、人の生活には指一本触れない人がいます。わたしたちは、このような人々のために遣わされています。ミサにあずかることや、天国に宝を積むおこないが無駄ではないこと、人の幸せのために小さな犠牲をすることが無駄ではないことを、その人のために祈り、小さな奉仕をすることで、きづかせることができます。ですから「どうすればよいか書いてないから、教えてくれないから」というのは、今日を限りに理由にならなくなりました。

 

わたしたちはたしかにイエズス様に遣わされようとしています。宣教のための定石はありません。神父様も知りません。神様を知らないがために幸せにあずかれない人、その人のために私はどんなふうにかかわれば信仰の喜びを伝えることができるのか、あなたにできる何かがあるはずです。イエズス様はまさにそれを人々に伝えることを望んでおられます。チャンスを逃さず、効果的に伝えることができるように、そのための恵みと力を、ミサの中で祈ってまいりましょう。